彦山衆徒連長書状
天正七年三月吉日 / 冊子 630頁
彦山政所坊連長が川上忠克へ、前年に島津義久が日向水田三町を寄進したことを深く謝し、神前で祈念していると伝える。祝儀として扇と厚板一端を進上し、披露を依頼した。確定版年月日は二月吉日だが、本文年紀は三月吉日と読める。
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天正七年三月吉日 / 冊子 630頁
彦山政所坊連長が川上忠克へ、前年に島津義久が日向水田三町を寄進したことを深く謝し、神前で祈念していると伝える。祝儀として扇と厚板一端を進上し、披露を依頼した。確定版年月日は二月吉日だが、本文年紀は三月吉日と読める。
四月三日 / 冊子 412~413頁
川上忠克・村田経定・伊集院忠金が琉球国三司官へ、新年の祝意を述べ、琉球の船が当地に着津したので船を加えて渡海させたこと、報礼の尊使と大守の勅書を拝受したことを伝え、綿九斤の贈答に謝意を表した連署書状。
弘治四年正月廿日 / 冊子 56頁
興国寺領として、大隅国帖佐郷山田村寺師名の田地一町二十歩を、土堂廻之門、こくてん、地敷、堀町、横枕、百田開など所在地・段別に列記し、川上忠克・伊集院忠倉・三原重秋が連署した坪付。
弘治四年二月吉日 / 冊子 56~57頁
大隅国帖佐郷益田門内、市ノ坪一段を小城権現領として新たに寄進した坪付。料所内の土地であるが当面ほかに閑所がないため先に寄進し、適地が得られ次第、別所へ繰り替える旨を川上忠克・伊集院忠倉・三原重秋が記す。
年月日未詳 / 冊子 715頁
川上兼久の三男を祖とする伊集院氏支流系図。久志木野三十町を賜り、久豊が串木野・河辺・市来地頭となったこと、忠興が忠克と謀って島津貴久に帰属し市来攻略に加わったこと、範久の石城戦死などを記す。
年月日未詳 / 冊子 716~717頁
川上忠克が串木野領主から島津実久方に属した後、天文八年の市来攻防で勝敗を見極め、忠興と協議して串木野を島津貴久へ献じ、子忠頼を帰属させた経緯を詳述する。甑島配流後に赦免され家老へ復帰したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 659頁
島津忠良が出家して日新斎と号し、生別府で十四歳の千代鍋を元服させ、太郎(樺山玄佐)と称させた記事。太郎を島津貴久の弟の列に加え、樺山氏の後継として位置付ける。あわせて忠良の次女が伊作浦から市来湊を経て生別府へ移った経路を記し、一族の身分編成と移動を示す。
(天正元年)八月廿五日 / 冊子 312~313頁
大友氏老臣四名が島津氏老臣へ、南郷へ渡した船が島津領内に繋留中、暴風で少し損傷した件について照会する。使節を送ったのに返答がなく不安であり、両家は代々親交を得てきたので小事から隔心を生じるのは望ましくないとし、宗麟の派遣船として廉直に扱い、速やかに判断するよう求める。
(天正三(五カ)年)四月十七日 / 冊子 434頁
足利義昭が帰洛について毛利氏へ申し入れて承諾を得たことを伝え、武田・北条・上杉以下の東西諸勢力を統一して出陣が迫っているとして、島津氏が忠功を尽くすよう老臣らに意見することを求める。詳細は昭光・昭秀が伝えるとする。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁/原整理番号 43
菱刈氏嫡家十二代の家督重時から始まる略系図。重時を左兵衛佐、重衆を右兵衛佐とし、女子が肥州阿蘇惟永、島津出羽守忠明、相良伊勢守長皎へ嫁いだ婚姻関係を示す。重副は大和守で両院を知行し嫡家を継いだ。重政は次郎・伊勢守を称し、父重時の命で大口地頭職に補され大口に在城、法名を徳翁道盛居士とする。重根は兵庫頭で大口地頭職を相続し、法名天真道龍居士、天龍寺葬。重清は右衛門太夫で花北氏の猶子となり、肥州久木野で戦死した。重昌は四郎・越後守を称し、嫡家の大和守重猛が所知を島津義久へ献じて降った際に同じく旗下へ入り、曽木一所を賜ったのち花北へ替地され居住した。末尾は、この処遇について国老伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った書簡を次文書として導く。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同年五月二十四日 補記(正文と別層):(元亀四年) / 冊子 145頁/整理ID KW1-G000115
義久公が隅州鹿屋を重長に与えたと記す。 国老の喜入季久・川上忠克入道意釣・平田昌宗・村田經定・伊集院忠金の証書を後に付す。
(天正三(五カ)年)四月十七日 / 冊子 434~435頁
真木島昭光・一色昭秀が、足利義昭が中国へ移り毛利氏の支援を得て、武田・北条・上杉以下の東西諸勢力を糾合し帰洛を急いでいると説明する。義昭の御内書を受け、島津義久へ忠勤を尽くすよう進言することを求め、詳細は蓮華坊が伝えるとする。
年月日未詳 / 冊子 70頁
薩州家の島津義虎が天正十三年七月二十五日に没したことと、子女・妻の系統を簡潔に示す譜記事。 法号や妻が母川上上野守忠克の娘であることなどを掲げ、薩州島津家の親族構成と後継関係を確認できる。