蔵人頭広光奉口宣案
寛正二年五月十八日 / 冊子 441頁
蔵人頭藤原広光が奉じ、源忠光を左衛門少尉に任ずる旨を伝えた口宣案。上卿は日野大納言。
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寛正二年五月十八日 / 冊子 441頁
蔵人頭藤原広光が奉じ、源忠光を左衛門少尉に任ずる旨を伝えた口宣案。上卿は日野大納言。
文明三年十一月十日 / 冊子 473頁
足利義政が島津忠光に、播磨国布施郷の地頭職・下司職・公文職を返付し、領知するよう命じた下文。
文明三年十二月廿日 / 冊子 474頁
室町幕府奉行の国通・貞秀が島津忠光に、播磨国布施郷の地頭職について幕府命令を遵行し、違乱する者を処罰するよう命じた連署奉書。
文明四年三月廿六日 / 冊子 475頁
室町幕府奉行が島津忠光に、播磨国布施郷地頭職をめぐる違乱・狼藉を止め、違反者を処罰して先例どおり領知させるよう命じた連署奉書。
年月日未詳 / 冊子 441頁
越前島津氏譜から、十代忠光が三郎左衛門尉を称し、寛正二年四月十三日に留守従五位下行伊勢守紀景照の判を受けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 91頁
島津久豊の通称・官途を掲げ、永和元年に鹿児島で生まれ、母は佐多三郎左衛門尉忠光の娘であったことを記す記事。
(文明三年)十一月十日 / 冊子 473~474頁
室町幕府奉行の国通・貞秀が、播磨国布施郷の地頭職・下司職・公文職を島津忠光へ返付したため、年貢・公事を忠光へ納めるよう名主・沙汰人に命じた連署奉書。
文明三年十一月廿七日 / 冊子 474頁
室町幕府奉行が赤松兵部少輔に、播磨国布施郷の地頭職・下司職・公文職を島津忠光へ返付する命令を施行するよう求めた連署奉書。
永禄八年三月二十四日・五月朔日 / 冊子 139頁
永禄八年三月二十四日および五月朔日の戦死者を掲げた交名。吉満善左衛門久張、日置狩野介忠光、財部武蔵守盛慰らの名を伝える。
(記事) / 冊子 172頁
頴娃忠永を祖として、その子孫の諸流を示した系図。忠方・忠光らの系統と、頴娃本地頭・指宿本地頭・指宿郡司などの称号・職名、太郎・平四郎・郡司小次郎・彦鶴丸などの通称を系線で結び、頴娃氏の一流と指宿地域の所職との関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 650~652頁
新納友義の三男忠光を祖とする支流系図。忠光が志布志落城後に島津忠幸へ仕え阿多地頭となったこと、久時父子の牛根・岩屋城での軍功と高城での戦死、久宣の朝鮮・庄内陣、焼亡による重器文書喪失、久宗の奏者番・御用人歴を記す。
年月日未詳 / 冊子 244~245頁
『西藩野史』が島津久豊の出生、母佐多忠光女、官途と元久没後の家督継承を記す。伊集院頼久・渋谷氏らとの抗争、鹿屋城・高城をめぐる攻防、日向伊東氏の侵攻に対する救援を追う。鹿屋玄兼ら国人の帰属と軍勢配置も含め、久豊政権初期の権力確立を軍事面から詳述する。
永禄八年 / 冊子 138~139頁
永禄八年、島津義虎が長島城主天草越前守を討って同地を得たこと、伊東義祐が飫肥新山城を落として日置忠光を討ったことを記す。五月の足利義輝殺害後、義昭が還俗して上洛を図り、島津貴久・義久へ忠節を求める使者が送られた中央政局も載せる。
正応二年九月日 / 冊子 360~361頁
宮里郷地頭大隅式部三郎忠光が、新田宮執印重兼・神官らによる地頭職への干渉と押領を重ねて訴えた申状。神人の追出し、住居放火、社領免田・供物の収奪、祈祷所務への介入などを列挙し、先例と関東下知に基づく押領停止・返付・処罰を求める。
天文五年十二月七日 / 冊子 751頁
町田忠親の通称・系譜を掲げ、天文五年十二月七日に薩州石谷で戦死し、享年六十一であったことを記す。
永禄八年二月七日~五月朔日 / 冊子 140頁
永禄八年、伊東勢が板敷田に伏兵を置いて本城兵十三人を討ち、新山外屋尾・楠原へ進出した経過を記す。五月朔日に忠親方が新山外屋尾を攻め破り敵二十八人を討ち四十人を捕らえ、物具七百を得たが、味方も三十人戦死・四百八十人負傷した。
年月日未詳 / 冊子 772~774頁
島津忠国の五男忠経を祖とする迫水氏・吉満氏系図。忠経が伊作守を称し、安久が帖佐高尾で戦死したこと、忠友流から吉満を称した久張・久重以下へ分かれ、朝鮮出兵・同地戦死者を含む後裔を記す。
