伊地知重昌覚書
宝永二年十二月廿日 / 冊子 76~77頁/原整理番号 7
伊地知重昌は、宝永二年十二月、正月の椀飯と五節供の調製を、伊地知家に伝わる古式の書を基に御包丁人頭が行うことになった経緯を記す。それまで鎌倉流と称して担当した重信家には古い書がないと判明し、伊地知家の書を御包丁人頭へ示し、写本を提出して返却を受けたという。
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宝永二年十二月廿日 / 冊子 76~77頁/原整理番号 7
伊地知重昌は、宝永二年十二月、正月の椀飯と五節供の調製を、伊地知家に伝わる古式の書を基に御包丁人頭が行うことになった経緯を記す。それまで鎌倉流と称して担当した重信家には古い書がないと判明し、伊地知家の書を御包丁人頭へ示し、写本を提出して返却を受けたという。
一件書出2元禄八年五月十八日 / 冊子 85頁/原整理番号 15-2
伊地知重英は、正月元日に伊地知・本田両家が特別に目見えし、椀飯を進上する旧例を調べる。川上家も後に元日の出仕で特別扱いされたとし、伊地知家が元日に、本田家が十五日に椀飯を進上する順序を『吾妻鏡』に見える鎌倉の慣行と比べる。元禄八年五月十八日付の調書。
三六冖宝暦十三年十二月廿九日 / 冊子 141~142頁/原整理番号 36
宝暦十三年十二月二十九日付、記録方・記録奉行五名の連署調書。川田伊織が年頭に役職上の席で太刀を進上する一方、家格による太刀進上は養子の彦七に任せたいと願い出た件を検討する。歴代の座配と嫡子による進上の先例を挙げ、彦七が親の家格の席で進上することを認めるべきだと結論づける。
年月日未詳 / 冊子 227~228頁/原整理番号 170
御馬追を帰陣祝いの恒例とする伝承を記した記事。吉野御馬追で若い乗り手が馬を巧みに乗りこなし、人々の注目を集めた逸話を伝える。あわせて加久藤の古帳や留帳を参照し、馬追と牧をめぐる記録を類集する。
年月日未詳 / 冊子 458~460頁/原整理番号 266-4
記録所による家筋の調書。島津備前守忠清から新納家への系譜、養子・家督相続、所領の継承を史料に照らして検討する。
亥8月晦日(本文。享和3年は一件蓋紙による) / 冊子 219頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0051
706の3。お長の母は永田閑龍養女、実は清水源左衛門家来の青木休右衛門女との申出を受け、系図の母附をどう書くか吟味する。史料は休右衛門の身分を理由に名前を書かず閑龍養女とのみ記す案を挙げ、寛陽院(島津光久)の子女の先例では家の女房とし父の姓名を省いた例と、士以上の女子は父兄の姓名を書く例があると比較する。休右衛門は元来下中町名頭青木嘉右衛門と称したが、家来となってもその名前を載せ難いとする。結論と署名は同じ上段左側に続く。亥8月晦日、本田孫九郎・平山五郎右衛門・平田貞太郎・橋口善兵衛、記録方見習の相良太郎太・本田休七・八田孝之進が列記される。目録は本田孫九郎外八名連署首尾書で、実見できる名は7名のため人数異同を留保する。史料の身分観と記載方針として説明し、現代の人物評価へ転用しない。
天保5年9月25日 / 冊子 1001~1003頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0147
