建部清綱譲状
文永四年十二月廿四日 / 冊子 264~265頁
建部清綱が子息へ所領を譲る文書。水田・薗・屋敷・山野などを郷・村・地名ごとに列挙し、東限・西限・北限・南限などの境界、段別の面積、親類への分与分を示して相伝させる。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
69 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
文永四年十二月廿四日 / 冊子 264~265頁
建部清綱が子息へ所領を譲る文書。水田・薗・屋敷・山野などを郷・村・地名ごとに列挙し、東限・西限・北限・南限などの境界、段別の面積、親類への分与分を示して相伝させる。
文永四年十二月廿四日 / 冊子 90~91頁/原整理番号 362
建部清綱が子息らに対し、頼綱得分の田畠・山野を記した一所帳形式の譲状。用松名・郡本の水田、屋敷・園地、松野・波伊・猪狩倉・小豆野などの山野を列挙し、頼親への譲与分や子息への所分、永年の領知を定める。文永四年十二月廿四日付。
年月日未詳 / 冊子 770~771頁
天文八年の紫原・蒲生城・市来城などの合戦で戦死した家臣を、日付・戦場・死因とともに列挙する。本村時貞、蒲生清綱、池上将監、伊地知新四郎らを収める。
年月日未詳 / 冊子 760頁
文禄の役において朝鮮で戦死・病死した島津家臣を、死亡日とともに列挙する。伊地知左近将監重治、佐藤太郎五郎家元、土持三九郎清綱、津曲小左衛門兼祐、北郷讃岐守忠虎らの最期を記す。 合戦死だけでなく陣中の病死も含み、朝鮮出兵が島津家中に与えた人的損失を一覧できる記録。
正元元年後十月五日 / 冊子 235~236頁
建部清綱が、水田・山野などを関係者へ譲り、正元元年後十月五日付で相伝・知行を認めた短い譲状。
建治元年十一月廿二日 / 冊子 283頁
建部清綱が孫子へ、西本薗三か所の田畠・屋敷などを譲る譲状。西本薗内の園伍か所と関係所領を配分し、相伝知行させる旨を定める。
正元元年閏十月五日 / 冊子 90頁/原整理番号 361
祢寝院司建部清綱が頼綱に、用松名の水田二町二段、郡本の水田二町、宮脇・教房居園・南入道居園などの屋敷・園地、松野・波伊・猪狩倉・小豆野など山野四か所を譲与した譲状。清綱存命中の公事負担と、没後の永代領知を定める。正元元年閏十月五日付。
建治元年十二月廿二日 / 冊子 91~92頁/原整理番号 363
建部清綱が鷹房丸に、園五か所、水田、葛蒲田などの田園を譲与した譲状案。各所の四至を記し、御佃米・府御領物や初任時の負担を定め、他の雑事を課さず永代に領知させる。建治元年十二月廿二日付。
発給/言上年紀:正元々年後十月五日 / 冊子 459頁/原整理番号 七〇六/整理ID TMP-P03-IKEHATA-JOJO-D0706
祢寝院司建部清綱が頼綱得分の田畠・山野等を譲与する。 用松名・郡本内田薗・山野四所などの段数、所在、四至を列挙する。 守護状に従う領知を認め、他人への沽却について「相本名天可令沽却」と定める。 仏神事役・御領物・御佃新入田・公事果役を本名弁内から五分壱天で勤仕し、用松名は加定とする。
発給/言上年紀:文永四年十二月廿四日 / 冊子 459~460頁/原整理番号 七〇七/整理ID TMP-P03-IKEHATA-JOJO-D0707
清綱の子息への譲与所帳として頼綱得分の田畠・山野等を列挙する。 用松名・郡本内水田薗・山野四所などの所在と領知、本名五分一の公事所当勤仕を記す。 件山野は頼親に譲り、請畠陸段内麦畠壱段所当を初任時に弁じる旨と、とよはらへの譲与を記す。 子息等に所分した田畠山野以外は嫡子清親が領知する旨を結ぶ。
記事成立日:未確認 / 冊子 176頁/整理ID TMP-P02-CONT-A10
弥二郎・三位中将・法名了本と記す系譜記事で、原頁の見出しは「清綱」である。 兄清忠の早世を記し、三男でありながら家督を得た旨を述べる。 小祢寝院地頭職への補任に言及する。 守護所の下文と刑部丞大江の在判を証拠として「證書記左」と導入するが、成立年月日は記さない。
記事成立日:未確認 / 冊子 27頁/整理ID KW1-G000007
菱刈曽木太郎重能が、大隅國祢寢南俣院の地頭職を押領しようとして訴えたとする系譜記事。 問注所の決断では、清綱が数通の証書を帯びていたことが根拠として挙がる。 当該地頭職を従来どおり清綱が領掌すると述べる。 詳細は嘉禄・寛喜年間の数通の文書に見えると案内し、後掲文書群を導入する。
記事成立日:未確認 / 冊子 29頁/整理ID KW1-G000008
