島津忠久下向時役人交名
永禄三年十月吉日 / 冊子 82頁
島津忠久が薩摩へ下向した際に従った役人七人の職掌と氏名を記した交名。No.157と同文の別本で、本文は省略される。
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永禄三年十月吉日 / 冊子 82頁
島津忠久が薩摩へ下向した際に従った役人七人の職掌と氏名を記した交名。No.157と同文の別本で、本文は省略される。
永禄三年十月吉日 / 冊子 82~83頁
島津忠久下向時の七役人を列挙し、本田を御幡奉行、酒匂を御沓役人、猿渡を御鎧役人などとする職掌の由来や、合戦での役目継承を記す。
年月日未詳 / 冊子 544頁
『島陰雑著』所収の八幡大菩薩霊祠再興文で、日向国島津庄が高祖・島津忠久の薩摩・大隅・日向三州における権興の地であり、当社も忠久を基礎とすることを述べる。
年月日未詳 / 冊子 94頁
犬追物が鎌倉幕府以来の武家故実で、島津忠久から代々継承されたことを述べる島津家久譜の記事。家久襲封後初の犬追物を十一月二十五日から二十七日まで三日間行い、続けて射手の組合せと教命書を掲げるとする。
年月日未詳 / 冊子 176頁
島津家久父子が高野山金剛峯寺を信仰し、祖島津忠久にちなむ宿坊として蓮金院を創建するため、白銀を投じて院地を取得し、比志島紀伊守を奉行として寺宇・仏具・文庫等を整備したことを記す系譜記事。
応永四年四月九日 / 冊子 170頁
島津元久が福昌寺建立の趣旨と寺法を定め、住持の相続、寺領寄進の保護、寺家への公事賦課禁止、代々の寺領寄進、定置した規則への違反禁止などを列記した定条々。
年月日未詳 / 冊子 686~687頁
島津氏の祖忠久から家久まで約二十代の継承を述べ、義弘が歴代の教えを守って忠節を尽くし、国内の戦いや朝鮮出兵で功を立て、天下泰平に至った自身の武功の概略を記したもの。
五月廿二日 / 冊子 215頁
御系図、朝廷・忠久・道鑑・足利尊氏・北条氏・大友氏関係の古文書、知行目録、鏡・牛王・玉・本尊などの重物を伊地知采女正へ引き渡した入日記。源頼朝の判物は前年の受取り時から見当たらないことも付記する。
年月日未詳 / 冊子 538~539頁
越前島津氏二代忠行の弟忠景が、続古今・続拾遺・新後撰・玉葉・続千載・新千載・新拾遺・新続古今などの勅撰和歌集に採られた恋・哀傷・雑・羇旅歌を集成した諸和歌集抄。祖父忠久の賀茂祭主奉仕を詠む歌も収める。
年月日未詳 / 冊子 37頁
島津忠久を頼朝と丹後局の子とする正統系図。比企氏との関係、住吉での出生伝承、三国守護補任などを系譜記事とともに記す。
年月日未詳 / 冊子 39~40頁
島津忠久譜の記事。平氏勢力の伊勢・志摩での動向、反平氏勢力との戦闘、頼朝側の軍勢や諸将の進退を記す。
年月日未詳 / 冊子 47頁
島津忠久譜の元暦二年記事。平氏とその党類の敗走・逃亡、各地の武士の動向、源氏方の追討と戦後処置を記す。
年月日未詳 / 冊子 54頁
島津忠久譜。諸家系譜を引きながら忠久の名乗り・系統、薩州山門院への入国、三州との関係について説を記す。
年月日未詳 / 冊子 56頁
島津忠久記として、忠久が西国の末に日向・大隅・薩摩の地を領し、関東からの支配権を持ったとする伝承を記す。
年月日未詳 / 冊子 66頁
島津忠久譜の記事。No.131-1と同文のため本文を省略し、頼朝の奥州征伐に忠久が従軍して先鋒を務め、伊達次郎泰衡追討に加わった伝承の重出として掲げる。
年月日未詳 / 冊子 72~73頁
島津忠久譜。忠久が奥州征討から帰還したこと、恩賞・所領、従軍中の軍功や同行した諸将について記す。
年月日未詳 / 冊子 79頁
島津忠久が鮫島宗家へ所務を命じる下文の重出。原資料は「一六三号文書ト同文」として本文を省略する。
年月日未詳 / 冊子 82~83頁
島津忠久が鮫島宗家の申請を受け、阿多郡を中心とする所領・所務について仮名書きで下知した文書。宗家に知行・勤仕を命じ、在地の支配関係を確認する。
年月日未詳 / 冊子 85~86頁
島津忠久の系図伝承。建久七年、忠久が薩摩へ下向する途中に京都で近衛殿へ参り、藤原氏との系譜関係を語ったこと、承久年間の記録を根拠に藤原姓とする説を記す。