左近卒去後の家新設と家格をめぐり、九月二十日付吟味書を補う篠原善助・相良甚太夫の追加調書。中将の深い意向を受け、浄国院・大玄院・寛陽院らの男子から一所持家を立てた例、既存家へ養子に入った例、いったん断絶・処分された家を由緒や功績により再興した例、実子・養子・女子の縁組を介して家督を継いだ例を改めて比較する。慶長・元和以来の事例について、家格一所持、太刀着座、家老・番頭・地頭職、知行・宅地・役料の給付、元服と称号、再興時の席次を検討する。近世の三男・六男らが本家や別家を継いだ例、女子の跡が法例どおり直ちに独立家となるわけではないこと、久近・久亮・久四郎忠清らの由緒と処遇も挙げる。左近家を新設するなら御至情と先祖の功績を考慮できる一方、同様の事例は一律でなく、家格・席次、資財・家屋、将来の存続、他家との均衡を慎重に定める必要があると結論する。申上げた趣旨への指示を求める。天保五年午九月二十五日、篠原善助・相良甚太夫。先行調書と重なる先例も別文書として保持する。
二月十五日 / 冊子 139~140頁/原整理番号 233-2
種子島十左衛門が九字二十目の御鉄砲の由緒を記した覚書。同族山栖から伝承を聞き、寛陽院様の代に山栖三郎次郎が御持筒として用いたのち御鉄砲蔵へ納めたこと、島原籠城時に御用のため再び使用したこと、その後八匁・十匁の鉄砲二挺を蔵へ納めたことなどを御記録所へ届ける。
(元禄九年)十月晦日 / 冊子 321~323頁/原整理番号 169
児玉四郎右衛門が常盤谷での御能を記した覚書。綱貴の任官祝いに前年も江戸で能が催され、今回は寛陽院と親しい者たちへ見物が許された。自身の病状を踏まえて参上し、料理・酒・茶の振る舞いと席の進行、御前での拝見、能・狂言の番組を記録する。島津万山老・町田・伊集院らの観客、川上将監や山田政國、碇山次右衛門などの名簿、能の役者組も列挙している。
元禄七年十一月~十二月(前書は宝暦五年) / 冊子 217~219頁/原整理番号 3
池田養拙の日記から、元禄七年十一月に光久の病状が悪化して二十九日に逝去し、養拙ら十二人が遺体の側で番を務めた経過を抜く。十二月朔日に福昌寺へ遺体を移し、十九日の葬礼で棺・馬・燈籠・太刀などを担った家臣の名を記す。冒頭には宝暦五年の園徳院逝去・遺体移送の記事も置く。
(元禄七年)九月 / 冊子 321頁/原整理番号 167
光久の形見として、中神内蔵之丞には羽織二着、碇山次右衛門には綿入り羽織一着と帷子一着を配分する目録の抄。
記事 / 冊子 242頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0684
重年公御譜は、前年の江戸での襲封・元服に伴い、今年正月十八日、先例に従って薩府で使者を命じ先霊へ礼物を納めたと記す。台徳公・大猷公・厳有公・常憲公・文照公には各白銀二枚、南泉院の有章公、清揚院、慈眼院、不断光院の大玄院・寛陽院・陽和院・泰清院・真修院、福昌寺の蘭室院・霊龍院・深固院等、恵燈院の義天公には各白銀一枚を納める。本立寺の五世霊塔には青蚨二百匹、興国寺・南林寺・妙谷寺・隆盛院等の島津先霊にも白銀一枚を納め、襲封を賀した。同月二十一日には将軍家六霊を南泉院で拝し、元服を賀して慈眼院・浄国院・月桂院・瑞仙院や島津先霊にも白銀一枚を納めた。「従先蹤」は先例に従う意で、襲封と元服の献納が二日間に分けて行われた。
明和元年 閏十二月廿三日(年は朱注) / 冊子 43~45頁/原整理番号 144/整理ID 144
太守の官位昇進に伴う社寺・霊牌等への献納と代参の申渡書。大雄山御宮へ白銀二枚、台徳院以下大猷院・厳有院・常憲院・文昭院・有章院・有徳院・惇信院の位牌殿へ各一枚を南泉院に納め、花尾山の忠良、加世田日新寺の慈眼院・寛陽院・泰清院・大玄院・有邦院・慈徳院の各位牌、福昌寺の円徳院位牌、浄光明寺の浄国院位牌へも各一枚を献じる。諏方・稲荷・祇園・若宮・春日・福ケ迫諏訪、尾畔三社と御休息所御看経所には青銅百疋ずつを記す。尾畔三社等の代参は近習役を勤めさせ、護摩所不動・表御看経所には進納物がなくても近習役が代参するよう、使番から伝達する。末尾は、明後廿五日に代参して献納・寺納し、御手当を如例申し渡すこと、代参人柄の指示と取次の注、日新寺には来る廿七日に代参があることを記す。閏十二月廿三日、樺山左京の署、久智の人物注。朱注の申聞は十二月廿三日。出典注は重豪公御譜中・扣正文在家老座。目録の表題・年月日と対応する。
