犬追物手組
永正十四年九月十五日 / 冊子 614頁
永正十四年九月十五日の犬追物について、初日一番の射手と射数を列記した手組。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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永正十四年九月十五日 / 冊子 614頁
永正十四年九月十五日の犬追物について、初日一番の射手と射数を列記した手組。
正保四年十一月十七日 / 冊子 95~99頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0182
十一月十三日の犬追物について上手・次手・下手と所望による二手の射手・検見・喚次、犬奉行・犬放し・馬の配置等の諸役、会場手配・食事・進行を列記する。公方・大納言への進上物には鯛の折、後日の進上物には栗毛の御馬一疋などがあり、拝領小袖の明細も続く。翌日以降の御礼・登城を経て、十六日の乗馬衆を五十七、八騎ほどと報じる。図書から千菊殿への十一月十七日付。
年月日未詳 / 冊子 169頁/原整理番号 128
「延宝二年より宝暦十二年迄鏑流馬射手人数調」と掲げる短い表題。具体的な射手・人数や年次別の先例は次の枝番C::128-1以下に続く。
年月日未詳 / 冊子 169~171頁/原整理番号 128-1
鹿府稲荷鏑流馬の射手日記・記録奉行調書。延宝二年以降の御旧例と、天和・貞享・元禄年間などの上馬射手、光久公の御不例時の例を年代順に列記し、家系・役職名を付して射手人数の先例を示す。
年月日未詳 / 冊子 249頁
島津光久関係の犬追物手組。初日の第一組について、射手と騎馬の組合せ、および四角の外を回る順序を定めた編成表である。
年月日未詳 / 冊子 250~253頁
犬追物の手組を記した詳細な編成表。島津家一門・家臣について、初日各番の射手名、騎馬・馬役、組ごとの人数と配置を列挙し、四角の外を回る順序も定めている。犬追物実施時の参加者構成と進行順を示す記録である。
年月日未詳 / 冊子 253頁
犬追物の諸役者注文。初日から二日目までの各番について、射手・騎馬の組合せを列挙し、日記、幣之役、弓・太刀・鞭、犬放し、犬懸、狼藉時の兵具奉行など、競技運営を担う諸役と担当者を定めている。
寛永廿一年三月十三日 / 冊子 328頁
寛永二十一年三月十三日の犬追物手組。一番の外囲次第について、射手・騎馬の組合せと順序、検見役・喚次役などを列挙した編成表。
寛永廿一年三月十三日 / 冊子 328頁
寛永二十一年三月十三日の犬追物手組。一番の囲次第について、射手・騎馬の配置と検見役・喚次役・日記役・幣之役などの担当者を定めた編成表。
天和元年十月十六日 / 冊子 708頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1837
天和元年十月十六日の犬追物について、一番・二番の射手名、各人の二足・三足等の割当、侍従殿・検見・喚次などを掲げる手組表。一番は菊三郎殿を含み、二番は侍従殿を含む。正文在文庫・同文は吉貴公御譜中にもあるとの注を区別する。
十月(年は朱の安永四年)、御意付記は十月十九日 / 冊子 473頁/原整理番号 1298/整理ID 1298
代初の犬追物の際、射手の人数のうち御庶流の者が嶋津の家号を名乗り、手組の看板に書き記す古例があると川上十郎衛門から申し出たため、御記録奉行へ調べさせたとする。冒頭の川上の名には左脱カの注があり、後段は十郎左衛門と記す。記録を調べたところ、以前の犬追物では家号を名乗らない旨が別紙の通り示されたとして、代初の式を御覧になることに伴い、その点を申し談じて問い合わせる。続いて、最初の犬を担当する御小者一人を当日に赦免する古例があるとの申出があり、同様に申し合わせたところ、家伝の犬追物に際する赦免の作法として申し出た通りを仰せ付けてよいかを伺う。本文と並んで朱の本文違と記した小字があり、家号を名乗る必要はないとすること、小者赦免は追って調べて申し上げることを記す。末尾は十月、小松帯刀、御取次山田司の表示。別の小字には古例の由であっても無用と仰せ付ける旨の御意と十月十九日が付く。出典は重豪公御譜中、扣正文在家老座の記載がある。古例の申出・記録の照会結果・伺い、朱の異文、御意の付記を分け、家号使用や小者赦免をすべて承認・実施済みとしない。小者一人という本文の数量を保持し、御意の付記日を主伺書の独立した発給日と決めつけない。本文の犬追物・大追物の字形も一律に改めない。
