樺山規久譜
年月日未詳 / 冊子 74~75頁
天正十三年閏八月十三日の肥後堅志田城攻めで、樺山規久が敵兵と接戦した記事。牧之瀬筑前守・長田筑前守・緒方仲右衛門尉らが各一人を討ち、川添惣右衛門尉は規久の目前で負傷した。個人名と戦果・負傷を列挙し、規久隊の近接戦闘を具体的に伝える。
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年月日未詳 / 冊子 74~75頁
天正十三年閏八月十三日の肥後堅志田城攻めで、樺山規久が敵兵と接戦した記事。牧之瀬筑前守・長田筑前守・緒方仲右衛門尉らが各一人を討ち、川添惣右衛門尉は規久の目前で負傷した。個人名と戦果・負傷を列挙し、規久隊の近接戦闘を具体的に伝える。
慶長七年九月三日 / 冊子 844頁
白石豊三と同名惣右衛門尉に対する糺明に関連し、知り得た内密の内容を決して口外しないことを誓った起請文前書。違反した場合は神罰を受けるとする。
(慶長七年)九月三日 / 冊子 844-845頁
差出人不詳の覚書。前年十月に肥後へ派遣した両使、小伝次の企て、有方・左衛門尉らの動向、鹿児島での申し合わせ、使者や奉公人の処置、肥後宛書状の受渡しなど、内密の案件と関係者への申付を多数の条項に整理する。
年月日未詳 / 冊子 34~39頁/原整理番号 252
宮里惣右衛門家の系図。孝元天皇から彦太忍信命、屋主忍男武雄心命、武内宿禰、平群木菟宿禰・真鳥宿禰へ連なる系譜を起点に、宮里氏の諸流・婚姻・法名・奉公、薩摩・大隅での合戦や戦死、知行関係を広く注記する。
慶長七年九月三日 / 冊子 53頁/原整理番号 11
白石惣三・惣右衛門が礼を申し上げた件について、そこで知った隠密の事柄を口外しないと誓う慶長七年九月三日付起請文前書。本文は短く、琴月様の養子や上洛は条項に明記しない。
七月三日 / 冊子 136頁
差出人不詳の者が、三十余年前に仁礼右近を頼って御老中へ医道稽古のための暇を願い、許可された経緯を記した申状。島津家久から児玉筑後を介して懇意の上意を受けたこと、今回の下向に際して桂八左衛門・伊東次郎右衛門らを通じ再び訴状を提出し、国元での披露を願ったことを述べる。
明暦3年4月9日 / 冊子 588頁/原整理番号 631
『鹿籠案文中』所収の連署覚書。寛永十五年正月の喜入摂津守忠政による天草出陣時の物頭任命・人数召集を記した文書など五通と、御大追物御手組二十一人の書付を提出したことを伝える。
(承応三年)十月廿九日 / 冊子 247頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0522
伊勢貞昭が国元家老四人へ、御前様の御繁昌につき少将様から国府市郎左衛門を遣わし、書付どおり祝物を調えて披露したことを報じる。兄弟衆・一所衆・各相中の祝物も差し上げて喜ばれた。御姫様への祝物は国元の書立がなく相談して調え、高崎惣右衛門が詳細を取り扱う。隠岐守・河内守の奥方への祝物も調えた旨を付記する。
安永八年九月十日(年は目録の配列) / 冊子 573頁/原整理番号 1622/整理ID 1622
書状を拝見したと述べ、関所手判について家来二宮藤太左衛門・伊藤主左衛門が今後届けること、そのため印鑑を差し出してある件を承知したと返す。九月十日、久世出雲守の名乗判に廣明の小注を付す。宛先は松平薩摩守様で「御報」と記す。同欄の付記は、江戸へ女中を差し越す際の関所通行について従来は書面を送る先例であったが、今後は本文どおり届けを申し込んでおき、京都留守居から手形を申し出て受け渡す手続になると記す。所司代の交替又は留守居の転役等では書面の届けが必要であることを左中殿が承知し、二宮藤太左衛門を通じて出雲守の公用人山田惣右衛門へ内意を申し込み、以後の仕向きが替わる詳細を家老座へ知らせるとする。返書と付記の手続記録を区別し、付記の筆者は記されず、「本文之通頭御届」の語の係りは不詳である。先の申請書は伊東、本書は伊藤と姓の表記が異なる。
天明二年五月十四日 / 冊子 667~668頁/原整理番号 1883/整理ID 1883
西丸への御付上りを御本丸と同様に扱うよう命じられたため、御徒目付小尾清兵衛と相談する。西丸には当分手寄の御目付がいないため、筆頭御目付の新庄与惣右衛門へ頼むよう求められ、市田勘解由を通じた指示を受けて取次と御供の支障がないよう手配した経過を報告する。追記では翌日までの手配と当番御側役への別途申出を述べる。五月十四日付の渋谷五郎右衛門から左中様宛の首尾書で、前日の1882と別文書として保持する。