安永四年五月二十六日(年は朱)、包紙も未五月二十六日 / 冊子 456~457頁/原整理番号 1266/整理ID 1266
高百五十石ずつ、浄國院・有邦院・慈德院・圓德院の菩提のため、それぞれの名で寄付し、その所務を年々福昌寺・浄光明寺へ相渡すことを述べる。各法号には吉貴・継豊・宗信・重年の注がある。また寛陽院・大玄院の寄付高も同前と仰せ付けられたとし、光久・綱貴の注を伴う。近日、御判物・御書付は大御目付の御使者によって各寺へ渡し、家老中の書付は御馬廻をもって同日に渡す予定を記す。この先例に従って首尾を整える旨を寺社奉行へ申し渡し、御記録奉行やほかの関係者にも漏れなく例の通り伝えるよう求める。ただし日限は追って申し渡すと付す。末尾は朱の安永四年五月二十六日、仲、重豪公御譜中の写で正文は文庫。包紙には朱の七十五、未五月二十六日、白木御文書五番箱へ郡山主右衛門が納め置いたとの注がある。文書の種類ごとの交付役と年々の所務を分け、交付日を五月二十六日と補ったり、五番箱を五箱の数量にしたりしない。有邦の原表記は先行の宥邦表記へ一律に改めない。
七月(本文末)、包紙は安永四年未七月十日渡・同十三日納置 / 冊子 468頁/原整理番号 1282/整理ID 1282
先祖の仏餉高について江戸へ伺ったところ、別紙の通り返答があったとする。五代目に当たる先祖の仏餉高を百五十石ずつ付す扱いとし、浄國院・有邦院・慈德院・圓德院にそれぞれ百五十石ずつ、都合六百石を御判物により寄付したと記す。法号には吉貴・継豊・宗信・重年の注がある。他方、かつて中納言に三百石を付していた分は銀三百枚に替え、寛陽院・大玄院に百五十石ずつ付していた分は銀百五十枚ずつに替え、泰清院の百石は銀百枚に替えるとする。中納言・寛陽・大玄・泰清には家久・光久・綱貴・綱久の注がある。以後もこの扱いに準じ、六代目となった時は高を銀に替える手順を整えるよう述べる。六百石は万々年まで済むよう仰せ出され、別紙の趣旨を帳面に詳しく記し、六代目になる時には家老中から間違いなく申し出るよう命じる。末尾は七月、主馬・帯刀・伊織・市正・仲の五名連署と各人名注。包紙には朱の七十七、安永四年未七月十日に主馬から渡されたこと、同十三日に白木御文書五番箱へ一条原善兵衛が納めたことを記す。原の有邦を宥邦へ改めない。新たな四法号の高と、別の旧高を銀へ切り替える額を分け、石と枚を同じ数量として合算しない。将来の六代目の手順を当日の銀切替完了へ移さず、渡日・納置日と本文の発給日も区別する。
七月(本文末、年は朱の安永四年)、包紙は同十二日納置 / 冊子 468~469頁/原整理番号 1283/整理ID 1283
冒頭に御高三百石、右者と記す。中納言の仏餉料としてこれまで付していた高を、銀三百枚の元手へ替え、利足として銀一貫五百目ずつを年々相渡すとする。寛陽院・大玄院の仏餉料はそれぞれ高百五十石を銀百五十枚ずつへ替え、同様に年々銀一貫目ずつを相渡す。泰清院の仏餉料は高百石を銀百枚へ替え、年々銀八百目を相渡すとする。右の通り仰せ付け、従来の御判物・御書付・家老添書は召し置き、銀を物方へ預け、その利足を毎年仏餉などへ差し上げるよう命じる。四霊の仏前廻その他の用が格別に減少するので、利足によって賄い、掃除などは住持が以前より怠慢なく行うよう求める。当年から高に関する儀は表方へ差し出す扱いとし、その旨を福昌寺へ申し渡す。続く末尾で首尾を整える旨を寺社奉行へ申し渡し、首尾係へも漏れなく伝えるよう担当役に求める。七月、主馬・帯刀・伊織・市正・仲の五名連署、年は朱に安永四年。包紙には朱の七十六、安永四年未七月の家老衆書付一通、同十二日に白木御文書五番箱へ児玉主左衛門が納めたことを記す。
文化元年子10月16日(朱注。享保・延享・宝暦の先例を遡記) / 冊子 280~281頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0063