兵部房圓遲という人物が祢寢南俣院名主職を訴えたが、その謂れがないとする系譜記事。 圓遲について、曾木太郎重能の弟とする小字説明を伴う。 清綱に関する事情は、天福・嘉禎・仁治・寬元・建長・文永年間の複数の書状に詳しく見えると述べる。 それらの書状を後覧のために備える旨を記し、後続文書群を導入する。
現行年紀:正元元年後十月五日 / 冊子 33頁/原整理番号 29/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0029
祢寢院司建部清綱が嫡子清親へ当院司・地頭職を譲与し、代々の調度証文等を併せ渡す譲状。 当院は清綱の先祖以来相伝・領掌してきた所であり、世間が不定であることを挙げて譲与を行うと記す。 清親の一期の後は、嫡子房丸が他の妨げなく当該職を譲り受けるべきことを定める。 後日のため証文を譲り与える旨を述べ、正元元年後十月五日の年紀と清綱の花押を伴う。
現行年紀:建治二年正月卅日 / 冊子 33~34頁/原整理番号 30/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0030
所従を嫡子清親、二男頼綱、建部太子、中子、三子、四子などの得分別に列記し、母子・父子・一類のまとまりや人数を添える。 久會御前、鹿房、虎妙御前、下主御前、初子御前、三男清助、藤原中子、矢藤太殿の得分なども記し、譲状に載らない者についての扱いを小字で示す。 竹母子の放免に「千歳一期程」の条件を付し、千歳丸への宛給や矢太郎の永代譲渡などの個別条件を記す。 抄帳の旨に従い各自相伝し、違乱者は譲られた田畠を領知できないとする一方、帳面に漏れた奴原は子息間で分ける。
文書日付:弘安三年九月八日 / 冊子 426頁/原整理番号 六五九/整理ID TMP-P03-NENESAITO-D0659
既房丸の所従等の耕作米田畠について「無妨可作」とする。所当米は本名に量り、雑公事は勤めない旨を記す置文。
正応四年十月十六日 / 冊子 364頁
大隅国祢寝院南俣内用松名と下直世村の地頭職を、亡父清綱の処分・譲状に基づいて相伝領知させる将軍家政所下文。
年月日未詳 / 冊子 509~510頁/原整理番号 25-2
清盛から基盛・重盛・宗盛へ分かれ、重盛―惟盛以下の系統から禰寝家へ至る系図。惟盛は元暦元年に27歳で入水したとし、その六代後の人物が建仁3年に薩摩国南俣院を給され、禰寝郡司を称して入道後は清重法師と号した由緒を記す。清重の系から清忠・清綱・行西を、別系として資盛―実盛―国盛―時盛および宗実を掲げる。付記では、平田家を宗盛の孫とする説を別の系譜から訂正し、野辺氏についても宗実の子孫とする系図説に対し、武蔵七党の横山党・小野姓とする証書があり宗実の子孫ではないと考証する。
年月日未詳 / 冊子 81頁/原整理番号 338
建部清綱から清親・清治・清保・清成へ続く祢寝氏系統と、頼綱・親綱・親政らの佐多氏系統を示す系図。大和寺、佐多内の田地・屋敷、水田、南俣の領知や、親から子女への所領譲与、『古佐多系』の分流を記す。日付欠。
正応四年十月十六日 / 冊子 92頁/原整理番号 364
将軍惟康親王家政所が、大隅国祢寝院南俣内の用松名・下直世村地頭職について、亡父建部清綱の正元元年・文永四年・建治二年の三通の譲状に任せ、先例を守って領知・沙汰するよう命じた下文。正応四年十月十六日付。
元亨二年七月七日 / 冊子 93~94頁/原整理番号 368
建部清元が祢寝弥次郎の母御前に、大隅国祢寝院南俣内の田地三反を譲与した譲状。田地は清元の重代相伝地で、母御前が清元の姪で忠節を尽くしたため、亡父清綱の譲状を副えて永代譲渡するとし、御佃米・府御領物などの公事負担を定める。元亨二年七月七日付。
現行年紀:二月廿日 / 冊子 177~178頁/原整理番号 272/整理ID TMP-P02-CONT-D272
大隅國正八幡宮御神領の神人清綱について、御家人として見参すべき事があり関東へ参向する旨を承知したと伝える。
現行年紀:仁治二年十一月〔一・括弧二配置〕日 補記(正文と別層):日付主字「一」の近傍に括弧「二」と丸印付き「八」。配置の読解・採用保留。 日付留保:日付主字「一」付近の括弧「二」・丸印「八」は併存配置。単一日数への正規化は未確定。 / 冊子 178頁/原整理番号 273/整理ID TMP-P02-CONT-D273
大隅國御家人祢寢院郡司清綱の折紙二枚を送付し、公事奉行について先例に任せ名主百姓等が郡司の催促に従う旨の下知を求める。 正八幡宮御放生會の陣頭役にも言及する。