嘉禄三年十二月廿四日 / 冊子 157頁
関東が薩摩国の郡司職相論について下した御教書。鹿児島小太郎康弘の申立てを受け、忠重・忠光らが合戦時に京方へ従ったとの主張を審理するため、関係者二人を四月以前に鎌倉へ召進し、裁許を受けさせるよう命じる。
正応二年八月二日 / 冊子 355頁
薩摩国八幡新田宮所司神官等と宮里郷地頭大隅式部三郎忠光の相論について、忠光の押領を停止し、社領免田と供料を新田宮側へ返すよう命じた関東下知状。
文保二年三月十五日 / 冊子 464頁
島津道義が三郎左衛門尉忠光へ大隅国佐多を勲功の賞として譲与したとする文書。本文疑文書との注記を伴う。
元文二年七月朔日 / 冊子 445頁/整理ID 1061
越前島津家十六代忠紀が家祖以来の系譜を踏まえて源姓を称し、左衛門尉忠光の由緒に連なることを記す。
元文二年七月朔日 / 冊子 445頁/整理ID 1062
越前島津家相続後の忠紀に対し、祖先忠光の官途・源姓の由緒を踏まえて姓儀を用いるよう申し渡す。
元文二年七月 / 冊子 449頁/整理ID 1072
越前島津家相続に伴い、祖先忠光の官途と源姓の由緒を踏まえて姓儀を用いるよう改めて申し渡す。
文化元年2月22日(本文。同年は前後・目録による) / 冊子 228頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0739
同年春2月22日、大家が使倉橋三郎五郎を芝邸へ遣わして重豪へ御鷹の鶴を賜った。重豪が病気だったため水野式部少輔忠光が代わって恩旨を奉じ、その後老中の各邸へ赴いて礼謝したと記す。倉橋に実名闕表示と致利の注。出典は重豪公御譜中。病気と代受主体・礼謝先を保持し、鳥数は補わない。
天文8年霜月吉日; 永正元年・大永年間(付随系譜) / 冊子 341頁/原整理番号 130-28
天文八年霜月吉日、薩摩国市来院内伊作田名一町七反三十歩の坪付を河上次郎左衛門尉へ示した文書。忠元・本田親信・伊集院大和守忠朗を記し、忠元については「光」異本および正本では忠光との校異を付す。付随系譜は十一代河上年家が平次郎・次郎左衛門尉を称し、入道舟伴斎、法名高山道慶居士であったこと、永正元年に河上信濃守女を母として生まれ、大永年間に清水の本田某が敵対した際、年家の領する重久名を本田某が襲取したことを記す。
文和四年四月 / 冊子 259~260頁/原整理番号 22
島津道鑑の代頼兼が、一族の官途所望を挙げ、軍功に応じた沙汰を急いでほしいと訴えた申状。氏久の宮内大輔所望について、兄師久の六位判官、二階堂大蔵少輔が奉行した返答、濃州下向以来の延期を述べる。先の沙汰・落居を踏まえた氏久と孫子忠光以下の庶子の官途、軍忠を別紙に注進すること、譜代の例と戦功への恩免を申し立て、今後も忠節を尽くすと請ける。
八月18日の出来事の説明/末注亥9月28日(本文年号不記) / 冊子 312~314頁/原整理番号 445/整理ID 445
「八月十八日御所騒動之由来」とする五頁の説明記。三条実美・長州側が朝廷を利用して近国や関東を掌握し、天子を長州へ移す等の陰謀を企て、大和行幸・親征の話もその一環だったとする立場から経緯を述べる。會津侯・中川王らが実情を朝廷へ伝え、八月十六日の詔と十八日の処置、実美ら七人の退去に至ったという説明を載せる。大和五條の焼討、浪人と長澤の付役人、馬や金銭の要求、町人への恐喝・殺害とする話、益田・久坂らの策謀、他藩への非難も関連づける。末尾は亥九月廿八日で、御所騒動について別雑集に記録があるため詳細は略すとの注がある。政治評価・陰謀・恐喝等は本文の主張として整理し、各記載を第三者検証済みの事実にしない。筆者や参照雑集の全文は未確認。
年月日未詳 / 冊子 333~334頁/原整理番号 14
忠元が十三歳の天文七年、志布志城の忠勝と飫肥方の北郷忠相が攻め合っていたため、父祐久が同年七月に城を退いたと記す。忠元と弟忠清らは伊作方に召し出され、祐久の叔父漁隠を頼って田布施へ出た。日新は山城守忠光を頼っていた縁で祐久を召し、久しい後には子孫も日新の家老として仕えたという。
年月日未詳 / 冊子 125~136頁/原整理番号 26