大奥で召し仕えた女中が子を産んだ後に縁付を命じられた例、また子へ直接召し付けられた者があるか調べるよう命じられたことへの先例調書。浄国院(島津吉貴)の妾、郷田仲兵衛兼近女お幾・後霜林は子を産み、後に重富屋敷へ移った。重富留守居へ照会すると、当若狭殿の祖父周防殿(忠紀・注)が享保19寅9月に磯で生まれ、すぐ月桂院(吉貴側室)の養育となったが、延享2年乙丑3月21日に下屋敷から鼓川へ移り、同日母を勝浦山屋敷から召し移したと分かった。家元郷田安左衛門にも照会したが詳細不明で、形行いの次第は不知とする。吉貴の妾、近藤三左衛門嘉包女お政・後貞寿院は因幡殿の実母。吉貴逝去時まで御側に召し仕え、その後因幡方へ移り、今和泉留守居によれば延享元年甲子5月15日、因幡(初三次郎)の磯付高屋敷と道具を拝領、延享4年丁卯10月の遷去時も因幡の拝領なので磯屋敷で籠居した。宝暦2年申7月に居屋敷を拝領して家作し、翌3年酉には母子が喜入へ移った。有邦院(島津継豊)の妾、伊地知八四郎季鄰女おはんは本殿の実母で、知覧屋敷へ移った。享保17年子閏5月朔日に本丸大奥で出生し同日島津本久豪方へ引越し、直子の筋で養育された。延享2年丑12月朔日に北条織部から母を本殿方へ移す旨、100石の所務を一世下す旨を命じ、同日玄蕃から50石の所務を一世付けられたが、50石以外に本殿からの命はないとする。翌寅年2月26日、本殿15歳の時におはんが知覧へ移った。以上の先例は調べたが古い事なので細部は不明で、寛陽院(島津光久)の妾から子に召し付けられた人もあるものの、出産後の縁与等は見当たらないと報告する。文化元年子10月16日の朱注、記録奉行本田孫九郎・平山五郎右衛門、記録方添役橋口善兵衛、見習碇山八郎右衛門・本田休七・八田孝之進の六名を掲げる。居住・養育・道具・一世禄の先例と、縁付について確かな例を示せない調査結果を分ける。
慶長~元和年間 / 冊子 66~67頁/原整理番号 20
旧伝集から、寛陽院光久と弟兵庫頭忠朗の誕生順と世継の公表時期、光久が国分の持明様を養母とした経緯を引く。季安は六歳まで世継が定まらなかったとの伝承と元和八年の養子・世継の二説を照合し、伊勢貞昌・喜入久正らの周旋を考える。
天保5年9月20日 / 冊子 996~1001頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0146
左近の跡目と家格・連名順位を検討するため、篠原善助と相良甚太夫が支族諸家の成立・相続先例を調べた第一の吟味書。御誕生後ほどなく夭折した男子、御七男左近、御八男為次郎らの位置を示したうえ、大玄院在世中に行われた支族・諸士の家筋吟味以後の制度を参照する。一門方四家、準一門、豊州家・永吉家・佐多家・佐土原家などについて、二男以下の分家、別腹の長男、家督相続、養子、断絶後の再興、地頭職・番頭・御側役等への任命、太刀着座・家格一所持格の付与、知行・宅地・役料の給付を時代順に列挙する。元禄・享保・正徳・文化・天和・宝永・享保・寛政などの先例を引き、家の新設が血統順位だけで一律に決まらず、当主の功績、先祖の由緒、当時の役職と家格、養子・実子の関係、家督継承の事情を伴うことを示す。左近家を新設する場合の家格・席次をどこに置くか、先例と現在の一所持家の配列に照らして慎重に伺う。天保五年午九月二十日、篠原善助・相良甚太夫。全家系を現代的な系図へ再構成せず、本文が跡目判断の根拠として挙げた先例群として保持する。
安政三年正月(本文)、正月廿一日(外包受渡)。応永三十二年正月廿一日(久豊逝去)、安永三年・天保十二年ほか(調査経過) / 冊子 167~169頁/原整理番号 233/整理ID 233