現行年紀:寛元々年八月廿九日 / 冊子 178頁/原整理番号 274/整理ID TMP-P02-CONT-D274
祢寢南俣地頭清綱の折紙證文等が見参に入ったと伝え、兵部房圓運の先の訴えと提出證文に関する沙汰を記す。 「事切之條顯然」「賜身暇、可被下遣」の旨を述べる。
年月日未詳 / 冊子 151~152頁/原整理番号 35
紀内親王を祖とし、日下部氏を称し、海江田氏へつながる系図。阿多の征伐時に但馬国木崎郡八千町を賜ったこと、子孫が将軍に供奉して薩摩郡を給されたこと、清原天神との関係を由緒として記す。信種・信春以下の多数の支流を系線で示し、信種を二男とする注記、信家・信重、信春・信亮・信行・信実・信道、信定・信秋・信光・信景・信時、信森・信末・信吉・信永、信尚・信歳、綱重・栄信・義香以下の諸代を掲げる。末尾には綱富、綱寛、綱藤、綱保、信外記ら近世の子孫を載せ、綱藤を仲左衛門・吟味役・久志秋目地頭、綱保を仲左衛門とする。
記事成立日:未確認 / 冊子 25頁/整理ID KW1-G000005
清綱譜中の無番号記事で、承久三年辛巳三月二十三日に祢寢院司および地頭職となったと記す。 老父清重の譲状を左条に掲げると案内する。
記事成立日:未確認 / 冊子 25頁/整理ID KW1-G000006
後掲の証書群を案内する清綱譜の無番号記事。 貞應元年壬午八月の守護所下文と、同三年甲申四月十四日の証書を列挙する。 同年五月一日の北條陸奥守義時下知状、五月二十六日の北條武藏守泰時・同相模守時房の施行状、六月の寺家公文所下文等を挙げる。 これらの証書が後に備わると結ぶ。
元亨二年七月七日 / 冊子 485頁
建部清元が姪の祢寝弥次郎母御前へ、亡父清綱から相伝した祢寝院南俣内の田地三段を譲った譲状。田地の所在・坪付、府御領米二斗、御佃米一斗、御領物・肆疋、警固番役・井社国役などの負担を列記し、清元子孫の違乱を禁じる。
現行年紀:貞應元年八月 日 / 冊子 26頁/原整理番号 11/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0011
小祢寢院に対し、建部清綱を地頭職に補任する大隅國守護所下文。 清綱が清重法師の息男であり、父から当該職を譲与されたことを理由とする。 親父の譲りに任せて領掌すべきと命じる。 貞應元年八月の日欠の年紀と守護所刑部丞大江の花押があり、在口裏の文言も伴う。
現行年紀:貞應三年四月十四日 / 冊子 26頁/原整理番号 12/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0012
建部清綱を大隅國祢寢院南俣の地頭職とする関東下知状。 親父清重法師の譲状に任せることを根拠とする。 先例を守って当該職の沙汰をすべきと命じる。 貞應三年四月十四日の年紀と前陸奥守平の花押があり、正文在家藏の注を伴う。
現行年紀:五月一日 補記(正文と別層):(貞應三年カ) / 冊子 26頁/原整理番号 13/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0013
大隅國祢寢南俣院地頭職についての書状。 清重法師の譲状に任せることを述べる。 清綱に安堵の下文を与えた旨を伝える。 五月一日・前陸奥守の花押で、年には(貞應三年カ)との推定注がある。
現行年紀:貞應三年五月廿六日 / 冊子 26頁/原整理番号 14/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0014
大隅國祢寢院南俣地頭職についての六波羅施行状。 親父清重法師の譲状に任せ、建部清綱へ関東から安堵の下文を給預したことを述べる。 その状に任せて早く施行すべきと命じる。 貞應三年五月廿六日、武藏守平と相模守平の花押を伴う。
現行年紀:貞應三年六月 日 / 冊子 27頁/原整理番号 15/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0015
正宮公文所に対し、建部清綱を祢寢南俣院の地頭職とする寺家公文所下文。 親父清重法師の議状および将軍家から与えられた下文に任せることを述べる。 定められた年貢物等を怠りなく進済することを命じ、社家のため疎略にしてはならないとする。 貞應三年六月の日欠の年紀と、検校法印・左衛門尉中原ほかの署判列を載せる。
現行年紀:嘉祿元年八月 日 / 冊子 27~28頁/原整理番号 16/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0016
