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年月日未詳 / 冊子 298~299頁/原整理番号 337-5
原城方の女・童子は合わせて三万人に少し足りないほどで、残る者は各所で討死し、落城時の射撃や火災で焼失したとする記事。諸手が生け捕った者も首数に入れ、銃撃を受けた首や焼け残った首を女・童子までことごとく集め、落城の西深田で柵木に貫き、北向きに獄門へ掛けた光景を夥しいと記す。336-3冒頭の同趣旨記事より女・童子の概数が明示される。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 298~299頁/原整理番号 337-5
原城方の女・童子は合わせて三万人に少し足りないほどで、残る者は各所で討死し、落城時の射撃や火災で焼失したとする記事。諸手が生け捕った者も首数に入れ、銃撃を受けた首や焼け残った首を女・童子までことごとく集め、落城の西深田で柵木に貫き、北向きに獄門へ掛けた光景を夥しいと記す。336-3冒頭の同趣旨記事より女・童子の概数が明示される。
元弘三年六月日 / 冊子 612頁
二階堂三左衛門尉行久が、鎮西での合戦軍忠を申告した申状。薩摩国守護方の御手に属し、武蔵修理亮北条英時が籠る博多宿北門を攻め、合戦で生捕・討取を挙げたことを示し、急速な恩賞を求める。
元弘三年八月日 / 冊子 616頁
渋谷九郎平典重が、五月廿五日の北条英時誅伐合戦など二箇条の軍忠を申告した申状。戦場で分捕・生捕を挙げ、武藤筑後孫次郎・左近将監らの検見を受けたと述べ、恩賞のため参洛・奏聞を求める。
年月日未詳 / 冊子 752~753頁
天文六年二月三日、北郷忠相方が岩河の新城を攻め、生捕二千余人を得たことを記す。
年月日未詳 / 冊子 753頁
天文六年二月三日、北郷忠相が岩河新城を陥落させ、生捕二千余人を得たことを記す。
本文は5月1・13日、去月29・27・28日、当月4・5日への言及(書状発給日不記) / 冊子 318頁/原整理番号 449の3/整理ID 449-3
書状抜抄。筆者は五月一日に小倉で乗船し十三日に京都へ無事着いたと報じ、和州の中山侍従・浪士の情勢と紀州・藤堂家への別紙指示に触れる。浪華の一番隊村橋・四番隊櫻吉利が長府屋敷に取り合い、生捕を差し出すよう申し入れたこと、廿七日夜の入京、廿八日暁の川尻への出船の話を載せる。人質一人を差し出すか翌日砲臺を開けるとの交渉の由、当月四日伏見で一泊し五日に二本松屋敷へ戻ったこと、屋敷内の人員・砲や大坂屋敷の用意、浪士にも今は手段がないという見方を記す。各月日を整合のため変更せず、筆者の移動報告と交渉・浪人についての伝聞を区別する。
年月日未詳 / 冊子 729頁/原整理番号 758の3
十七日に人数を揃え、山に籠もる天草のキリシタンを生捕りにするため山狩りを行ったが、隠れた者はいなかったと記す。加世田衆四十人の配置と翌十八日以降の残る山の捜索に触れる。また伊地知重政が主従三十五人で加久藤勢を率い、羽月から米之津へ到着して指出により兵糧を受け取ったことを記す。末尾に衆中共同の差出とみられる旨の注がある。
年月日未詳 / 冊子 80頁/原整理番号 130-1
『寛明日記』六日条。城中の会津刑部・坂部源八・山田右衛門佐が有馬左衛門佐へ内通して謀反を企てたが、返矢文が別の番所へ射込まれて発覚した。会津・坂部は同夜成敗され、山田は拘束されて落城時に小笠原右近大夫へ生捕られたと記す。
年月日未詳 / 冊子 163~168頁/原整理番号 290