年月日未詳 / 冊子 95頁
島津忠久譜。正治二年二月廿六日、忠久が将軍頼家の鶴岡八幡宮参詣に供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 99頁
『島津忠久譜』と『東鑑』の記事。建仁三年、比企能員の変に連座して、忠久が日向国守護職などを没収された経緯を記す。忠久は遠国にいて能員の謀反に関与しなかったとし、のちに薩摩国守護職を回復したこと、所領没収後の処遇を述べる。
建仁三年十月十九日 / 冊子 99頁
島津忠久の願文。衆集院本堂一宇(三間四面)の造立を発願し、上洛中の無事、天下泰平、家門安穏を祈る。堂宇建立を速やかに進めるよう述べ、所職・散在名田島などの知行を確認する。
年月日未詳 / 冊子 108頁
建暦三年の和漢記事可読申請と内忠久有之の注記を載せる島津忠久伝記記事。
年月日未詳 / 冊子 108頁
島津忠久譜の和田合戦記事。建暦三年五月三日の和田義盛挙兵に際し、忠久が幕府方として戦って戦功を挙げ、五月七日に甲斐国波加利新庄を恩賞として与えられた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 108頁
『島津忠久譜略』の記事。和田義盛の乱で忠久が幕府方として戦い、義盛軍の営を破って戦功を挙げ、甲斐国波加利新庄を恩賞として与えられたことを日付とともに略記する。
年月日未詳 / 冊子 109頁
『島津忠久譜』の記事。建暦三年八月二十六日、将軍家の御手廣元朝臣宅への移徙に際し、供奉五十五人のうち島津忠久が御後に随従したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 109頁
『島津忠久譜』の記事。建保二年七月十七日、大倉大慈寺供養の将軍家御出に際し、供奉十八騎の中に島津忠久が加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 109頁
『吾妻鏡』の記事。建保四年七月十九日、小河法師忠快が相模川で六字阿臨法を修し、将軍家御出の供奉者に島津忠久が加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 112頁
『島津忠久譜』の記事。建保四年七月十九日、小河法印忠快が相模川で六字阿臨法を修した際、将軍家御出の供奉六十二人の一人として島津忠久が加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 114頁
『島津忠久譜』の記事。建保六年六月十七日、将軍家が大将御間で御拝賀を行い、参鶴岡宮給の供奉十九人の中に島津忠久が加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 115頁
『島津忠久譜』の記事。薩摩国満家院厚智山花尾権現の創建由緒を述べ、夫薩摩州満家院の夫婦・丹後局の縁、権化僧永金阿闍梨、社殿造営・神鏡奉納、神体仏像の祭祀などを記す。
建保六年十一月廿六日 / 冊子 116頁
島津忠久が大蔵氏女に薩摩郡内山田村の名頭職を安堵した文書。大蔵氏女が所持する相伝証文を確認し、外題・安堵状を与えて村の所務を認め、親族や地頭側の妨害を禁じる。
年月日未詳 / 冊子 117頁
『島津忠久譜』所収の承久の乱後の記事。後堀河天皇への代替わり、九条頼経の鎌倉下向を述べ、忠久が越前国守護人・地頭職などを安堵され、藤原姓を称するに至った経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 118頁
『島津忠久譜』の記事。承久三年六月、島津忠久が惟宗氏を改めて藤原氏を称したことを記し、後世の説明として近衛家との関係に触れる。
年月日未詳 / 冊子 132頁
『島津忠久譜』旧譜の記事。承久四年三月八日の夜、若君頼経の悩みにより御所南庭で月曜祭が行われ、大夫季貞が奉仕し、島津左衛門尉忠久が沙汰したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 139頁