大隅國祢寢南俣院地頭職をめぐり、重能と清綱が提出した証書を比較した守護の下知状。 重能は故右大将殿の下文案・遠景入道の施行・遠江入道殿の下知状等を帯びたが、一方の申状だけでは裁断し難く問状を与えたと記す。 清綱側の証書を列挙し、建保五年に問注所で双方の証文を照合した対決の後に政所下文を得、貞應三年にも安堵された経緯を述べる。 これ以上の問注に及ばず、清重法師の男清綱が従来どおり領掌すべきとし、このほかの子細があれば糺すと留保する。
現行年紀:八月十二日 / 冊子 28頁/原整理番号 17/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0017
大隅國正宮御領祢寢南俣院地頭職について、曾木太郎重能が故右大將殿の御判御下文案を帯して訴えた経緯を記す。 先に疑いがあったため問い状を出したが、清重法師の子息清綱も代々の証文をもって訴えたとする。 双方の文書を披見し、故右大臣殿の時に対決・勘状・裁断を経て、前年に安堵の御下知状が出ていたことを挙げる。 その下知状に従って成敗する旨を伝える。本文は月日だけを記し、裏の日付に関する注記を伴う。
現行年紀:嘉祿元年八月十五日 / 冊子 28頁/原整理番号 18/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0018
大隅國祢寢南俣院地頭職について、代々の将軍家御下文の旨に任せ、祢寢次郎の子息房冠者清綱に領掌させる旨を施行する。 式部大夫殿の御下文を賜ったことを記す。 曾木太郎がこのほかに申し立てる子細については、尋糺すべきことがその状に記されているとする。 その趣旨を承知して施行するよう命ずる。
現行年紀:嘉祿元年九月 日 / 冊子 28~29頁/原整理番号 19/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0019
寺家公文所が正宮公文所へ下し、建部清綱を祢寢南俣院地頭職とするよう命ずる。 親父清重法師の議状に従い、関東の成敗状を賜ったことを記す。 恒例の仏神事役および御年貢物について、懈怠なく処理すべきことを求める。 社家のために疎略にしてはならない旨を述べ、長吏の仰せにより下知する。
現行年紀:寬喜元年十一月十一日 / 冊子 29頁/原整理番号 20/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0020
建部清綱が代々の御下文を帯して知行する大隅國祢寢院南俣地頭職について、曾木太郎重能の訴えにより双方を問注すべきことを記す。 重能は参上せず、智源三郎政茂が重能の譲状を得たとして関東へ参上し、問注を求めたという。 清綱は幼少で、一腹の舍兄伴太郎兼親も病気のため遅れており、政茂の上洛を挙げつつ、清綱を従前どおり安堵する。 重能がなお問注を望む場合は再び召し合わせる旨を示し、越後守殿の仰せとして執達する。
現行年紀:寬喜元年十一月十二日 / 冊子 29頁/原整理番号 21/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0021
大隅國祢寢南俣地頭職について、越後守殿御教書を受けて守護所が施行する。 御教書の旨に従い、建部清綱を安堵すべきことを伝える。 ただし重能が問注を望む旨を申し立てたときは、召し合わせるべきことを記す。 この趣旨を承知して参決するよう命ずる。
現行年紀:天福二年十一月九日 / 冊子 29~30頁/原整理番号 22/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0022
兵部房圓遲が訴える大隅國祢寢院南俣名主職について、訴状の折紙を送付する。 双方の子細を召し尋ねるためであると述べる。 相手の論人である清重法師の後家女と清綱らを召し進めるよう求める。 平右衛門尉殿に宛て藤原宗康が奉じ、袖の花押を伴う。
現行年紀:仁治二年十一月十二日 / 冊子 30頁/原整理番号 24/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0024
大隅國御家人祢寢院郡司清綱が、院内の名主・同名・百姓らが郡司の下知に従わないと申し立てたことを受ける。 清綱は当國祢寢院郡司職であると記す。 名主・百姓らが先例に背き、御家人課役、京・鎌倉参上用途、勧農時の農夫などについて郡司の催しを用いず、難渋させるという。 事実なら謂れがないとして、先例と今月一日の御下知の旨に従い郡司清綱の下知に従うよう命ずる。