『吉富氏系図写』の中表紙に続き、頴娃三郎忠長の六男・薩摩六郎忠直を祖として、薩摩氏吉富流の諸家を近世後期まで展開する系図。薩摩郡本地頭、串木野若松・吉富名・羽島などの知行、加世田城・日州飯野・関ヶ原・目白坂等での軍役と戦死、朝鮮出兵・琉球渡海、加治木・帖佐・平松・蒲生・高岡への移住と奉公を記す。各代の通称・官途・入道名、妻の出自、養子・分家・家督相続、出生没年・法名・墓所のほか、御右筆、糺明奉行、物奉行、山奉行、高奉行、小番、進物番、横目、勘定方小頭、代官など近世の役歴を詳載する。本文は冊子p136で終わり、後続2頁の『諸家系図 三』表紙・収録氏名一覧は本系図に含まれない。
平安末~近世の記事(承久兵乱・寛元4年12月4日等) / 冊子 445~452頁/原整理番号 14
桓武天皇・葛原親王・高望王から国香・貞盛らを経て指宿氏へ至る平姓の長大系図。良時(伊佐平次)が武蔵国から薩摩へ下向し、阿多郡領を与えられた由緒を記し、三浦平大夫為通、鎌倉・三浦諸流との系譜を介して薩摩の諸家へ展開する。各系線には鎮守府将軍、伊予守・駿河守・隠岐守などの官途とともに、指宿本地頭、頴娃本地頭、薩摩郡本地頭、河辺本地頭、谷山郡司、水方名主、祁答院郡司等の職名を付す。承久の兵乱で京方に属したため河辺を没収された久道、兵乱時に戦死した者、市来や和泉で討死した者、鎌倉より薩摩守富澄討伐に下向して戦死した者など、中世の軍歴・所領喪失を系譜に織り込む。指宿・頴娃・薩摩郡・河辺・谷山・加治木・肥後菊池・阿多等へ枝分かれした多数の子孫について、通称・地頭職・郡司職・養子・婚姻・戦死を記し、近世の指宿郡司忠秀、加治木新六實平妻らまで系線を延ばす。
文保二年三月十五日 / 冊子 464頁
島津道義が三男三郎左衛門尉忠光分として日向国新納院を譲与し、先例どおり知行させるとした文書。本文疑文書との注記がある。
3月(日不記)知政所(年は目録明治3年) / 冊子 748~749頁/原整理番号 970の1/整理ID 970-1
実名・仮名に用いる字について避ける範囲と例外を列記する。「仁・統・恵・陸」は実名・仮名ともに同じ読みを避け、「義・忠・光・久」も同様とする。「親・勝・寧・貞・房」は仮名で同じ読みを避け、「桃齢・随賢・聰徳・紫雲・智鏡・晴雲・天璋」の各二字続きも仮名では同じ読みを避ける。「朝・頼・興(興カの注)・斉・彬」は字を避ける。「久・忠」は家柄による実名使用は許すが仮名は一統に避け、「三郎」は二字続きの仮名を避ける。「又」は家柄など由緒のある者に限り仮名使用を許す。「封・済」は実名に用いるのを避け、同じ読みの文字も心に留めて避けるとする。そのほかは一統に制限を免じる。末尾に「盛・悦之助・成・真之助・俊」は字・同名・同じ読みも避ける旨を追加する。三月知政所、年は目録の明治三年による。
文和三年四月廿五日 / 冊子 850頁
島津道鑑が、孫忠光以下一族の官途、自身の退合戦の例、忠節者への成敗と恩賞について伝えた書状。
永祚元年、寛弘3年、文治4年、建久6年6月20日、承元4年5月、建暦元年4月28日、承久3年、弘安4年、元亨元年11月22日、建保7年4月10日、貞応元年5月13日、元弘3年7月10日、応永25年8月4日、正中2年、応仁2年10月29日、永享10年、長享元年9月24日、寛正6年3月27日、永正14年2月1日、天福元年10月22日、建長3年8月3日、文保3年6月20日、文和5年8月3日、応安3年、応永17年6月27日、明応4年7月2日、永正10年正月 / 冊子 190~199頁/原整理番号 66
入来家士・東郷善兵衛所蔵の古加治木家系図。藤原鎌足後胤とする忠平から実頼・頼忠へ遡り、一条院寛弘三年に経遠・顕経・経平の三人がそれぞれ肥後国菊池、駿河国池上、大隅国加治木郷へ配流されたとの由緒を記す。加治木へ来た経平は、男子のなかった本領主大蔵良長の後家方に迎えられ、その娘と婚姻し、春日大明神を氏社として奉斎したとする。後裔は親平の代に藤原氏から大蔵氏へ改め、加治木郷・木田村・吉原村・小山田村・満家院郡山村・薩州日置庄などの所領、加治木別府地頭職・大隅国検非違所惣官職、寺院別当職等の譲与・安堵を重ねる。系図は各代の官途・童名・法名・道号、婚姻・養子、分流、討死・病没、知行相伝を詳細に掲げ、帖佐院・鹿児島・肝付郡・牛屎などへの展開も記す。後代には氏平が大蔵氏を改めて藤原氏に復したとし、満久を島津豊後守季久の三男で実平の養子とする。十三代大和守久平は明応四年七月二日に忠昌公に反し、翌年二月の落城後に阿多へ移ったと記し、忠光・久恒らの系線と久恒による川辺宝福寺への田地寄進で終わる。