『平塞録』。二十二日、原城の一揆方が寄手諸陣へ夜討ちを行った。天草四郎が頭立を集め、芦塚忠右衛門・布津村代右衛門を松平右衛門佐陣、天草玄札を寺沢陣、上総三平・千々岩五郎右衛門を鍋島陣へ向かわせ、檜皮を用いる火付役も配した。各隊は柵を破って放火し、寄手は鉄砲・槍・太刀で応戦して追撃した。諸手から上使へ報告した最終集計は、討取首二百九十四・生捕二十四人である。
年月日未詳 / 冊子 172~175頁/原整理番号 293
出水士山本甚左衛門蔵本の「味方手負・死人之覚」。二月二十一日夜寅刻の原城方切出しに際する寄手側の討死・手負を、松平右衛門佐、黒田甲斐守、黒田市正、寺沢兵庫頭、鍋島信濃守らの家中別・人名別に列記する。味方損害の惣合は二百七十五人で、内六十九人を死人とする。続く「きりしたん首数目録」は松平・黒田・寺沢・鍋島・立花各手の戦果を掲げ、合首数二百九十二・合生捕七人と記す。味方損害と敵方の首数・生捕を別集計として扱う。
年月日未詳 / 冊子 175頁/原整理番号 294
『小川監物日記』。二十二日暁、有馬城方面に火の手が見えた。城から敵約三百人が出て柵を破り陣中へ放火したが、筑前衆・唐津衆・肥前衆が応戦し、敵を一人残らず討取または生捕にしたとする。一方、寄手側にも多数の戦死者が出たと記す。
年月日未詳 / 冊子 265頁/原整理番号 335-3
前掲の味方手負死人覚を総括し、落城後の生捕り処置を記す記事。二月二十七・二十八日の討死を1,126人、手負を6,950余人、合わせて8,086人とし、板倉主水・石谷十蔵らの郎等や諸国浪人の死傷は含めないと断る。前年十二月二十日・正月元日・夜討の4,917人を合わせ、寄手の討死・手負は一万三千余人とする。落城後に連行された捕虜四人のうち山田右衛門佐を松平信綱が尋問し、供述が落人の話と一致したため助命して有馬左衛門佐に預け、のち将軍の上意で江戸へ召し、信綱家臣としたという。
年月日未詳 / 冊子 267~296頁/原整理番号 336-3
原城落城時の死傷者を寄手諸家別・身分別に集計し、個人名を列挙した大部の名簿。冒頭では、落城時に討ち込まれた者、焼死者、生捕り後に首を刎ねられた者、女童部を含む焼け残りの首を集め、北面に掛けたと記す。続いて黒田甲斐守・同市正、鍋島信濃守・同紀伊守、細川越中守、有馬玄蕃頭、寺沢兵庫頭、立花飛騨守、小笠原右近大夫・同信濃守、松倉長門守、有馬左衛門佐、水野日向守、松平伊豆守、戸田左門、松平丹後守らの家中について、討死・手負を歩・家中侍等に分け、小計と氏名を記す。末尾は総人数6,780人、内訳を討死773人・手負6,007人と総括し、三数値は算術上一致する。全名簿頁を画像確認したが、全氏名の独立転記照合・異体字比定は未実施。
年月日未詳 / 冊子 308~309頁/原整理番号 339-4
一揆方から討ち取った首数を寄手別に記す覚。細川越中守手2,632首、松平右衛門佐手2,913首・鼻10、有馬玄蕃頭手1,380首・鼻1、鍋島信濃守手58首、寺沢兵庫頭手6首(ただし生捕の首)、立花飛騨守手2,637首・鼻268、松倉長門守手180首、水野日向守手85首・鼻28を掲げる。首数八明細の和は9,891首、鼻は計307で、両者を合算した10,198を本文の首数とは扱わない。
建武五年三月日 / 冊子 10頁/原整理番号 183
本田久兼が八幡・天王寺方面での軍忠を申告した文書。三月十三日に八幡で合戦し、大隅助次郎入道・東郷小三郎が見知、同十六日には天王寺安部野で敵二人を生捕り、高橋中務丞が確認したとして、後代の証拠となる一見状を求める。建武五年三月付。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 18頁