現行年紀:寬元元年九月二日 / 冊子 31頁/原整理番号 25/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0025
兵部房圓遲が申し立てた大隅國祢寢南俣地頭職について、遠江入道殿の八月十九日付御教書の旨を伝える。 清綱の折紙証文等を上覧したことを記す。 圓遲には召符が出ていたが、今提出された証文等はたびたび沙汰を経て決着した事情が明らかであるという。 身暇を与えて下遣する旨を受け、御教書に従って安堵のうえ帰国させるよう命ずる。身暇・帰国の対象は、この箇所では名を挙げて示されない。
現行年紀:建長七年三月廿五日 / 冊子 31頁/原整理番号 26/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0026
大隅國御家人祢寢院郡司清綱が、直世村名主による郡司の催しへの不服従について申し立てたことを受ける。 折紙に事情を具書し、清綱が関東御下文および前守護遠江入道殿の御下知を帯することを挙げる。 子細を調べ、申し立てに相違がなければ、先例に従うよう下知することを守護代へ命ずる。 名主に弁明の趣旨があれば注進すべきことを併せて記す。
現行年紀:七月十一日 / 冊子 31頁/原整理番号 27/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0027
大隅國祢寢院地頭清綱の訴訟について、調べたところ特段の子細はないと記す奉書案。 調査を受けて下知を加えたことを伝える。 通世が七月十一日付で執達する。年次は本文にない。 口裏の文字を示す注記に、前□宰相中將殿と祢寢院地頭の訴事に関する語を掲げる。
現行年紀:文永五年七月 日 / 冊子 31~32頁/原整理番号 28/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0028
大隅國司の廳宣が留守所へ下され、祢寢院名主らに郡司清綱の催しに従わせ、新儀の違乱を停止するよう命ずる。 名主らが近年「村移」と号し、初任検注の際に限りある郡本役を免れるとする事情を記す。 新儀の違乱を止め、先例に任せて名主らが郡司の催しに従う旨を宣する。 官人らへ承知して違失しないよう求める。
記事成立日:未確認 / 冊子 32頁/整理ID KW1-G000010
清親譜中の記事で、正元元年己未後十月五日に嚴親清綱の譲りを受けたことを述べる。 祢寢南俣院司および地頭職を襲った旨を記す。 譲状が左に見えると述べ、後掲の29号建部清綱譲状を導入する。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):建治二年丙子正月三十日 / 冊子 33頁/整理ID KW1-G000011
建治二年丙子正月三十日の清綱抄帳を後に備え、読むよう促す。
現行年紀:正應元年九月廿七日 / 冊子 35頁/原整理番号 32/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0032
建部清親に大隅國祢寢南俣院地頭職を早く領知させるよう命ずる。 亡父散位清綱の正元々年閏十月五日付譲状に任せて、当該職を清親へ認める。 先例を守り沙汰を行うべきことを指示する。 将軍家政所の下文として、令・案主・知家事・別当等の名義を伴う。
現行年紀:文保元年九月五日 / 冊子 41頁/原整理番号 40/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0040
祢寢南俣郡司清保が求める、郡司・地頭両職と小河院国領等の安堵について、御教書への回答を述べる。 延慶年間の訴陳・御沙汰を経て、清治が正和三年九月十日の死去に際して嫡子清保へ両職を譲ったこと、同四年八月十七日に和与したことを記す。 清任は清親の譲状、清保は祖父清親・亡父清治の譲状を守り、互いに知行しているとし、清保の状を進上する。 公領か否かについては清綱・清親以来の関東御下文等を清保が進めたと答え、虚偽なら正八幡大菩薩の罰を受けると誓う。
現行年紀:六月廿八日 原資料の別掲注:貞應二年 / 冊子 176~177頁/原整理番号 271/整理ID TMP-P02-CONT-D271
大隅國祢寝院南俣地頭清綱が、名主等が所勘に従わないことを申した件についての御教書案である。 申状・具書を進覧し、子細が状に記されているか(「候歟」)、と記す。 散位時輔・陸奥守時茂の署判を記し、大炊御門殿へ進上する。 六月廿八日付。年は別掲注「貞應二年」による。正文有之・裏書署判の注を伴う。