承応三年甲午日記
年月日未詳 / 冊子 244頁/原整理番号 175
承応三年甲午の日記の一項。吉野で御馬追があったことを記す。
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年月日未詳 / 冊子 244頁/原整理番号 175
承応三年甲午の日記の一項。吉野で御馬追があったことを記す。
正保三年三月廿六日 / 冊子 243~244頁/原整理番号 174-9
正保三年三月二十六日付の書付。加久藤で新たな役席が設けられる際の座次や、飯野・馬関田など近隣諸所との関係をめぐる異議と相談を記す。従来の取決めや過去の例を挙げ、関係者間で確認して裁定するよう求める。
承応三年正月 / 冊子 494頁/原整理番号 627-3
島津光久が、代替わりに伴う幕府の符案を受け、従前から禁じるキリシタン宗門を改め、諸士・百姓以下まで御書出の賞罰を違えず守るよう制札を出す。この制札を分国内の諸外城まで立てたと記す。編者は『旧記雑録追録一』491号と同一文書と注記する。
承応三年正月八日 / 冊子 338頁/原整理番号 17
各所の差杉の残存数を調べ、苗木を植える場所と数を指定する。郷の役人が毎年の植付けを監督し、枯損した苗を補うよう命じる。
承応三年正月廿三日 / 冊子 339頁/原整理番号 20
差杉を山奉行所から配布し、現地の役人が植付けて数を報告するよう求める。苗が不足した場合の申出も指示する。
承応二年十一月 / 冊子 239~240頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0495
将軍代替わりに際して切支丹宗門の禁制を更新し、伴天連・いるまん・同宿等の訴人への褒賞額と、隠匿時に五人組まで処罰する方針を掲げた制札。翌承応三年正月、島津光久が領内の諸士・百姓へ遵守を命じた。
年月日未詳 / 冊子 241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0501
承応三年二月十七日に新納忠清へ殉死した者として、丸田元心・山下慶右衛門・金丸宇右衛門・牧山清兵衛を掲げ、大口衆または忠清家臣である旨を注記する記事。
年月日未詳 / 冊子 241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0502
大口士濱川小市丞の覚書により、新納加賀守忠清が承応三年二月十七日に死去し、寛永五年から承応三年まで二十七年間、大口地頭を務めたと記す記事。
年月日未詳 / 冊子 242頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0504
島津光久が承応三年四月十二日に帰国の暇を得て五月十日に江戸を発ち、鎌田政有を伴って六月二十八日に薩摩へ着いた。のち手川上野久運を江戸へ遣わして幕府へ謝礼の品を献じ、久運が拝領物を受けた経過を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 243頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0508
島津綱久の女子が承応三年七月十八日に生まれ、のち若狭小浜城主酒井忠隆の室となり、天和二年十二月十二日に江戸で二十九歳で没したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 251頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0534
某日記から、承応三年二月十七日に大口地頭新納加賀忠清が大口で六十歳で死去し、家来牧山清兵衛その他二、三人が殉死したことを抄出する。同年十二月に忠清の嫡孫新納次郎右衛門が大口地頭を命じられたことも記す。
寛文二年十月十七日(純正没・辞世)、慶長十二年~元禄十年(後続系譜記事) / 冊子 494~496頁/原整理番号 21-7
寛文二年十月十七日に八十歳で没した平田盛右衛門尉藤原純正の辞世と、純直・純音以下の後続系譜。純正は『今年今月今日今時今刻』と死の時を明記して歌を残し、法名を天心又玄庵主とする。孫の純直は外祖父壱岐加賀守幸則の養子となり、正保二年冬、遠流途中で谷山正泉寺に宿泊した島津大和守久章の警護を新納仁右衛門と担当した。久章が逃亡を企て、多数を斬って血刀を提げ堂前へ出た際、純直は急走して組み伏せ、左右の額・腕など三か所に深手を負いながら鎮圧した。承応三年に平田姓へ復し、万治元年から綱久に仕えた。清右衛門純音は吟味役・高隈地頭・光久納戸奉行・勘定奉行を歴任し、光久没後には遺物の紋付衣裳を賜り、平山元仲とともに遺骨を高野山蓮金院から墓所へ担いだ。鶴丸紋を連環形に略した純音の家紋、後裔の出生・婚姻・幼死・役職も元禄年間まで記す。
承応三年四月二十一日 / 冊子 233頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0477
大猷院家光の三回忌法事へ名代を遣わした件につき、参府時に暇を願って日光へ参詣するよう勧め、法事が無事済んだと伝えた連署状。
承応三年一月十九日 / 冊子 241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0500
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、翌朔日に光久が『御鏡』を頂戴する件につき、例月の御礼がないため登城不要と伝えた連署状。
承応三年二月二十七日 / 冊子 241~242頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0503
大口横目衆が、新納忠清死去後の地頭未定期間について、大口衆中へ当地の仕置に入念し、法度違反・喧嘩・地域の障害となる者があれば身分を問わず早急に届け出るよう命じた達書。
承応三年四月十三日 / 冊子 242頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0505
酒井忠清ら老中四名が島津光久へ、前年の内裏炎上後の再建に際し、先例どおり諸大名へ築地普請を割り当て、五万石以上には日雇人足を課す方針を示し、板倉周防守と相談して実施するよう命じた連署状。
承応三年五月二十三日 / 冊子 242~243頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0506
