島津義弘(惟新)書状案
(慶長五年)七月十四日 / 冊子 556頁
島津義弘(惟新)の書状案。本文はNo.1238と同文であるとして省略されている。
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(慶長五年)七月十四日 / 冊子 556頁
島津義弘(惟新)の書状案。本文はNo.1238と同文であるとして省略されている。
(慶長五年)七月十四日 / 冊子 556頁
島津義弘(惟新)の書状案。本文はNo.1231と同文であるとして省略されている。
(慶長五年)七月十五日 / 冊子 556頁
島津義弘(惟新)の書状案。本文はNo.1236と同文であるとして省略され、案文であるため御判がないとの注記がある。
慶長七年四月十七日 / 冊子 809-810頁
大工大夫が公文所へ提出した注文で、家中・御老中・諸国から下された馬・太刀・金銀・反物・食料・装身具などの品目と数量を列記する。贈答・下賜品の受納記録。
寛永9年8月5日 / 冊子 22~23頁/原整理番号 29
東表出陣時の第四備として、又八郎殿の備に昇百本・鉄砲五十挺・弓二十張・鑓三十本、軍役乗馬二十騎などを割り当て、知行高に応じた人数を定める。加治木・曽於郡・蒲生・本城・栗野・吉田・馬越など付属諸所の乗馬・人数を加え、総人数を積算する。
寛政8年4月9日(本文) / 冊子 121~122頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0373
中将の思召しによって御附御側役から加治木長年寺の正覺院様御霊前へ進納された銀100枚を備えるよう、寺社奉行所が長年寺へ達する書。寺は現状では維持が難しいと聞いたため、祠堂銀の趣意で納め置き、今後は余勢で取り続け、仏餉・勤行等を滞りなく執行するよう命じる。次頁に、右の通り久馬から鎌田源左衛門取次で命じられたので堅固に守り、後年住替えの際も厳重に引き継ぐよう指示する末尾を伴う。寛政8年辰4月9日、寺社奉行所印、長年寺宛。前371と同じ進納趣旨を伝えるが、寺宛達書として署印・日付・後年引継ぎを分けて記録する。
受取證:慶応4年辰二月22日、首尾:翌23日内田から伊勢殿 / 冊子 520~521頁/原整理番号 676の3/整理ID 676-3
金二万両、箱数十箱を納められ確かに受け取ったとする證で、慶応四年辰二月二十二日の会計事務局役所印の文字表示を伴い、薩摩少将家来永山左内宛とする。続く首尾注は、二十二日に二条城の太政官代会計掛鴨脚加賀へ面会・演説して差し出すと会計裁判役所で受け取るとされ、そこへ持ち越して木村東市祐の立会いで受領され、證書を渡されたと記す。この用務を留守居付役勤永山左内が勤めた旨を、翌二十三日に内田仲之助が伊勢殿へ首尾書で知らせたという。
慶長6年12月14日 / 冊子 343頁/原整理番号 130-32
慶長六年十二月十四日、伊集院川上次郎左衛門尉へ与えた加増名寄帳の抄録。入野村竹脇門以下の数行を省略し、加増高の合計を三十二石八斗と記して御支配所印を据える。正本は家蔵で、十三代河上忠宅の記事の頭注として掲げられる。
慶長11年正月19日ほか / 冊子 343~346頁/原整理番号 130-33
慶長十一年正月十九日付の切紙名寄帳抄。〔日か〕州久津良村の浮免坪付を省略し、合計一石四斗四合を衆中屋敷として返地したと記し、高岡御支配所印を据える。付随系譜の十四代忠辰は天正十三年生まれで、島津光久から三河守の名を賜り、家久の出馬に十八歳で馬廻として供奉し、寛永三年に上京した。光久の御題「春の雪」・菊・清見関の梅に応じた和歌を載せ、江戸で奏者番、日州代官役、与頭役を務め、寛文元年十二月十七日に七十七歳で没したとする。十五代久堅は元和六年生まれで光久の扈従となり、笹右衛門の名を賜って援役・与頭役を務め、元禄二年十一月十九日に七十歳で没し、子女・養子・婚姻・法名を列記する。十六代家寛は慶安三年生まれで、元禄八年に曾祖父忠宅が改めた源姓川上を上野守久尚へ返進して大蔵姓を再び継承し、援役・与頭役を務め、享保十一年正月二十四日に七十七歳で没したと記す。
天明三年九月九日 / 冊子 704頁/原整理番号 1983/整理ID 1983
松平薩摩守の帰国に際し、宿駅の人馬や川で支障がないよう、道中筋の御料・私領の宿々から薩州まで申し送ることを命じる触書。薩摩守は既に出立しているため昼夜を限らず急送して途中で追い越すよう取り計らい、各宿の請書を求める。天明三年卯九月九日付、半左衛門役所印、品川宿の問屋・年寄の記載を伴う。
天保5年3月晦日 / 冊子 994~995頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2732
大信院一周忌法事に際し、御臺が供養料として江戸大奥で内々に下賜した白銀五十枚と伽羅一箱の扱いを福昌寺へ申し渡す文書。御臺の名代による焼香の際に伽羅を納め置き、時々の仕持から差し上げるよう命じ、後年の仕替えの際にも堅固に継承するよう求める。白銀五十枚は御祠堂銀と同様に取り扱うこととする。天保五年三月晦日、寺社奉行所印、福昌寺宛。太守参詣時の供養品、伽羅の保管・使用、白銀の基金的取扱いを分けて記録し、実際の支出額や運用益は本文にないため補わない。
天保6年9月3日(正月三回忌法事に関する申渡) / 冊子 1009~1010頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2747
重豪公御譜中に掲げ、正文は福昌寺にある「覚」。大信院の三回忌法事に際し、御台所の内々から福昌寺の廟所へ供養料として白銀五十枚が差し越されたことを寺社奉行所が伝える。御台所が廟所へ参拝したことを踏まえ、この銀五十枚は御詞堂と同様に扱い、後年に住職が交代する際にも確実に次へ引き渡すよう命じる。天保六年未九月三日、寺社奉行所印、福昌寺宛。冊子1009頁下段に出典と「覚」の見出しがあり、本文・日付・宛先は1010頁上段へ続く。