島津義久譜
天正十一年六月十三日 / 冊子 754頁
天正十一年六月十三日、新納忠嘉と川上忠堅が深江城へ進んで挑戦したことを記す記事。有馬方救援のため安徳城へ入った島津勢と、龍造寺方に転じた深江城との戦いの一節。
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天正十一年六月十三日 / 冊子 754頁
天正十一年六月十三日、新納忠嘉と川上忠堅が深江城へ進んで挑戦したことを記す記事。有馬方救援のため安徳城へ入った島津勢と、龍造寺方に転じた深江城との戦いの一節。
天正十一年五月二十日~六月 / 冊子 757頁
天正十一年五月二十日に有馬氏の書簡が鹿児島へ届いてからの高来郡救援記事。深江・安徳両城主の帰属願いを受けて新納忠嘉・川上忠堅を先遣し安徳へ入れたが、深江が龍造寺方となったため攻略できなかった。義久は六月二日に出陣予定だったが現地の勝利報告で中止し、十五町につき勇士一人を徴発して有馬への増援を図った。
天正十一年六月十三日 / 冊子 758頁
龍造寺隆信に奪われた島原・深江への有馬氏の救援要請を受け、新納忠嘉と川上忠堅が安徳城へ入った経緯を記す。深江城が島津方を裏切ったため天正十一年六月十三日に攻撃し、忠堅は負傷、忠嘉は戦死した。義久は忠嘉の菩提所として大口青木村に泉徳寺を建立する寺地を与えた。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 846~847頁
天正十二年春、島津家久を大将、豊久・彰久・忠長を副将として三千余騎が高来へ渡り、有馬氏とともに島原へ布陣した記事。三月二十四日に龍造寺隆信の数万騎を破り、川上忠堅が隆信を討ち取って高来・島原を有馬領とし、島津軍は帰陣した。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 866頁
天正十二年春、島津家久を大将、豊久・彰久・忠長を副将として三千余騎が有馬氏と島原に長陣し、三月二十四日に龍造寺隆信の数万騎を破った記事。川上忠堅が隆信を討ち、三十余の首を得て高来・島原を有馬領とし帰陣した。
天正十二年春~三月二十四日 / 冊子 867頁
天正十二年春、島津・有馬勢三千余騎が安徳へ入り、三月二十四日に島原で龍造寺隆信の二万五千騎を破ったとの覚書。川上忠堅が隆信を討ち、川西紀伊が龍造寺方の旗頭守一軒を討った功により湯浦の内しちゃ門を与えられたが、天正十五年の豊臣秀吉入国で上地となったことを子孫のため記す。
天正十二年三月九日~二十四日 / 冊子 868~870頁
島津義久が薩摩・大隅・日向の軍勢を率いて三月九日に出陣し、十六日に佐敷へ着陣した。義弘・歳久や相良氏と会合後、家久を大将として豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を有馬勢千五百と合流させ、深江・安徳を経て島原へ進軍させた。三月二十四日、龍造寺隆信の大軍を迎え、家久の決死の督励のもと川上忠堅らが隆信を討ち取り、敵首三千余を得た。義久は佐敷で戦勝報告を待った。
天正十二年三月二十四日~二十七日 / 冊子 872頁
三月二十四日の島原合戦で川上忠堅が龍造寺隆信を討ち、その首を挙げた。三月二十七日、佐敷にいた島津義久が隆信の首を実検した。
年月日未詳 / 冊子 716頁
川上忠興の子忠智を祖とする支流系図。忠智が栗野・馬越・蒲生地頭と家老を務め島津義弘に従軍したこと、忠堅が島原で龍造寺隆信を討つ軍功後に鷹取城で戦死したこと、忠兄が朝鮮役で功を立て父に代わり家老となったことを記す。
天正十一年五月~六月 / 冊子 799頁
天正十一年、有馬氏から深江・安徳両城の島津幕下入りが報じられた後、深江の離反で安徳守兵が困窮したため援軍を送った経緯を記す覚書。義久は六月二日の出陣を予定したが勝報により中止し、田賦十五町ごとに勇士一人を定めて有馬へ渡した。
天正十二年三月二十四日~二十七日 / 冊子 870~871頁
龍造寺隆信に三年にわたり圧迫された有馬氏を救うため、家久は豊久・彰久・忠直ら薩摩勢千五百を率い、有馬勢と合わせ三千で深江・安徳を経て島原へ進んだ。三月二十四日、数万の龍造寺軍を前に家久が決死の覚悟を説いて奮戦し、隆信を討ち取って敵首三千余を得た。豊久も強敵を討ち、家久は江里口正右衛門を討った。隆信の首は二十七日に佐敷で義久の実検を受けた。
天正十年~天正十二年三月二十四日 / 冊子 763~764頁
天正十年の田尻救援から翌十一年の有馬救援、さらに天正十二年三月二十四日の島原合戦までを叙述する長編軍記。深江攻撃で新納忠嘉が戦死した後、家久を大将とする約千五百騎が有馬勢と合流し、寡兵で龍造寺の大軍を破った。川上忠堅らが隆信を討ち、家久・豊久以下が奮戦して敵首三千余を得、有馬氏へ旧領の半ばを返し、日上・島原の守備を定めた。