天明四年閏正月二十三日 / 冊子 733~734頁/原整理番号 2069/整理ID 2069
参勤のため国元を出立した重豪は道中を順調に進み、去る十一日に大坂へ着いた。支障がなければ来る二十八日か二十九日頃に江戸へ着く見込みだが、道中の進み具合を調整しにくく、定月より早い到着となる旨をあらかじめ届けるよう命じられた。渋谷五郎右衛門が久世大和守家の用人山田惣右衛門へ口頭で伝えたところ、定月よりわずか一、二日早いだけなので承知したとの返答を得た。天明四年閏正月二十三日、渋谷がこの経緯を申し出て主馬が承知した。先例では書面で届ける場合もあるため、口達だけで済まなければ指図に従って書付を出すと内談したが、今回は口達で済んだので、前日に渡されていた渋谷名義の書付を返上した。
文政2年3月19日(年は目録・前後記事) / 冊子 552頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1672
斉興公御譜中の記事。三月十九日、上使能勢惣右衛門によって、斉興に御鷹の鶴を賜ったと記す。下賜品は本文の御鷹の鶴であり、鷹そのものとは区別する。能勢惣右衛門は上使という役割で記される。年は目録・前後記事の文政二年による。鶴の羽数や下賜後の扱いは本文に記さない。
七月五日 / 冊子 21頁/原整理番号 6-8
鎌田政直が平田清右衛門へ、御記録草案が整うまでは筆者を入れないこと、蔵の受取衆を出勤させること、薗田里右衛門へ連絡すること、修理の件を高崎惣右衛門から御物座へ申し渡すことを指示した、七月五日付の達書。
元禄十三年十月十日 / 冊子 241頁/整理ID 822
喜入久亮・種子島久時・肝付久兼が延岡の戸村惣右衛門・久見崎吉左衛門へ、諸国絵図改訂に伴い、中川因幡守方から江戸の薩摩藩留守居へ届いた日向・豊後国境絵図と添付書類を使者に持参させたと通知した連署書状。詳しくは使者の口上で伝えるとする。
元禄十三年十月二十四日 / 冊子 245–246頁/整理ID 833
種子島久時・肝付久兼が延岡の戸村惣右衛門・久見崎吉左衛門・伴浅右衛門へ、日向・豊後国境絵図に関する返書を江戸留守居へ送ると答えた連署書状。指宿郡の船頭が難風で破船した際、延岡領尾末村の番人や村人が世話をしたことについて、関係者への礼を取り次いだ相手方の配慮にも謝意を述べる。
元禄十五年十一月二十三日 / 冊子 394–395頁/整理ID 1334
島津久明・久輝・久珍・久重が連署して戸村惣右衛門・九津見吉左衛門へ、江戸で調製を終えた日向国絵図の控を各担当者へ書き写して渡すと伝えた達書。領内分の絵図が広く年内に調わない場合は、翌春まで引き延ばして渡してよいと指示する。
年月日未詳 / 冊子 111頁
新納氏古日記の記事。五月朔日に島津光久が日光参詣へ出発し、伊勢貞昌・野村大学助・新納刑部太輔ら九名が供奉したこと、四日に登山して太刀一腰・馬代銀三十枚、神祭料金子一両、宮仕・八乙女への青銅、毘沙門堂門跡や各院へ銀子を進上したこと、六日に帰館して日光での勤めを終えたことを記す。
(寛文三年)正月九日 / 冊子 460頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1007
北郷家跡目の処置について、千世松の縁組・家相続案、北郷又次郎への早期申渡し、知行三百石や開地の手当、家中・被官の処置を検討し、関係者を召して上意を伝えるよう申し上げた文書。
(寛文三年)正月十六日 / 冊子 461頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1009
島津光久側が喜入摂津守に北郷跡と名字を仰せ付け、北郷又次郎には伝来刀・知行少分を与える案を伝えたところ、又次郎が辞退したため事情を聞き、代わって小杉宗文名跡を継がせ三百石などを与える案を示した申渡書。
(寛文三年)正月十八日 / 冊子 461頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1010
北郷跡を喜入摂津守へ仰せ付け、伝来刀・知行少分を北郷又次郎へ与える案について、又次郎の辞退理由をもっともと認め、付与を取り止める旨を伝えた申渡口上。
元禄十五年十二月二日 / 冊子 396–397頁/整理ID 1339
戸村愛忠と九津見定春が連署して島津大蔵ら四名へ、江戸で調製を終えた日向国絵図の控を各担当者に書写させ、翌春にこちらへ渡すとの通知を了承した書状。その内容を関係者へ伝えたと報告する。