町田久則が、橋口七左衛門・長友主水・前田蔵人三人の禄高・屋敷を列記する。三人は新納加賀の大口地頭所で諏方采女が数年預かっていたが、今回大村地頭所へ召し移すので支配するよう、高奉行の高城喜左衛門・有馬治右衛門へ命じる。末に五月二十三日町田久則印、筑前・図書の印がある。
承応三年七月十四日 / 冊子 243頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0507
鎌田政有・新納久詮が国元家老へ、前日に公方の上使川勝丹波によって御鷹の雲雀を拝領したことを報告する。勝部長右衛門を少将のもとへ遣わし、国元でも披露すること、老中への御礼使者を手配することを伝える。雲雀を拝領した大名衆の書付を送って一覧に供する。
承応三年八月五日 / 冊子 243頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0509
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、八朔祝儀として使者を通じて献じた太刀一腰・馬代黄金十両を将軍へ披露し、満足されたと伝えた連署状。
(承応三年)八月十一日 / 冊子 243~244頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0510
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、日光の正遷宮が無事済んだとの報告と光久の慶賀使派遣を了承し、入念な対応を将軍へ上聞すると伝えた連署状。
(承応三年)八月十三日 / 冊子 244頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0511
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、将軍の機嫌伺いの使者を受けて健勝を知らせ、氷砂糖二壺と肴一箱の献上を披露して喜ばれたと伝えた連署状。
(承応三年)七月十四日 / 冊子 244~245頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0512
御鷹の雲雀を拝領した諸侯を九日・十一日・十二日・十三日の日別に列記した書立。紀伊・尾張・水戸の徳川家、松平陸奥守、佐竹修理大夫らを掲げ、薩州様は十三日の欄にある。七月十四日付で、丹羽左京から宗彦満に宛てる。
承応三年八月十八日 / 冊子 245頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0514
島津光久が琉球国司へ、前年の国頭正則による将軍家綱への賀儀と無事帰帆を述べ、今回の謝使屋富祖の派遣に感謝し、その趣旨を将軍へ報告したことを伝えた書状。
承応三年八月十九日 / 冊子 245頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0515
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、将軍の健勝を伝え、光久の帰国後に遣わされた使者と羅紗十間・三種三荷の献上を披露し、使者を御前へ召して入念な対応を喜ばれたと報じた連署状。
(承応三年)八月廿日 / 冊子 245~246頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0516
酒井忠勝が島津光久へ、将軍家綱の健勝と光久の六月二十八日の無事帰国を伝え、帰国御礼の使者・羅紗ならびに三種二荷の献上が披露され、使者も将軍の御前へ召し出されたと報じた書状。併せて忠勝個人への祝儀は当時受け取らない旨を説明した。
(承応三年)八月廿二日 / 冊子 246頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0517
神尾元勝が島津光久側へ、川上上野が八月十九日に将軍へ拝謁し、進物が酒井忠清により披露されたこと、二十一日に松平信綱から暇を申し渡され帷子・単物を拝領したことを報じ、詳しくは川上本人が説明すると伝えた書状。末尾に同年の写として用向きの下命を請う短文を併収する。
(承応三年)八月廿三日 / 冊子 246頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0518
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、先日その子薩摩守に上使から御鷹の雲雀が遣わされ、光久が恐縮している旨を承知したと伝え、謝意の使者を差し越した入念な対応を将軍へ上聞すると報じた連署状。
(承応三年)九月七日 / 冊子 246頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0519
徳川家綱が島津光久へ、重陽の祝儀として小袖五領が到来したことを喜び、詳しくは酒井忠清が述べると伝えた御内書。
(承応三年)九月廿七日 / 冊子 246~247頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0520
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、後光明天皇の崩御に伴い赦免が行われるため、諸国の在々所々でも趣旨に従って罪人を放免し、この期間は大罪を除いて赦すべき者があれば処置するよう命じた老中連署奉書。
(承応三年)十月廿二日 / 冊子 247頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0521
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が光久へ、紅葉山で先月十六日に正遷宮、翌十七日に将軍の参詣が無事行われたことへの賀意を了承する。使者を通じた樽肴の献上を披露し、一段の御仕合であったと伝える。
(承応三年)十月廿九日 / 冊子 247頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0522
伊勢貞昭が国元家老四人へ、御前様の御繁昌につき少将様から国府市郎左衛門を遣わし、書付どおり祝物を調えて披露したことを報じる。兄弟衆・一所衆・各相中の祝物も差し上げて喜ばれた。御姫様への祝物は国元の書立がなく相談して調え、高崎惣右衛門が詳細を取り扱う。隠岐守・河内守の奥方への祝物も調えた旨を付記する。