弘治元年閏十月二十四日、新城勢が横尾口に伏せたが敵に察知され、伏兵を包囲されたものの打ち破って全員無事に退却し、貴久父子が吉田まで出た。翌二十五日、吉田衆五人が蒲生横尾口で敵二人を討ち、十五、六歳ほどの童子一人を生け捕った。
永禄九年三月廿二日・四月廿日 / 冊子 145頁
永禄九年三月二十二日に伊東勢が目井へ陣を置いたことを記す。四月二十日、飫肥宮之浦の兵が海上で伊東勢と戦い、敵二十九人を討ち九人を生け捕り、合わせて六十三人を討ち果たし、船五艘を奪った。
天正六年四月十五日 / 冊子 591頁
豊後と日向門川の通路が自由にならないため、大友方は土持一族を討つと決め、四月十五日に大軍で梓山を越え、夏田の村社ヶ原へ陣を取った。門川から新名方面へ進んで南口から攻め、土持親成を生け捕りにして豊前へ流した。
天正八年五月十五日以後~天正九年二月下旬 / 冊子 654頁
天正八年に相良領の宝川内城を落とした後、敵が毎夜城麓を襲って警固が困難になったため、樺山忠助が入城して武略で退けた。翌年正月十一日には勇士を津奈木城麓へ忍ばせ、築瀬氏一人を討ち一人を生け捕りにした結果、襲撃が止み、二月下旬に陣を開いた。
十月十九日 / 冊子 599-600頁
黒田如水(円清)が伊那因幡へ、宮崎城を攻め取った働きを称え、徳川家康へ報告すると伝える。小倉を受け取った後に筑後へ進み、高橋・柳川・筑紫へ使者を置いて当月中に薩摩へ赴く予定を示し、捕えた島津家臣数人は使者に託して島津方へ返すよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 724頁
上方で不慮に生け捕られ、当国の慶事に関して往返した者が、島津家に害となる事柄を内外へ漏らさず、今後も伝えないことなどを誓う起請文の前書案。
9月(通知);昨27日の出来事への言及(年・発給日不記) / 冊子 318頁/原整理番号 449の4/整理ID 449-4
和州の賊徒追討を諸藩に命じてあったところ、昨廿七日に藤堂家の打手に托して浪士八九人ほどが浪華へ逃げ、その藩屋敷へ入ったとの話を受け、捕えた者を藤堂家の打手へ早く引き渡すよう命じる。長藩へその趣旨を伝え、藤堂と示談し、藩人数を浪華へ送って取り計らうよう求める。九月、発給者・宛名姓名と年日は不記。八九人は概数として保持し、八十九人や引渡し実行済み人数に置換しない。
年月日未詳 / 冊子 80頁/原整理番号 130-2
山田右衛門佐が諸大将の被官へ披露を求めた孟春下旬の矢文。四郎時貞らを成敗して乱を鎮めるため、切支丹方へ強制的に加わった百姓八百人を説得済みであるとし、城攻めの際に防戦を装って放火し、味方へ合流して小船で四郎を捕える計画を示して赦免を願う。
年月日未詳 / 冊子 398頁/原整理番号 509
寛永十五年、渋谷恕右衛門が足軽三人を率いて下り、公儀の囚人とされた皆吉長右衛門を召し捕ろうとした。長右衛門の父が島原籠城後に生け捕られ、吟味で息子が永俊に奉公していると白状したため、長右衛門の妻子五人を召し捕って鹿児島へ送った。当地からも宰領を付け、渋谷方に添えて差し遣わした。
年月日未詳 / 冊子 738頁
天文四年十一月二十九日、北郷忠相が北原氏領の志和池城下町を破り、首五、生捕百五十人を得たことを記す。
年月日未詳 / 冊子 80~81頁/原整理番号 131
『藤掛集書』。会津刑部・坂部源八・山田右衛門佐らの有馬方への内通計画が返矢文の誤射で露見し、会津・坂部が殺害され山田が拘束・生捕りとなった経緯を記す。山田の妻子の処刑、宗門による一揆勢の結束、二月に松平信綱が強攻を望んだ一方、江戸上使が兵の損耗回避を命じたことも述べる。