島津家久譜
年月日未詳 / 冊子 278~279頁
島津家久が種子島左近大夫忠時の室・息女へ仮名書状を与え、忠時一族の代々の奉公と忠勤を賞したこと、忠時が家蔵の硯・茶壺を献上したことなどを踏まえ、種子島中の公領四千石を忠時へ与えたと記す家久譜の記事。
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年月日未詳 / 冊子 278~279頁
島津家久が種子島左近大夫忠時の室・息女へ仮名書状を与え、忠時一族の代々の奉公と忠勤を賞したこと、忠時が家蔵の硯・茶壺を献上したことなどを踏まえ、種子島中の公領四千石を忠時へ与えたと記す家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 514頁
島津氏二代忠時の子・忠総が庶腹のため家督を継がず、薩摩国牛屎院、谷山郡山田村・上別府村などの地頭職を得て山田氏を称したこと、越中国布施保を軍功の賞として与えられたことを記す山田氏系譜。
年月日未詳 / 冊子 517頁
山田氏十二代久武が永禄三年正月二十四日に生まれ、山田忠時に家統を継ぐ子がなかったため猶子となったこと、実父は上総介忠通であることを記した系譜。
年月日未詳 / 冊子 533頁
島津氏二代忠時の子忠綱を祖として、忠秀・忠大らの官途と子孫を記した宇宿氏系図抄。
年月日未詳 / 冊子 533頁
島津氏二代忠時の六男・大炊助を祖とし、その子孫に羽月の士彦右衛門尉久光がいると記した阿蘇谷氏系図抄。
年月日未詳 / 冊子 625~628頁
久景流の久雲・久智・時央・時意の生没年と母方を記した後、新納忠臣の五男忠時を祖とする別支流へ移る。忠時の飫肥鴎峯での戦死、忠定が廻城主となり志布志落城後に守護方へ近侍したことなどを記す。
貞永元年閏9月8日 / 冊子 303~304頁/原整理番号 119-7
貞永元年閏九月八日、武蔵守北条泰時・相模守北条時房が在判し、豊後三郎左衛門尉島津忠時へ下した関東御教書。鹿島中務允康兼の郡司職に関する訴状を受け、相論の対決のため矢上三郎盛澄を召し進めるよう命じる。前掲系譜は二代康村を康兼とも称し、鹿島太郎・中務允として鹿島郡司・弁済使職、新田宮執印職を担い、迎阿の後夫であったとする。家蔵史料で、『旧記雑録前編一』366-1号文書と同一と注記される。
年月日未詳 / 冊子 96~97頁
島津忠時譜。忠時の生年・母系・兄弟、忠久からの家督継承、守護職と子孫の系譜を記す。
年月日未詳 / 冊子 121頁
『島津忠時譜』の記事。承久三年の兵乱で忠時が関東方に属し、五月二十二日に北条武蔵守泰時に従って鎌倉を進発したことを記し、関東書状の案文を後掲する。
年月日未詳 / 冊子 132頁
『島津忠時譜』所収の『東鑑』記事。承久四年二月六日、南庭で大追物が行われ、若君頼経が御覧になり、小山新左衛門尉朝長・島津三郎兵衛尉忠義らが射手を務めたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 132頁
『島津忠時譜』の記事。本文を「全上」と記し、前掲No.311と同じ南庭大追物の記事を重ねて掲げることを示す。
年月日未詳 / 冊子 138頁
『島津忠時譜』所収の『東鑑』記事。貞応二年八月十三日、若君の近習を六番に編成し、一番近習番の構成員として島津忠義が選ばれたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 157頁
『島津忠時譜』所収の『東鑑』記事。安貞二年七月二十三日、将軍家が駿河前司義村の田村山庄へ渡御し、辰刻に御出、供奉四十八騎の中に島津忠時が加わったことを記す。
仁治三年七月二日 / 冊子 178~179頁
島津忠時が薩摩国新田宮所司神官の申状を受け、神王面破損と下手人究明について、検校法印の給預と尋問を経て処置し、結果を進上する旨を請けた文書。
年月日未詳 / 冊子 191頁
島津忠時譜所収。寛元四年、忠時が入道大納言家の経御帰洛に供奉し、路次十五騎のうち忠時が守護を務めたことを記す記事。