『島津忠久譜』の記事。貞応三年十月十六日に天変を鎮める祈祷が行われ、島津左衛門尉忠久が奉行を務め、供料の沙汰にも関与したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 141頁
『島津忠久譜』所収の記事。嘉禄元年十二月二十日、若君頼経が御移徙の儀で一点に出御し、後供奉三十人の一人として島津忠久が従ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 143頁
『島津忠久譜』の記事。「おもひきや今日まで命ながらへて三そし三とせの手向せんとは」とする忠久関係の歌を掲げ、本文書は『島津国史記事中』に挿入された旨を注記する。
年月日未詳 / 冊子 143頁
『島津忠久譜』所収の『東鑑』記事。嘉禄三年四月十六日、将軍家頼経が御所南門で鬼気祭を行い、島津豊後守忠久が沙汰したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 144~145頁
『島津忠久譜』巻末の記事。忠久の官職・所領、鎌倉での奉公、薩摩・大隅・日向三国および伊賀・近江・讃岐の所領支配を述べる。諸系図・私記の差異を検討し、忠久・忠季・忠綱らの親族関係、出生年、母系、大友氏との関係、宇治川合戦後の一族の動向を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 146~154頁
『島津世家』巻二所収の島津忠久譜。忠久を源頼朝の庶子、母を比企能員の妹・丹後局とし、政子の嫉妬を避けた局が播磨国住吉の誕生石で出産し、狐火に照らされたとの出生伝承を記す。七歳で鶴岡八幡宮にて畠山重忠を加冠役に元服し、重忠の娘を妻とし、島津御荘地頭職と薩摩・大隅・日向三国守護職を得たとするが、薩摩下向年次には異説を併記する。奥州合戦で重忠と先鋒を務め、阿津賀志山攻めに従軍したこと、比企能員の変による守護職喪失・回復、近衛家の猶子となって藤原姓を称した二説、越前島津氏系譜を収録。後半は花尾権現の縁起、頼朝・丹後局らの像、建保六年銘の御正躰七鉢、霊鏡・国平丸の図と銘文、貞享元年の宝剣紛失確認、嘉禄三年四十九歳没の伝承を記す。
嘉禄三年六月十八日 / 冊子 155頁
島津忠久が信濃国太田庄内の惣政所・神代郷などの所職を左衛門尉忠義へ譲った状。忠義以外の者が妨げることを禁じ、永代に知行させる。
年月日未詳 / 冊子 394~395頁
和歌が天地・鬼神・人倫を動かす道であると説き、忠久以来の島津歴代、とりわけ忠宗・日新斎・貴久・義久・義弘・家久の和歌活動と、公家・歌人との交流を概説する。散在していた家久自筆の詠草を収集・分類し六巻の『家久詠歌遺藁集』とした編纂目的と凡例を記す序文。
建保三年十一月十一日 / 冊子 110~112頁
薩摩国の状況や京都への連絡、所領・軍事上の諸事を述べた忠久の書状。
年月日未詳 / 冊子 154頁
忠久の没年・年齢、剣や法名・墓所に関する伝承を記した譜伝記事。
永禄3年10月吉日 / 冊子 48~49頁/原整理番号 49の1
忠久下向時以来の役人の由緒を記す。本田を御幡奉行、酒匂を御沓役人、猿渡を御剣役人とし、東条・西条・鎌田・山田とあわせ下向役人七人という。旗指は真幸ツハノの相京方(原注は愛甲)にあったが、氏久代の國合合戦で討死し、その後左近が旗指となったと伝える。永禄三年十月吉日付で、正文は貴久公御譜にあるとの注記を伴う。
嘉禄三年六月十八日 / 冊子 489頁/原整理番号 316
『譲渡』の見出しのみを掲げる項目。掲載紙面には独立した本文を確認できず、次の文書番号317から譲渡関係の本文が始まる。
年月日未詳 / 冊子 158頁
北条泰時が三郎左衛門尉に宛てた仮名書状。申出の件は承知したが、関係者がなお申し立てるなら取り計らい、書状の趣旨を同心して処理するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 542頁/原整理番号 9
忠久下向の供人数帳から、丹後御局を冷泉天皇の末裔で惟宗卿の養藤四郎の子とする記載を抄録する。母の系譜に関する異伝として掲げる。
年月日未詳 / 冊子 35頁
山田聖栄の自記として、島津忠久の出自を頼朝と丹後局に関わる伝承によって記し、丹後局の養父八文字民部大輔の説などを載せる。