川上氏支流系図
年月日未詳 / 冊子 898~899頁
川上忠高が人質として上方へ赴く島津忠清に随行し、伏見で忠清の病没に立ち会った経過を記す。 さらに川上忠虎の朝鮮病没後、幼い長千代丸が成長するまで北郷三久が家督を補佐し、のちに家を返した支流の成立事情を伝える。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
29 件 (全巻)/ 1–29件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 898~899頁
川上忠高が人質として上方へ赴く島津忠清に随行し、伏見で忠清の病没に立ち会った経過を記す。 さらに川上忠虎の朝鮮病没後、幼い長千代丸が成長するまで北郷三久が家督を補佐し、のちに家を返した支流の成立事情を伝える。
年月日未詳 / 冊子 175頁
京極忠高の家臣沖長門守道極が過失のため、本多正純の命を受けた山口直友の手配で薩摩へ護送され、島津家久に預けられたことを記す系譜記事。
(慶長十三年)七月十九日 / 冊子 175~176頁
慶長十三年七月十九日、山口直友が島津家久に、京極忠高家臣の沖長門守道極を薩摩へ送る件について、本多正純の書状と自身の書状を添え、事情を理解して受け入れるよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 479頁
喜入美作守忠高が寛永十二年三月五日に病死し、訃報を受けた島津家久が五月十四日に島津久慶の母へ自筆の仮名書状を送り、婿にあたる忠高の死を慰めたことを記す系譜記事。
(寛永十二年)五月十四日 / 冊子 479~480頁
島津家久が島津久慶の母へ、喜入忠高の死を悼み、突然の出来事で夢とも現ともつかない悲しみであろうが、帰らぬ道であるため心を慰め、親族にもよく言い聞かせるよう伝えた仮名の弔慰書状。
年月日未詳 / 冊子 480頁
島津久慶の妹で喜入忠高の妻であった女性が、忠高の死後の四月十八日に病死し、島津家久が久慶側へ弔慰書状を送り、書中で夫妻の死を繰り返し嘆いたことを記す系譜記事。
(寛永十二年)五月廿三日 / 冊子 480頁
島津家久が弾正殿の母へ、相次いだ夫妻の死で二人の子が両親を失った悲しみを述べ、西行の歌を引きながら世の無常を説き、嘆きを鎮めるよう勧めた仮名の弔慰書状。自身の帰国時期にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 474頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1052
島津忠高が、将軍徳川家綱の命により、父島津久雄の遺跡を継いだことを記す系譜記事。
延宝二年八月六日 / 冊子 634頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1565
島津忠高が島津市正へ、光久からの書状を受け、光久が帰国の暇を得て六月二日に出水脇本へ着いたことを祝い、船中で持病が出たものの同地で保養して快方へ向かい、ほどなく鹿児島城へ着く見込みだと述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 672~673頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1697
島津忠高が延宝四年八月十一日に江戸で死去する際、幼い子万吉(久寿)のため叔父島津主膳の嫡子を家督代として遺領を相続させたいと願い、祖父島津光久が使者を立てて許可を請うた経緯と忠高の略歴を記した記事。
年月日未詳 / 冊子 821頁
谷山郡司平忠高追討に際し、鹿児島近辺の兵粮を確保して波平へ布陣し、弟祐玄らを指揮して敵軍に備えた島津道鑑の軍事行動を記す。
(延宝四年)八月十四日 / 冊子 673頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1699
三枝守真が島津光久方へ、島津飛騨守忠高の死去を聞き、まことに残念であるとして、弔意を大隅守へ伝えるよう肝付弁に依頼した書状。
(延宝四年)八月廿七日 / 冊子 673頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1700
松平綱利が島津光久へ、同氏島津飛騨守忠高の死去を聞いて哀惜し、弔意を述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 677頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1717
島津忠高が死去し、嫡子万吉が幼少であったため、叔父島津主膳の嫡子又吉久寿を家督代として忠高の遺領を相続させ、万吉が十五歳になれば遺領を譲るという忠高の臨終願いが、島津光久の請願により幕府から許可されたことを記す記事。
延宝四年十月八日 / 冊子 677頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1718
稲葉正則ら老中三名が島津光久へ、島津忠高の遺領を、実子万吉が幼少の間は島津主膳の子又吉久寿に相続させ、万吉が十五歳になれば違いなく譲るという臨終願いをそのまま認め、使者を差し越した入念な対応も将軍へ伝えるとした連署状。
年月日未詳 / 冊子 844頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2240
佐土原城主島津忠高の死後、惟久が幼少であったため、祖父島津光久の願いにより再従兄弟の島津久寿が成長まで家督代を務めることを幕府が許した経緯と、久寿家老松木左門らの家中騒動に触れた記事。
年月日未詳 / 冊子 858頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2294