宝治元年八月十一日 / 冊子 194頁
島津忠時が満家院内比志島・河田・西俣・城前田・上原薗の五箇所名主職について、先年の証状に任せて法橋栄尊の知行を安堵した状。
宝治元年十一月廿二日 / 冊子 197頁
島津忠時が満家院内比志島・西俣・河田・城前田・上原薗の五箇所名主職について、比丘尼菩薩房の譲状に任せて安堵し、先例どおり知行させた下文。
年月日未詳 / 冊子 204頁
島津忠時譜所収。建長二年、進閑院殿雑掌として勤仕し、幕府の京都関係行事に加わった忠時の奉公を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 209頁
島津忠時譜所収。建長三年、将軍家の相州第への御移徙、鶴岡八幡宮参詣・放生会などに忠時が供奉し、列中の位置・人数を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 212頁
島津忠時が将軍家の行事に供奉した記事。建長四年六月の複数日に、御格子上下や騎馬供奉などで忠時が所定人数の供奉人に加わったことを記し、供奉者名と配置を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 217頁
建長五年三月十三日の将軍家御行始で、島津忠時が布衣四十四人の供奉者に加わったこと、翌十四日の二所参詣でも御後の布衣五十九人に列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 220~221頁
建長六年の将軍家行事における島津忠時の供奉記事。正月廿二日の鶴岡八幡宮参詣で御後三十五人に加わったことなど、複数の出御・参詣における忠時の位置と供奉人数を記す。
建長六年四月八日 / 冊子 221頁
建長六年四月八日、島津忠時に関係する大番役の勤仕について、宮里郡司宛に出された短い請取。勤仕を確認し、判を据える。
年月日未詳 / 冊子 224頁
島津忠時に関する短い譜記事。渋谷五郎四郎殿の名を掲げ、関係人物とのつながりを記す。
年月日未詳 / 冊子 227頁
康元二年正月一日の将軍家御行始で、相州禅室への参向に際し、島津忠時が御後の布衣十二人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 227頁
正嘉二年の将軍家行事における島津忠時の供奉記事。正月の宴飲と六月十七日の鶴岡八幡宮放生会で、忠時が供奉人百二十一人の一人として列したことを記す。
正嘉元年八月廿二日 / 冊子 231頁
島津忠時が比志嶋太郎に、法橋栄尊の譲状と関東御教書に従い、満家院内の比志嶋・河田・西俣・城前田・上原の五ヶ所を領掌するよう命じた書下。異議を唱える者を退け、所領知行を安堵する。
正嘉元年十一月三日 / 冊子 231頁
大隅国御家人姫木五郎義用が守護所調所職を訴えた件について、訴状の副進内容に相違がなければ沙汰を行い、相違があればその旨を注進するよう島津忠時が命じた書下。
年月日未詳 / 冊子 236頁
正元二年正月一日の坑飯で、島津忠時が布衣で庭上に列した八十八人の一人であったこと、同年四月十三日に文応元年へ改元したことを記す。
弘長二年八月十一日 / 冊子 244頁
島津忠時が薩摩平十郎へ、京都大番勤仕を命じる御教書案文を送り、命令の趣旨を心得て早く参勤するよう指示した書下。
弘長二年八月十一日 / 冊子 244頁
島津忠時が薩摩郡平三郎へ、京都大番勤仕の御教書案文を送り、命令どおり早く参勤するよう指示した書下。
弘長二年八月十一日 / 冊子 244頁
島津忠時が満家非志嶋太郎へ、京都大番勤仕の御教書案文を送り、命令の趣旨に従って早く参勤するよう指示した書下。
弘長二年八月十一日 / 冊子 244頁
島津忠時が宮里郷の郡司・名主らへ、京都大番勤仕の御教書案文を送り、命令の趣旨に従って早く参勤するよう指示した書下。
弘長二年八月十一日 / 冊子 244~245頁
島津忠時が国分左衛門尉へ、京都大番勤仕の御教書案文を送り、命令どおり早く参勤するよう指示した書下。