享和元年酉5月(書付末。旧行事は正保3~4年) / 冊子 191~194頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0042
大猷院の代、大隅守光久が家伝犬追物の上覧を願い、正保4年11月13日に武州王子村で行った旧記を、享和元年5月にまとめる。前年4月7日には試しとして老中・大名・旗本を芝屋敷へ招き二手組で実施。正保3年4月18日の国元への暇と帰国挨拶、翌年3月射手参府、9月12日の上覧命令・13日光久登城、18日会場普請の命令と家老・地引担当、28日の上覧許可再通知、11月3日射手の修行、10日の酒井讃岐守による図書召出しと13日実施決定を記す。光久側の膳進上願は不要とされ、射手は12騎ずつ三手に分け計36騎、別に射手以外の検見・喚次ら12騎と記す。会場は竹垣、東西42間・南北40間、三か所の口。烏帽子・素袍・小刀・籠手・鞢・行縢・沓、馬上弓・蟇目矢、奉行・記録役と二童子の装束を記す。己上刻、尾張・紀伊・水戸父子らが桟敷、光久・又三郎が御目見・献上、12騎ずつ三手組の犬追物を開始。一手組の追加希望も叶い、終了後は茶亭で再召、光久へ脇差、又三郎へ腰物、射手・掛役へ膳と時服を賜った。申上刻過ぎ帰還、16日に父子・家老・射手が登城謝礼し太刀等を献上、時服を頂戴、12月2日にも上覧御礼、二丸大納言への御目見・献上・腰物拝領を経て本丸へ登城した。各準備日、人数、寸法、当日の進行と複数回の謝礼を分ける。
建久4年5月29日(1193、5月11日・13日の記事) / 冊子 425~426頁/原整理番号 11
富士野御狩について、横沢辺へ向かう命令、駿河国浮島原から富士山麓へ至る景観、諸国・諸氏から選抜された射手と騎馬の編成、狩猟当日の大群集を記した建久四年五月二十九日付抜書。五月十一日午刻に浮島原へ着き、同地を烈獵五年に湧出した希代の名所と説明し、東西南北の地勢や六王子宮居御座平を詳述する。十三日卯刻には二万一千余騎が横沢辺へ向かい、千葉・足利・畠山らが八か国から勝れた射手を選び、近江・信濃、上総・下総をはじめ多数の武士を三番・二番等の射手組に編成した。同日辰刻、富士山水精嶽東宮南大鳥居原は馬を立てる余地もないほどの大勢で満ち、騎馬の者が逸物を競い、草葉を分けて猪・鹿を追う情景を記す。藤原正行が梶原殿へ進上した文書で、末尾注記は射手組二番に大平薩摩四郎が含まれるため、渕辺家の先祖との見合い用に書写して置いたと説明する。
年月日未詳 / 冊子 155~163頁/原整理番号 113
『寛明日記』巻第三十一の抄。正保四年十一月十三日に島津薩摩守光久らが将軍家の犬追物御覧に臨むまでの馬場・御座の設営、射手と検見・喚次の装束と配置、複数回の射の進行を詳記する。射手の退出、太刀・馬などの献上、十二月の答礼まで続く。
年月日未詳 / 冊子 163~164頁/原整理番号 114
「羅山子撰」とある犬追物記。正保三年四月七日、薩州太守島津氏が老少を招いた犬追物について、竹柵と馬場の寸法、御座と射手・検見・喚次の配置、犬を放って射る順序や勝敗の定めを述べる。前件の日記ではなく催事の構成・作法を記した文章。
年月日未詳 / 冊子 165~166頁/原整理番号 118
犬十疋の「御乞大手組」を掲げ、島津東市正・種子島伊兵衛尉・島津主計らの矢数を示す。続いて検見、喚次、執筆、幣之役、射手奉行、犬放衆、御目見得手など多数の役人を列記する。日付の明記はない。
承応二年八月廿九日 / 冊子 22~23頁/原整理番号 22
山狩の法度。犬・猪・鹿を射る際の射手と矢の扱い、獲物の分配、行司の役割、狩場での振る舞いを細かく規定する。末尾には山野・水・海の神々に誓う長い起請文を付し、違反を戒める。
天文二年八月十五日 / 冊子 718~719頁
百手射に参加した射手の交名と成績表。新納久四郎入道宗心のもと、笠岩・鳴近・鳴四・鳴孫ら各射手について十射ごとの的中を印で記し、合計中数を算出する。続いて笠懸の射手名と成績も掲げ、家中弓術行事の参加者・技量を比較できる。
