本田正親坪付
天正21年正月21日 / 冊子 666頁
加世田地頭所の名内にある「淀免いち口」一反四畝を、前田小右衛門尉へ宛てた坪付。 所在地・地目と面積を簡潔に示し、本田因幡介正親の花押をもって土地の給付範囲を確定した文書。
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天正21年正月21日 / 冊子 666頁
加世田地頭所の名内にある「淀免いち口」一反四畝を、前田小右衛門尉へ宛てた坪付。 所在地・地目と面積を簡潔に示し、本田因幡介正親の花押をもって土地の給付範囲を確定した文書。
三月七日 / 冊子 155~156頁
本田親存が高崎民部少輔・新納小右衛門佐に、蒲生城米の借用に伴う受状について述べた書状。本来は伊地知対馬守の管掌だが、関係する三人を自ら下知して取り成したため未処理であり、使者に持たせて進上すると伝える。上納時に改めて連絡し、自身は加治木普請の見回りで多忙なため書状で済ませる。
年月日未詳 / 冊子 411頁
『盛呑集』の記事で、庄内陣の際、高城から出撃した敵に新納小右衛門と黒田嘉兵衛が先進して槍を合わせ、城門まで追い込んだ戦功を記す。後に先陣を問われると、両者は互いに相手が先、自分は後だったと譲り合い、結局どちらが先陣か分からなかったという。
宝暦十年十月七日~十一月朔日 / 冊子 794~795頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2432
十月七日、継豊の病気急変を知らせる飛脚が江戸へ続いて到着し、驚いた重豪は幕府の許可を得て官医村田寿菴を薩摩へ派遣した。八日に家臣税所小右衛門篤見、道役の歩行士十一人、軽卒十三人と出発したが、十二日に継豊の訃報が江戸へ届いたため、浜松宿へ早使を出して呼び戻し、寿菴は二十一日に江戸へ帰った。十月七日には家治と家重がそれぞれ継豊の病気を尋ねる奉書を下し、酒井忠寄に託して薩摩へ送った。細江弥右衛門直香・大山源右衛門、歩士二人・軽卒二人が夜に江戸を発ち、東海・山陽・西海の道を経て十一月朔日に鹿児島へ着いた。
年月日未詳 / 冊子 233頁/原整理番号 333-19
前掲の面々の働きを記した記事。有吉頼母家来の中松傳助は一揆と槍を合わせて相手を突き伏せ、木部清太夫は早く二之丸へ着いて鉄砲で一人を倒し、矢で上帯付近を射貫かれても踏みとどまったという。米田与七郎は三之丸から二之丸へ乗り込み、蓮池辺で不意に槍を突き掛けた一揆を突き伏せた。歩の者田辺小右衛門も敵を突き伏せた旨を大声で近くの者に知らせたと記す。
正保4年 / 冊子 207~208頁/原整理番号 74
有川與左衛門の奉公歴と後裔を記す系図。與左衛門は飯野から栗野・帖佐・加治木の諸所へ供奉して御香番を勤め、のち鹿児島へ召し移された。正保四年の王子ヶ原大追物では、新納小右衛門と二人で御普請奉行を命じられた。後裔として有川幸右衛門・泉阿・與左衛門・清兵衛を掲げ、末尾に「兄之養子」との注記を付す。
年月日未詳 / 冊子 272~273頁/原整理番号 225
『天草征伐説書』。十月十九日頃に口之津村へ百姓が多数集まり、代官山内小右衛門らが見分と制止に向かった経緯を記す。二十一日・二十三日の代官らの往還、制止不能となった群衆、島原城への帰還と残留代官への申達を述べる。
年月日未詳 / 冊子 281頁/原整理番号 237
『天草征伐説書』。二十六日、深江村入口で荻野右馬之助が長刀で左肩から右脇腹を斬られ、負傷者を連れ帰って養生させたことを記す。のち荻小右衛門と称して板倉重矩に仕えたという。
年月日未詳 / 冊子 593頁/原整理番号 642
新納小右衛門久盛・中村源介・治木松右衛門・東郷宗兵衛らが各自の家僮を伴い、同四郎三郎久晴らとともに米之津へ到着したことを記す。
承応四年四月廿日 / 冊子 261~262頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0570
光久の内意を記す覚。新御殿未成なら小書院を使うこと、家老や城の小番・大番からの召列、随行、狩、鉄炮吟味・弓場、納戸・奥詰・代官等を指示する。四月十一日および十九日晩の御意を含み、獅子嶋では勢子十人ほどの狩、吉野の御馬追へは出向き福山の御馬追は無用とする。指図外の一門の供を禁じ、伊集院長右衛門の召列と来春上洛時の供も定める。末に承応四年四月二十日。
年月日未詳 / 冊子 440~442頁/原整理番号 416
熊本勢の接近を受け、一揆勢が天草上津浦を退き、島原側と合流して原城へ籠る経緯を記す。伊勢貞昌の本月十五日の江戸状も引用し、薩摩への出兵指示や肥後勢の進出を伝える。続いて天草四郎を本丸大将とする各郭の大将・番頭・鉄砲大将、武者・旗・鑓・使武者・夜廻・普請などの担当者と配置人数を詳記する。兵糧・兵器の取り込み、夜回り、防火、布製小旗、石積み・堀裏の穴など籠城防御の実施状況を述べ、総人数や一部の人物・日付には他史料の異説を併記する。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁/原整理番号 746
正月十六日を中心とする島原軍衆の人数差出留。前日到着の本田らの主従人数、始良衆・佐多衆・新納らの軍衆と夫丸、乗船勤務・到着地を記し、頴娃御蔵からの米受領、各人への米支給を注記する。季安は以後を十七日条へ分けたと説明し、十六日に米津へ到着した二階堂家中・敷根・福山・須木の人数を追記する。
三月八日 / 冊子 373頁/原整理番号 456
『清敷丸乗合人数覚』は、清敷丸の船頭志摩允を掲げ、野村新兵衛・岩助・谷口助右衛門尉・九左衛門・竹之内次郎兵衛尉・善兵衛・谷山諸右衛門尉・相良小右衛門尉・源太・池田助六・同名源左衛門尉・大左衛門の乗合十二人を列挙する。