弘長二年正月廿四日 / 冊子 245頁
国分左衛門尉が京都大番役を勤仕したことを島津忠時が確認し、奉公を請け取った旨を示す短い請取状。
弘長二年二月十四日 / 冊子 245頁
島津忠時が国分左衛門尉に、京都大番役の勤番へ急ぎ参勤するよう催促した状。大番役の命令を受けながら未参であることを指摘し、在京勤番を履行するよう求める。
(嘉禄三年)十一月四日 / 冊子 248頁
島津忠時が、魔嶋太郎康村が上司へ見参することを望んでいる旨を後藤左衛門尉へ取り次ぎ、面会を許すよう求めた挙状。
年月日未詳 / 冊子 274頁
島津忠時について、文永九年四月十日に七十一歳で没し、法名を道仏、号を仁阿弥陀仏浄光明寺殿としたことを記す系譜記事。
明和八年四月十日~十九日(記事所載日) / 冊子 277~278頁/原整理番号 742/整理ID 742
明和八年辛卯四月十日、修道佛公(島津忠時)の五百年忌法事を淨光明寺で一日行い、下二組頭島津直衛久中を使いに香奠銀五枚を納め代拝させた。同年四月十六日、上使松平周防守康福が芝邸へ来て帰国の暇を賜り、恩賜は先規どおりだった。同日、大納言家基公からも阿部豊後守正允をもって恩旨を伝え、先例の饗待を行った。翌日、老中へそれぞれ謝礼した。十九日、黒書院で家治公に拝謁して暇の礼を述べ、懇厚な命を蒙り、駿馬一匹を賜った。西営でも賜物を謝し、老中へ礼を述べた。在府家老島津仲久健が太刀・馬代・巻物を献じたことを記す。さらに重豪は事情があって帰期を緩めるよう大家へ申し上げたという。出典は重豪公御譜中。
弘長二年八月十一日 / 冊子 17頁/原整理番号 198
島津忠時が薩摩郡平三に、京都大番役は六か月勤仕すべきこと、御教書の案文を添えて命令どおり参勤すべきことを命じた書下。老耄・出家などを理由に代官を立てることを戒める。弘長二年八月十一日付。
弘長四年正月十三日 / 冊子 17頁/原整理番号 199
島津道仏忠時が成岡二郎について、京都大番役を六か月勤仕し終えたことを覆勘し、帰国は自由であると認めた状。弘長四年正月十三日付。
年月日未詳 / 冊子 227頁
康元二年三月十四日に同年を正嘉元年へ改元したことを記す短い改元記事。
弘安二年八月十一日 / 冊子 302~303頁
京都大番役について、御教書案文を早く提出し、老耄で本人勤仕が困難な場合は代官を立てるよう比志嶋大隅前司入道へ命じた島津久時書下。
年月日未詳 / 冊子 157頁
『島津国史』の記事。安貞二年七月二十三日、将軍頼経が駿河前司義村の田村山庄へ渡御し、島津忠時が後陣四十八人の一人として供奉したことを記す。頼経・忠時らの年齢と官職も注記する。
年月日未詳 / 冊子 162頁
『島津国史』所収。貞永から天福への改元と、島津忠時の年次・官途に関する事項を簡潔に記した記事。
文暦二年閏六月廿九日 / 冊子 169頁
北条泰時が島津忠時に、鎌倉での奉公や所領給付に関する申請を承知し、今後も忠勤を尽くすよう仮名で伝えた書状。豊後修理亮を介した取次にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 197頁
『東鑑』所収。宝治二年正月、将軍家の行始に島津忠時が供奉人として加わったことを記す記事。
弘長二年七月十日 / 冊子 243頁
関東が島津忠時ら薩摩国御家人に、翌年七月一日から十二月晦日まで京都大番役を勤仕するよう命じた御教書。催人を通じて期日どおり参勤するよう執達する。
年月日未詳 / 冊子 250頁
『島津国史』が、文永元年前後の島津氏の家督・守護職・所領相続を詳述した記事。忠時・久経らの系統、薩摩・大隅・日向三州の支配、薩摩郡市来院・山田院・日置南郷・宮里郷・阿久根十二島などの所領、幕府・将軍家への奉公、親族間の譲与と訴訟を年代順に記す。蒙古襲来期の軍事奉仕や寺社との関係も含み、島津家の継承根拠を示す。
文永八年十二月廿四日 / 冊子 273頁
島津忠時法師道仏の文永八年九月十五日付譲状に基づき、久時へ譲った所領の除分を久時に付し、道仏分の所領を子孫へ譲ることを認めた関東下知状。父の譲状どおり領知させ、違背を禁じる。