八代久豊の墓所と「義天」銘石塔・掘出骨の調査を述べ、混同を防ぐ処置を命じる文書。久豊は応永三十二年正月二十一日逝去、法号を義天存忠大禪定門とするが葬地が明らかでなく、安永三年に穆佐悟性寺の義天塚と伝える場所から骨を納めた甕、香炉や鈴が見つかっても確証が得られなかったとする。天保十二年に義天の二字を刻む石塔と笠石が出たため、旧文書・古老の伝承等を調べた。久豊の鹿児島での葬儀・法事、福昌寺の卵塔や御石塔等から廟所を検討し、去る丑年には上村休兵衛・榎本新兵衛を遣わして絵図と古い墓地の情報を集めたと記す。一方、火葬と土葬、後世の埋葬、損傷して読めない文字、記録の乏しさ等を挙げて、石塔の由来と掘出骨の身元は分けて慎重に扱う。石塔の文字を磨り消して寺内へ埋め、別途石塔一基の建立を命じ、穆佐中で奉尊し祭式を入念に行う扱い、寺家への書付と後年紛れない保管を示す。寺社奉行・穆佐地頭は石塔の取扱いと場所を吟味して寺家へ伝え、書付を取り調べ申し出るよう求める。本文末は正月・豊後、外包は安政三年正月二十一日に上村休兵衛へ渡して白木御文書十番箱へ納めたと記す。
慶長十八年~元和年間の記事 / 冊子 64~66頁/原整理番号 19
伊地知越右衛門所蔵日記の抄録。慶長十八年の兵庫頭の体調と諏訪社での祈願・神楽・社参、翌年以後の鎌田氏らの出産、兵庫頭の夭折、元和二年の光久誕生を列記する。日記の記述とその後の季安の補記を含む。
元禄八年二月~十二月 / 冊子 219~220頁/原整理番号 4
池田養拙の日記は、光久の遺骨を高野山へ納める使いへの同行願いが認められたこと、元禄八年六月五日に出立して二十二日に高野山で勤めを終え、奥院石塔へ遺骨を納めたことを記す。養拙は現地で剃髪し、帰国後もその姿でいる許可を得た。
明和四年十月日 / 冊子 45~47頁/原整理番号 10
記録奉行は、宝暦八年に命じられた御家譜編集が明和四年になっても完了せず、従来の四ツ時から八ツ時までの勤務では進捗が遅いと訴える。先例の勤務時間・賄いの扱いと現在の費用負担を比較したうえで、奉行と筆者が当面は自弁で夕方まで長詰し、作業量と完成までの年数を試算する許可を求めた。
元禄十四年十一月廿八日 / 冊子 456~458頁/原整理番号 266-1
新納市正の口上覚。島津備前守の家筋を受け継ぐ経緯と、先祖からの奉公、相続時の取扱いを述べ、家名・家督について裁可を願う。元禄十四年十一月二十八日付。
年月日未詳 / 冊子 900頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2441
島津光久が元禄七年十一月二十九日に七十九歳で逝去し、寛陽院殿と追号されたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 907~908頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2477
幕医の診療後も島津光久の病状は次第に悪化し、元禄七年十一月二十九日申刻に七十九歳で死去して、寛陽院殿泰雲慈温大居士と追号されたことを記す記事。
元禄九年十一月九日 / 冊子 973頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2700
島津綱貴が、島津光久(寛陽院殿)の菩提料として、大隅国始羅郡帖佐郷住吉村内の百五十石を福昌寺へ寄附し、霊前の諸用を怠らないよう命じた袖判寄進状。
十一月二日 / 冊子 620頁/整理ID 2116
肝付主殿久兼・川上式部久重・島津帯刀忠雄・島津中務久輝・島津大蔵久明が福昌寺へ、大玄院の菩提のため高百五十斛を寄附する旨に島津吉貴が判を据えたと証した連署証状。寛陽院の仏餉料と同様に収納して霊前諸用へ渡し、仏餉・勤行を怠らず執行するよう命じた。
宝永六年四月三日 / 冊子 836–837頁/整理ID 2785