天文二年十月廿八日 / 冊子 719頁
笠懸射手九名の交名と、各人十射の的中状況・合計を黒白の丸印で記した成績表。
正保四年十一月十三日 / 冊子 92~93頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0174
正保四年十一月十三日、王子村の犬追物で忠広が射手に列し、将軍家光の台覧に備えた。十六日に登城して奉拝し小袖三襲を賜り、十二月二日には二丸で家綱に拝謁して小袖二重を拝戴したという市正忠広譜の記事。
正保四年十一月十三日 / 冊子 93頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0178
樺山諸右衛門尉久広譜中の記事。十一月十三日、光久が王子村で張行し将軍家の台覧に備えた犬追物に、本文では久列が射手に列したとあり、小字に久広かとの注が付く。登城して奉拝し衣服を拝戴したと記す。別注では樺山長門忠則もこの時の射手と譜中にあるという。
明治12年11月27日・29日 / 冊子 981頁/原整理番号 1270の2/整理ID 1270-2
十一月二十七日の犬追物の射手組分けを記し、上手組・下手組・次手組の射手、検見役・喚次を列挙する。続く二十九日付内田政風書状は、犬追物天覧次第を別封で玉里邸へ回覧し、一同が見た後は封をして返却するよう求める。
明治12年12月23日 / 冊子 982頁/原整理番号 1272/整理ID 1272
十二月二十三日、天皇が吹上禁苑で犬追物を再覧し、島津忠義以下が奉仕した。還幸後、射手へ酒一樽と折詰一箱を賜い、翌日忠義が参内して花瓶一対と紅白縮緬三十反を拝領した。射手・日記役・絡役らにもそれぞれ品を賜った。
天文二年八月十五日 / 冊子 140~141頁/原整理番号 71
天文二年八月十五日の百手射手交名。笠岩・島津近江・島津四郎・島津孫四郎ら射手を横に並べ、丸印と十字の組合せで百手射の記録を表にする。末尾には「百」「十」の表示があり、書状ではない。
天文二年十月廿八日 / 冊子 141頁/原整理番号 72
天文二年十月二十八日の笠懸射手交名。近江守殿・四郎殿・安芸丸・本田紀伊守・島津又五郎らの射手別に黒丸と白丸を配し、欄下に数を記した図式である。
独立年月日記載なし(目録は安永二年の記事群) / 冊子 384頁後の無頁番号折込(題記384頁)頁/原整理番号 1083/整理ID 1083
「造士館・演武館絵図折込み」とする題記に続く施設配置図。垣で区切った敷地の中に、聖堂と門・杏壇、講堂や御座の間などの諸室、文庫二棟、供所などを描く。文教施設に隣接して剣術稽古所二棟、鎗術稽古所、射手屋と射場、犬追物稽古場、周囲の馬乗場、馬見所・御膳所・目附詰所などを配する。中門・小門、石橋を伴う門、外周の通りや城山方向も記し、建物ごとの柱・部屋、庭・通路・垣のつながりを示す。神農堂については建物とは別に「神農堂地」の表示がある。文教・祭祀と武芸の施設を一つの敷地配置として把握できる図で、創建記事の「左図」に対応する。
是歳冬十一月十三日(安永四年の文脈) / 冊子 475頁/原整理番号 1308/整理ID 1308
この年冬十一月十三日、重豪が演武館で犬追物を初めて講じ、射手の上班・次班・下班・論犬の班と、検見・喚次が、それぞれ定められた法に従ったと記す。これを代始の大追物とする。小字注は浄國公に触れて、長く講じられず犬追物場だけが残っていたが、この時再び講じたことを説明し、實予意也と結ぶ。重豪の代での復講として整理し、犬追物自体をこの日に初めて創設したとはしない。
寛永廿年二月廿九日 / 冊子 229頁/原整理番号 171-4
同じ留帳の二月二十九日付の書状。射止めた狼を運んだ人夫二人の日用賃と射手への礼銀をどう支払うかを相談し、山奉行・役奉行への手続きを求める。
年月日未詳 / 冊子 127~128頁/原整理番号 33
笠懸日記。御屋形忠昌の病気平癒を願い、文明十五年八月二十一日、薩摩国一宮新田八幡大菩薩の神前で笠懸を行うこととなり、島津十郎左衛門尉に奉行を命じた経緯を記す。本日記を宝殿に納めたため写し置き、翌日に高江へ至る記事へ続く。
貞和五年八月八日 / 冊子 789頁
上杉左馬助が島津周防三郎左衛門尉へ、来る十二日に高倉殿で行われる弓場始に射手として参勤するよう命じた奉書。