天正十一年~天正十二年三月二十四日 / 冊子 843~846頁
天正十一年の有馬救援と新納忠嘉の戦死から、翌十二年三月二十四日の島原合戦までを詳述する聞書。家久・豊久ら島津勢約三千と有馬勢が、龍造寺隆信の四万余騎を寡兵で迎撃し、川上忠堅らが隆信を討ち取った。島津勢は幸代諸城を開かせ、有馬氏へ高来郡を返し、隆信の首を佐敷で義久が実検した後、高瀬へ送った。代賢和尚は敵味方の戦死者を弔うため千余僧を率いて島原に大卒塔婆を建立した。
天正十一年~天正十二年春 / 冊子 863~866頁
有馬氏の島津への救援要請、新納忠嘉の戦死、家久父子らの高来渡海から島原合戦の勝利までを描く長編自記。家久らが龍造寺隆信の大軍を迎撃し、川上忠堅が隆信を討ち、深江・島原・高田など六城を開かせて有馬氏へ与えた。諸軍は佐敷で義久に謁見し、代賢和尚以下二千余僧が島原で高卒塔婆を立て敵味方を供養した。
天正十二年春~秋 / 冊子 866~867頁
島津義久が佐敷に在陣し、家久へ三千人を付けて有馬を救援させた記事。島原合戦では忠元が豊久の後見として軍勢を指揮し、川上忠堅が隆信を討ち、敵三千余を倒した。忠元・忠増と大口衆の働きで三十六人を討ち、森山・三重城など六か所を領し、忠元は同年秋に隈府地頭を兼ねた。
年月日未詳 / 冊子 174頁
天正十四年夏、筑紫広門の離反を受けて島津義久が大軍を率い、八代から筑前方面へ諸将を進めた経過を記す島津義久譜の記事。島津忠長・伊集院忠棟を将帥とし、新納忠元・北郷忠虎・上井覚兼らを進め、筑後高良山を経て七月六日に鷹取城を陥落させたと伝える。川上忠堅の戦死と島津忠隣の負傷も記す。
天正九年二月廿五日 / 冊子 684~686頁
天正九年二月二十五日、島津義久ら十五人が催した百韻連歌。『うくひすの花かさひろきさかり哉』を発句とし、春景・旅・恋・月・秋・神祇などを詠み継ぎ、末尾に各人の句数を記す。
年月日未詳 / 冊子 153~155頁
天正十四年三月二十七日の伊地知蔵人重増をはじめ、天正年間に豊後・筑前・筑紫・日向などで討死した島津方武士を、氏名・戦場・年齢・所属・同時戦死者とともに列挙する『殉国名藪』。岩屋城攻め、豊後陣、高城・赤城など各地の戦死者を収め、父子・兄弟・主従がともに戦死した例や遺族関係まで付記する。九州統一戦で島津軍が負った人的損失と家臣団構成を具体的に追える名簿史料である。
三月十七日 / 冊子 742頁
日本の凶徒・倭寇が中国を侵すのは日本の道に反するとし、島津左京大夫の調略で停止できれば日明両朝の名誉になると説く。藤原鎌足との由緒を中国側へ申し立てるよう勧めた矢野以清書状。
年月日未詳 / 冊子 73頁/原整理番号 63の4
天正十一年五月六日、深江・安徳両城が義久に属す旨を有馬氏が伝えた後、深江の変約と安徳守兵の困窮から援兵を求めた経緯を記す。義久は六月二日の出発を予定し、新納忠堯・川上忠堅を先遣したが、勝利の報告を受け自身の出陣は中止した。田賦十五町につき勇士一人の定めを援兵派遣時のものとし、上井日記同年五月二十七日条を引証する。
巻三/冊子 33~35頁
肥後の田尻氏と肥前の有馬氏を救援し、龍造寺隆信を討った経過を記す。隆信に攻められた田尻氏の要請で島津軍が肥後へ進出するが、遠征軍は兵糧・装備が不足して一度撤退した。続いて有馬氏の救援要請を受け、新納忠堯・川上忠堅らを安徳へ送るが、深江攻撃で忠堯が戦死する。翌天正十二年、家久を大将に忠豊・彰久・忠長・忠元ら約千五百騎が島原へ渡り、有馬軍と合流した。数万とされる隆信軍に対し、家久は退却を許さず死戦を命じ、沖田畷で敵を狭隘な地形へ引き込んで撃破する。川上忠堅らが隆信の所在を突き止め、最終的にその首を得た。島津方も多数の戦死者を出したが、敵首三千余を得たとし、守山・神代などの城が落ちた。有馬氏には旧領の一部を返し、島原方面へ島津の守将を置いた。寡兵による大軍撃破と家久の指揮を強調する記事である。
年月日未詳 / 冊子 59~66頁/原整理番号 57
天正八年八月十九日の肥後芦北郡水俣城をめぐる三か国勢の陣立を記す。家久の先陣、忠平の中陣、義久の本陣に関わる大将・地頭・外城衆・御内衆を列挙し、武具奉行、旗本、手替、付衆、台所などの役人数を記す。本文の陣別小計は三万一千・三万一千・五万三千人で、末尾の十一万五千人に合う。多数の異本注に人名・人数・外題の違いがあり、季安の校合上の疑いも併記される。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。