島津帯刀仲休・種子島弾正伊時の四月三日付口上覚。家宣代替御礼は二日から始まり、三日六ツ時過ぎ吉貴が登城し、大広間で太刀・馬代を献じ、老中・若年寄らへの挨拶と太刀目録引渡しを行う手順を記す。太刀は備前国綱代十五枚、馬代は大判金一枚とし、常憲院代替時の寛陽院からの太刀献上先例を挙げる。退城後櫻田屋敷と諸役の館を訪ね、以後初の対面時に祝儀を述べるよう知らせる。
本文年月日未詳 / 冊子 313頁/原整理番号 82
『盛香集』巻二から、島津家の一向宗禁制の由来について、寛陽院の母の調伏という伝承と伊集院幸侃に関する説を引く。季安は年代や関連史料を挙げて検討する。
年月日未詳 / 冊子 45頁/原整理番号 145/整理ID 145
先の官位昇進により、この冬閏十二月二十五日、島津肥前忠紀を大雄山の神祖廟へ遣わして白銀二枚を献じ、島津播磨久敦を通じて台徳公から惇信公まで八代の霊牌へ各一枚を献じた。同日、島津図書久濃を花尾権現社へ、番頭島津内記久澄を福昌寺の慈眼院・寛陽院・泰清院・大玄院・有邦院・慈徳院・円徳院の尊牌へ遣わして、各一枚を献じた。新納五郎右衛門久起は浄光明寺の浄国院尊牌へ一枚を、島津直衛久中は諏方・稲荷・祇園・若宮・春日・福ケ迫諏訪へ同品をそれぞれ一枚献じた。近習役によって御休息所の看経所と尾畔三社へ青蚨百疋を献じ、護摩所不動と表御看経所では献物を設けず、拝礼のみをさせた。二十七日には使番頭種子島左内久芳を加世田日新寺の梅岳公島津忠良の尊牌へ遣わし、白銀一枚を献じて恭賀の意を述べさせた。出典は重豪公御譜中。目録は記事で年月日欄を空欄とする。
天明七年三月二十一日~四月十二日(年は前後記事・目録による) / 冊子 961~962頁/原整理番号 2602/整理ID 2602
重豪の隠居に際し、宗廟・神社へ敬意を表して供物を納めた経過を記す。三月二十一日、家老島津久邦を遣わし、鹿児島五社(諏方・稲荷・祇園・春日・若宮)と福ヶ迫諏方社へ金二百疋ずつを献納する。二十二日には喜入久福を南泉院へ遣わし、神祖廟へ銀二枚、台徳・大猷・厳有・常憲・文昭・有章・有徳・惇信・浚明の各廟へ銀一枚ずつを納める。また久邦を不断光院と浄光明寺へ遣わし、清揚廟と得佛へ銀一枚ずつ、浄國へ金二百疋を献納する。同日、側用人を遣わして、霊符堂看経所・休息所看経所・護摩所・稲荷・八幡・天神・不動、外庭の稲荷と相殿の若宮八幡、春日大明神、鵜戸権現、大人八幡、観音、尾畔の稲荷・弁財天・観音、二丸の諏方・弁財天へ青銭五十疋ずつを納める。二十三日には二階堂行旦を福昌寺へ遣わし、浄岸院・慈眼院・寛陽院・泰清院・大玄院・有邦院・慈徳院へ金二百疋ずつ、圓徳院へ官香二把と金二百疋を献納する。二十六日に平田成政を加世田へ遣わして日新公へ金二百疋、二十七日に二階堂行旦を遣わして花尾山へ銀一枚、郡山一之宮へ金二百疋を納める。四月十二日には菱刈實祐を南林寺へ遣わし、大中公へ金二百疋を献納する。
寛延二年七月十六日 / 冊子 206~208頁/原整理番号 2-4
宗信の葬送役を決めるため、寛陽院・浄国院葬送の旧例から御棺、御太刀、葬馬、燈籠、幢、香炉、茶碗、天蓋などの家筋別の役と担当者を列挙する。旧例を勤めた者の子孫が現に誰かは改めて調べる必要があると付記する。
記事年未詳(宝暦五年の葬礼に言及) / 冊子 215~216頁/原整理番号 2-11
寛陽院・浄国院・慈徳院の葬礼で、代継ぎの太刀持を本田家が勤めた例を列挙する。大玄院葬礼では名代が位牌を守ったため太刀持の記録がなく、宝暦五年の園徳院葬礼でも位牌を名代が守るので太刀持は置かないと述べる。亡者自身の太刀持は別に本田家庶流が務めると区別する。
宝暦五年七月二十五日 / 冊子 216~217頁/原整理番号 2-12
吉田清純・安藤茂真が過去の寛陽院・大玄院・浄国院・慈徳院葬送における位牌守と代継ぎ太刀持の有無を比べる。今回の園徳院葬礼では後継者の重豪が江戸にいるため名代が位牌を守り、大玄院の例に従って代継ぎの太刀持を置かないと提案する。