応永二年二月廿九日 / 冊子 158~159頁
応永二年二月廿九日の犬追物について、伊東氏・島津一族・湯地氏・野村氏・鹿野屋氏などの射手を左右・組別に配した手組一覧。
応永廿三年二月廿八日 / 冊子 295頁
応永二十三年二月二十八日に行われた犬追物の手組を、殿方・射手方などの組別に列記した記録。島津・蒲生・吉田・平田・安楽・柏原・市来ら参加者の配置と人数を示す。
応永卅三年二月廿八日 / 冊子 336頁
犬追物の射手を組分けし、島津氏一族・蒲生・平田・伊作・市来など各参加者の足数を記した手組。
年月日未詳 / 冊子 502~503頁
文明十五年八月廿一日に二宮新田八幡大菩薩神前で行われた笠懸について、射手や役割を列記した日記記事。
文亀三年七月廿四日 / 冊子 580頁
文亀三年七月二十四日に催された犬追物の編成表。島津忠昌家臣ら参加者を複数の組に分け、各組の射手名、持分、人数を列挙することで、競技当日の対戦・射礼の組合せと、家中武士が担った役割を確認できるようにした手組書。
文亀四年三月廿二日 / 冊子 584頁
文亀四年三月二十二日の犬追物について、島津備前守・豊後守ら各組の射手名と持分を列挙した手組書。
天文三年正月十六日 / 冊子 722~723頁
大的の射手交名と各人の的中数を丸印で記した日記。鳴津近江守・孫四郎・駿河守らの成績を掲げる。
天文九年十一月廿一日 / 冊子 791頁
島津貴久が川上武蔵守に示した犬追物の手組で、相模守入道以下の射手を各組に分け、騎射の順序と役割を定めた。
天文九年十一月廿二日 / 冊子 791~792頁
犬追物の射手を左右の組に分け、本田民部少輔・嶋津武蔵守・相模守入道らの順番と射数を定めた手組。
天文九年十一月十一日 / 冊子 792頁
相模守入道をはじめとする射手を左右の組に分け、各人の射数を定めた犬追物の手組。
天文九年十一月十五日 / 冊子 793頁
相模守入道・嶋津尾張守らを組み合わせ、射手ごとの射数を示した犬追物の手組。
天文十年正月十二日 / 冊子 793頁
相模守入道・嶋津上野入道らを左右に分け、各射手の射数を定めた犬追物の手組。
年月日未詳 / 冊子 817頁
鬼ヶ城攻防の続編。北郷忠相方は少勢の城兵を励まし、あえて伊東勢を城近くへ引き寄せ、伏兵と射手を配置して側面・城内から攻撃した。敵の攻勢を崩して退却させ、追撃によって鬼ヶ城を確保した経過を記し、寡兵での防御戦術を示す。
天正三年三月十五日 / 冊子 430~431頁
天正三年三月十五日の代始犬追物の手組で、義久が二十九疋を射たのをはじめ、各射手を角ごとに配し、射犬数と検見・喚次を記録する。終了後は桟敷で三献を行い、川上経久に馬・太刀を与え、射手を手組順に召して酒を賜った。
天正三年三月十五日 / 冊子 431頁
三月十五日の犬追物で定数の犬を射終えた後、義久が桟敷で三献を行い、川上久隅・歳久・喜入季久・川上経久が同席した。川上経久へ馬・太刀を与え、射手を手組の順に召して盃酒を賜った儀礼を記す。
天正三年三月十六日 / 冊子 431頁
天正三年三月十六日の犬追物手組として、島津以久・新納忠実・頴娃久虎らの射手、各人の射犬数、検見・喚次を列挙する。
天正三年三月十六日 / 冊子 431頁
三月十六日の犬追物で、義久が屋形内の桟敷から馬場を見物し、義弘以下の一族・家老が馬場の桟敷に座したこと、定数の犬を射終えたのち射手らを屋形内へ召したことを記す。
天正三年三月廿四日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月二十四日の犬追物手組として、四角に分かれた射手、各人の射犬数、検見・喚次を記す。犬を射終えた後は桟敷で三献を行い、一所衆・諸地頭も太刀を持参した。
天正三年三月廿四日 / 冊子 432頁
犬追物の定数を射終えた後、四角の射手を桟敷へ召して三献を行い成就を祝った儀礼を記す。配膳・手長を定め、射手は三日間の手組順に太刀を持参し、その後一所衆・諸地頭も順不同で進上、町田久倍・本田正親・上井覚兼が受け取った。
年月日未詳 / 冊子 94頁
犬追物が鎌倉幕府以来の武家故実で、島津忠久から代々継承されたことを述べる島津家久譜の記事。家久襲封後初の犬追物を十一月二十五日から二十七日まで三日間行い、続けて射手の組合せと教命書を掲げるとする。