(承応三年)十月晦日 / 冊子 247~248頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0523
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、帰国時に遣わした使者が将軍の御前へ召し出され、時服を賜ったことへの礼状を受領し、その謝意で再び使者を差し越した入念な対応を将軍へ上聞すると伝えた連署状。
(承応三年)十一月五日 / 冊子 248頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0524
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、将軍の健勝を知らせ、光久の機嫌伺いに応じたこと、また息薩摩守の湯治の暇が許されたことへの謝意を了承し、その旨を将軍へ上聞すると伝えた連署状。
(承応三年)十一月五日 / 冊子 248頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0525
島津光久が中山王へ、将軍家綱の継嗣祝儀のため渡来した国頭王子が江戸で将軍に召し出され歓待されたこと、復楽が上聴に達したこと、国頭王子を伴い日光山の御元祖の社廟へ参詣したことを報じ、王の厚い敬信を将軍が深く感じたと伝えた書状。
(承応三年)十一月八日 / 冊子 248頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0526
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が光久へ、紅葉山御宮の造営に伴う正遷宮が無事済み、参詣も終えたことへの賀意を了承する。使者を通じた樽肴の献上を披露した旨と、入念な対応を将軍へ上聞する予定を伝える。
(承応三年)十一月十八日 / 冊子 249頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0527
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、後光明天皇崩御の知らせに接した深い悲嘆と、将軍の様子をうかがうため使者を差し越した入念な対応を了承し、その旨を上聞すると伝えた連署状。
(承応三年)十一月廿九日 / 冊子 249頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0528
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が光久へ、将軍は先月少々頭痛気であったが早速快然となり、その報を喜んで使者を差し越した旨を了承する。入念な対応を将軍へ高聴する予定と伝える。
(承応三年)十二月五日 / 冊子 249~250頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0529
島津家老四名が蓮金院の申し分へ答え、紀伊国内三十五石と薩摩国出水郡内百石の寺領寄附を示す旧証文二通を確認したうえ、寺の修営は寺領内で行うべきため通常の助成はしないが、先住以来の借銀の元銀五貫目は助成するとした覚書。今後は寺領収入内で人数・仏事を賄い新たな借銀をせず、島津家の祈祷と先祖の忌日供養を怠らないよう命じる。
(承応三年)十二月十二日 / 冊子 250頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0531
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が島津光久へ、御鷹の鶴を遣わしたことを知らせ、詳しくは光久の息薩摩守から伝えるとした連署状。
(承応三年)十二月十二日 / 冊子 250~251頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0532
伊勢貞昭が国元家老らへ、御鷹之鶴を今晩戌の刻に松平伊豆様方で受け取り、木場鉄之介を宰領として送ることを報じる。鶴の到着を早く報告すること、奉書と宿次手形を送り手形は返送すること、御礼使は佐多又四郎が取成すること、年頭使者は別格にすることを求める。末ノ封面には十二月の日欠字と、承応四年正月朔日に木場鉄之介が持ち下った注がある。
承応三年十二月十二日 / 冊子 251頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0533
御鷹の鶴を江戸から薩州鹿児島まで急度島津光久へ届けるよう命じた宿次手形の写。松平信綱・阿部忠秋の印判を据える。
(承応三年)十二月廿一日 / 冊子 251頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0535
酒井忠清・松平信綱・阿部忠秋が光久へ、寒中も将軍は勇健であると知らせる。機嫌伺いの使者とともに献じた御羽織五・御肴一箱を披露し、一段の御仕合であったと伝える。
(承応三年)十二月廿八日 / 冊子 251頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0536
徳川家綱が島津光久へ、歳暮の祝儀として小袖十領が到来したことを喜び、詳しくは酒井忠清が述べると伝えた御内書。
承応三年七月九日 / 冊子 422頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0875
川上久運が町田勘解由・島津中務へ、川上家が代々仕え、上野騎射の術を伝え、吉野原に牧を開いて馬を養育してきた由緒を述べ、老齢で遠方からの出仕が難しいため、吉野・吉田の地を拝領して移住し、騎射・大追物の伝授を続けられるよう取り成しを願った口上書。
承応三年八月三日 / 冊子 422頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0876
島津久茂と町田久則が、鹿児島吉野牧場の創設、吉野・吉田の適地への松・杉・檜の植栽、厩屋普請など馬の繁殖養育に尽くした功労を記し、先に中納言へ献上された土地等について今度上様から賜与する旨を証した連署証文。
承応三年十二月二十日 / 冊子 754頁
平山家が季久の二男忠康から近久・久丘・忠績へ女子相続を交えて正統に続くことを確認し、島津門族記録編纂に際して久正弟の座に定め、古譜を改め新譜を子孫へ伝えるよう命じた島津久守証状。