元禄三年五月二十九日、惟久が登城して父忠高の遺領相続を命じられ、久寿が家督代を辞したうえで、惟久の相続地から三千石を久寿へ分知し、綱貴も登城して謝礼した記事。
寛政11年3月29日生(実は18日との注)、文化7年正月15日首途~11月22日老中へ稟告(本文) / 冊子 165~166頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0531
近秘野帥の斉宣公御子、忠公の系譜。忠高とも書き、小字寛次郎、若狭から出雲・駿河に改め今は山城と記す。寛政11年3月29日に芝邸で生まれたとするが、実は18日との注がある。母を丹羽長貴女と記し、実母中根半平正房女、その母の名曰於~の細字と寛政8年2月12日卒の注を付す。文化7年正月15日首途、2月9日芝邸を発し温泉へ、4月9日鹿府着。27日に島津若狭忠貫の嗣子となり、11月22日に老中牧野備前守へ稟告した。忠貫には初名忠寛・後に山城・今は静河の注。出生の本文日付と訂正注、母の本文表記と実母注を区別する。
年月日未詳 / 冊子 309頁/原整理番号 274
『寛明日記』。十一月三日、唐津の寺沢忠高留守居衆が裁判役となり、江戸で加勢人数を分けた記事。岡島・澤木・原田・並河・林・柳本・渡部・柴田らの組頭、石高、足軽人数を列記し、四日己巳の見出しへ続く。
(延宝五年)一月十七日 / 冊子 681頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1734
土屋数直が松平大隅守へ、島津又吉が飛騨守の遺領を相違なく拝領したとの報告を承知し、使者派遣の入念の段を諸老中と相談して高聞に及べたと返答する。
慶安四年三月四日 / 冊子 190頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0374
島津忠高(初名久英、国久、又四郎、飛騨守)の系譜と、慶安四年三月四日に武州江戸桜田で誕生したこと、母方の系統を記す略系。
宝暦十年(日付不記) / 冊子 760頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2321
家重の右大臣転任と家治の右大将兼任を祝い、重豪は四月二十七日に老中酒井忠寄・松平武元、若年寄水野忠見・鳥居忠孝、御奏者・大目付・普請奉行・甲府城番・日光奉行らを芝邸へ招いて饗応した。観世・金春らが舞曲を奏し、松平定静・定温、鳥居忠高、柳生俊満、島津久柄ら幕府の士や親戚・旧知ももてなした。五月六日と十一日には知己の諸侯を招いて宴席を設け、任官を祝った。
寛永14年11月7日 / 冊子 312~313頁/原整理番号 281の2
寺沢忠高領の天草郡で先月二十八日以来、切支丹宗門へ立ち返った百姓の村々を別紙にまとめて急報する三宅重利書状。寺沢方の軍勢を唐津から海路で急派したこと、江戸へも注進することを述べ、十一月七日付で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 311~312頁/原整理番号 279
『寛明日記』。五日、寺沢方の軍兵が唐津を出船したことを記す。前日に出船できなかった理由を武具・馬具・玉薬などの用意によるものとし、六日辛未の記事へ続く。
寛永14年11月7日 / 冊子 313頁/原整理番号 281の4
天草郡内で切支丹宗門に立ち返った村々の目録として、大矢野・上津浦・下津浦・大島子村など十三か村を列記する三宅重利書状の別紙添書。人数はおよそ千二、三百人で、両所へ集結したとし、十一月七日付で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 314~315頁/原整理番号 283
『寛明日記』。七日、寺沢方軍兵が四十八里の海路を経て富岡籠城へ向かい、海上の悪風により九日に着岸したことを記す。続いて『寛永軍徴』巻之五下の表紙と、十一月八日から十四日までの収録範囲注記を載せる。
平安末~近世の記事(承久兵乱・寛元4年12月4日等) / 冊子 445~452頁/原整理番号 14
桓武天皇・葛原親王・高望王から国香・貞盛らを経て指宿氏へ至る平姓の長大系図。良時(伊佐平次)が武蔵国から薩摩へ下向し、阿多郡領を与えられた由緒を記し、三浦平大夫為通、鎌倉・三浦諸流との系譜を介して薩摩の諸家へ展開する。各系線には鎮守府将軍、伊予守・駿河守・隠岐守などの官途とともに、指宿本地頭、頴娃本地頭、薩摩郡本地頭、河辺本地頭、谷山郡司、水方名主、祁答院郡司等の職名を付す。承久の兵乱で京方に属したため河辺を没収された久道、兵乱時に戦死した者、市来や和泉で討死した者、鎌倉より薩摩守富澄討伐に下向して戦死した者など、中世の軍歴・所領喪失を系譜に織り込む。指宿・頴娃・薩摩郡・河辺・谷山・加治木・肥後菊池・阿多等へ枝分かれした多数の子孫について、通称・地頭職・郡司職・養子・婚姻・戦死を記し、近世の指宿郡司忠秀、加治木新六實平妻らまで系線を延ばす。
年月日未詳 / 冊子 822頁
和泉忠直が谷山郡司平忠高追討のため波平へ進み、鹿児島の兵粮・通路・警固を整えたのち、青屋松原で敵と交戦した経過を詳述する。忠直方は松原で待伏せを受けながら速やかに隊列を整えて勝利し、敗走する敵を追撃した。
年月日未詳 / 冊子 297~298頁/原整理番号 337-2
『藤掛集書』所載の、原城落城に伴う二月二十七・二十八日の寄手側手負・討死人数覚。細川越中守忠利、黒田右衛門佐忠之、黒田甲斐守直澄、同市正高政、鍋島信濃守勝茂、有馬玄蕃守豊氏、立花飛騨守宗茂、松倉長門守勝家、小笠原右近大夫忠真・同信濃守長次、水野日向守勝成、有馬左衛門佐直純、寺沢兵庫頭忠高、戸田左門氏鉄、松平伊豆守信綱らについて手負・討死を列挙する。末尾は都合7,970余人、内訳を手負6,820余人・討死1,150余人とし、内訳和は総数と一致する。335-2・336-3の集計とは数値・範囲が異なるため統合しない。