元禄十六年正月十一日 / 冊子 409頁/整理ID 1383
戸村愛忠・九津見定春・伴良輔が島津大蔵ら六名へ、領内絵図の控が完成に近づいたため、十五日巳刻後に受取人を遣わすとの通知を了承した連署書状。念入りな取扱いに謝意を示し、絵図役人へも使者を送るとする。
元禄十六年二月十一日 / 冊子 414頁/整理ID 1403
戸村愛忠・九津見定春・伴良輔が島津久年へ、領分絵図控を引き渡すとの家老衆の命令を受け、使者を通じて連絡した連署書状。適切に引渡しを命じるよう頼む。
万治二年九月十八日 / 冊子 23頁/原整理番号 6-15
鎌田政直は、御記録方の机十面、箱入りの硯十面、明箱二十を御物奉行所へ返上し、程村紙の紙漉き枠一つは後命を待つよう返答した。清書時に書き損じた反古も焼かず、御書物と同様に保管するよう指示する。
万治二年十月二日 / 冊子 24~25頁/原整理番号 6-22
忠久自筆の譲状を提出した褒美の銀子五十枚について、亀山久運は内々の事情を他言し難いが上聞に達しないわけにもいかないと述べる。太守の下向時に事情を報告し、銀子を受け取る意向を示した請状。
万治二年十月三日 / 冊子 25~26頁/原整理番号 6-27
平田清右衛門が老衰して退いた後に御記録の手順を知る者がいなくなることを案じ、任命された三人の扶持米五石では勤続が難しいとして、御物座の筆者と同じ七石に増やす案を述べる。従来は四石から五石に引き上げた経緯も記し、町田源左衛門の申出を上申する。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
11月28日 / 冊子 428頁/原整理番号 401の1
十一月二十八日、善右衛門・為右衛門・彦二郎・惣右衛門の六端帆四艘について、舟頭を含む各八・八・八・七人の飯米を列記する。同日以後二十日分を舟頭一人一日一升、加子七合五勺で算用し、それぞれ渡すよう命ずる。舟頭各二斗、加子は七人の船に一石五升、六人の船に九斗を記すが、彦二郎船の加子七人分は「一石五斗」とあり、算用との不一致を保持する。
11月21日 / 冊子 386頁/原整理番号 354の7
七端帆一艘の船頭惣右衛門と水手七人へ二十日分の海上飯米として赤米を渡す送状である。
元禄十六年二月十一日 / 冊子 413–414頁/整理ID 1402
伴良錦・九津見定春・戸村愛忠が嶋津大蔵ら六名へ、三浦壱岐守領分の控絵図を渡すとの先の命令について、今回絵図方役人へ使者をもって申し入れたので、適切に引き渡すよう命じてほしいと頼む。二月十一日付。
年月日未詳 / 冊子 379頁/原整理番号 349の1
小松原から立てる船の船頭・浦水子を人別に列挙し、合計二十三人を天草一乱に赴く軍衆の乗船加子として請け取らせる送状である。水手の実名と人数を具体的に示す。
年月日未詳 / 冊子 445~447頁/原整理番号 423
原城一揆籠城の記録。寛永十四年十二月朔日から原古城を修築し春か城と称したとして、各郭の大将・軍人衆・奉行・使番・防火担当などの名と配置人数を列記する。兵勢二万三千余に童女一万余が加わったとし、防壁・銃眼・石や武器の配置、交替警備、矢文と火矢の警戒、四郎の巡回と法度伝達を詳述する。巻尾には高来郡などの村名を付し、一揆衆が在村の名を名字として名乗ったと説明する。
寛永15年正月20日 / 冊子 764頁/原整理番号 816
谷山衆有馬氏所蔵の、寛永十五年寅正月二十日肥前天草立人数の名簿。西田貞右衛門、有馬千兵衛純堯、東郷長左衛門重尚らの名を列記し、東郷長左衛門内の吉利覚右衛門も載せる。夫丸を含む総人数の集計はない。
元禄十六年二月十六日 / 冊子 416頁/整理ID 1414
島津久年が戸村愛忠・九津見定春・伴良輔へ、領分絵図控の引渡しについて家老から案内があり、吉村傅七が来訪したため、絵図・郷帳等の控を役人から滞りなく引き渡したと報告した書状。詳しい事情は傅七が伝えるとする。
元禄十六年二月十七日 / 冊子 417–418頁/整理ID 1418
島津久明ら六名が戸村愛忠・九津見定春・伴良輔へ、領分絵図控を受け取る者を差し向けるよう先に求め、今回その人物が来たため、絵図役人に命じて当該領分の絵図控等を引き渡したと報告した連署書状。詳しくは使者が説明するとする。
慶応元年・十一月廿九日 / 冊子 86頁/原整理番号 120
伊木七郎右衛門は本田惣右衛門へ、預かった素袍の紐を結んで返したことと、着用時の結び方の扱いを伝える。十一月二十九日付の返書。