島津忠清譜
年月日未詳 / 冊子 66~67頁
島津忠清について、幼名を菊千代丸、のち又助と称し、寛永十六年十一月二十六日に誕生したこと、母が島津家久の娘であったことを記す記事。父方の後嗣が絶えた後、母が藩主の妹であった縁により、叔父忠紀との関係を整えて母の遺領を知行することを許された経緯を述べている。
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年月日未詳 / 冊子 66~67頁
島津忠清について、幼名を菊千代丸、のち又助と称し、寛永十六年十一月二十六日に誕生したこと、母が島津家久の娘であったことを記す記事。父方の後嗣が絶えた後、母が藩主の妹であった縁により、叔父忠紀との関係を整えて母の遺領を知行することを許された経緯を述べている。
明和二年五月十日 / 冊子 93~94頁/原整理番号 181の84/整理ID 181-84
大目付大井伊勢守から廻状一通と書付の写し一通を受け、越中守・大膳大夫へ申し聞かせたところ、同席の各家の担当者から通達するよう命じられたため、写しを順に廻す。個別の返答・挨拶は不要とし、通達が済んだ後、担当者側から伊勢守へ届ける予定である。廻状を確認して返すよう求め、嫡子のいる家は御付の家衆へも知らせるよう追記する。五月十日、毛利家の吉田半兵衛・都野彌右衛門・有福庄右衛門と、細川家の内山又助・中川唯之丞・中川郡兵衛の連署に続き、順不同の宛名を載せる。御名の欄には薩摩守旅中へ、信濃守の欄には信濃守旅中へ内容を申し越すよう注記する。朱書は、両家衆から添廻状付きで到来した原廻状と書付の写しを書写して差し上げる旨を、同日に東郷源五が左中様へ申し出た記録である。
明和二年五月十二日 / 冊子 94~95頁/原整理番号 181の86/整理ID 181-86
大目付池田筑後守から廻状一通を受けて越中守・阿波守へ申し聞かせたところ、同席の各家の担当者から通達するよう命じられたため、写しを順に廻す。個別の返答・挨拶は不要とし、通達が済んだ後、担当者側から筑後守へ届ける予定である。廻状を確認して返すよう求め、嫡子がいる家は御付の家衆へも知らせるよう追記する。五月十二日、阿波守内の市原甫蔵・小川夷左衛門・前田助左衛門と、細川家の内山又助・中川唯之丞・中川郡兵衛の記載に続き、順不同の宛名を載せる。御名の欄には薩摩守旅中へ内容を申し越すよう注記する。朱書には、両家衆から添廻状付きで原廻状が到来したため書写して差し上げる旨を、同日に東郷源五が左中様へ申し出たとある。
本文:4月十二三日・16~18日・27~28日頃等の動静(年不記);文久3年癸亥正月20日写注 / 冊子 256~258頁/原整理番号 355/整理ID 355
平田延太郎の京師世態間合の書付写。久光上京は朝廷・幕府のため薩摩の力で周旋する趣旨とし、堀次郎が大原卿に聞いた叡慮や、伏見から上京した久光を近衛邸で中山・正親町三條・岩倉らが迎えて政治の存意を尋ねた経緯を記す。幕府の違勅を寛大に許し公武合体を求めること、一橋後見・諸侯寛罪・幕政賞罰・将軍謝罪等を叡慮として伝えるが、書付が聞いた内容として区分する。久光への問答では勅命決定後に従い、諸藩が争わず国力を尽くすよう求める姿勢を記し、長州山田又助や長井雅樂の説、久光の病気と蒸気船二艘による帰国案も伝える。後半は諸藩同盟の志士が京都・伏見に集まり、薩摩側に企てがあるとして久光が無是非に討取を命じたという記述と、六人討取・森山新五左衛門切腹、指導者名列を載せる。これに動揺した崎宅一郎らへ書状を送り、朝廷を守護するため京師での企てを急ごうとする内々の相談や、二十七八日頃に大坂へ暫時退いたとの情報を記す。末尾は文久三年癸亥正月廿日写之との注。本文の動静・伝聞と後年の写日を分ける。
享保十一年十二月 / 冊子 93頁/原整理番号 50
享保十一年十二月の系譜記事。龍伯の娘で新城と呼ばれた女性を島津久信の母とし、その子大和守久章が新城の遺領を継いだが谷山で誅されて所領を召し上げられたと記す。光久の代には久章の子又助忠清へ遺領が与えられ、新城家が再興された経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 262頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0571
光久の子女を並べた同胞横列で、綱久を先頭に女子三人・男子四人を略し久雄を掲げる。久雄は明暦元年六月二十三日生、母は津留筑右衛門正将の娘で、島津又助忠清の後嗣となる。異本の注は室を肝付伴兵衛兼屋の娘とする。
明和二年(日付記載なし) / 冊子 79~80頁/原整理番号 181の49/整理ID 181-49
日光の副使衆の旅宿と宿坊を列記した書立。「御名」の項は遊成院とあり、編録にママの注記が付く。他家十五件は、藤堂和泉守が教城院、松平陸奥守が観音院、松平土佐守が禅知院、有馬中務大輔が華蔵院、上杉大炊頭が實教院、松平大膳大夫が観音院、伊達遠江守が観音院、松平阿波守が實教院、松平相模守が安居院、松平信濃守が照尊院、宗対馬守が藤本院、佐竹右京大夫が實教院、松平光丸が浄土院、松平筑前守が教城院、細川越中守が浄土院と記す。松平筑前守の名にも本ママの注記がある。旅宿・連絡先として、藤堂の項に本町・武井岡右衛門・教城院、土佐守の項に御幸町・小野伊兵衛、有馬の項に日光御目代山口惣兵衛の家来・出町壱町目・神山又助、上杉の項に稲荷町一町目・嶋田内蔵、大膳大夫の項に下鉢石御幸町・南間大助、伊達の項に善教坊、相模守の項に鉢石町・永井舎人、信濃守の項に鉢石稲荷町・勧徳房、宗の項に多門寺、筑前守の項に鉢石・申橋主計、細川の項に入町・高野七左衛門を掲げる。宿坊のみの項もあり、すべてに別の旅宿や町名を補うことはできない。日付と差出人の署名はない。
年月日未詳 / 冊子 233頁/原整理番号 333-17
二月二十七日、長岡右馬助組の有吉舎人佐が、二之丸で槍・長刀を持つ二人に向かい、一人を突き伏せて打ち捨てたと申し出たもの。その様子の証人に田中又助を挙げる。
年月日未詳 / 冊子 341頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0731
明暦三年六月五日、島津綱久の子・忠顕が玉利九兵衛の娘を母として誕生し、後に忠智・幸寿丸・権十郎・市右衛門・筑後と称し、家臣島津又助忠清の後嗣となったことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 733頁
島津光久の八男忠顕(のち北郷忠智)について、明暦三年生まれ、初め島津又助家の後嗣となったが、忠長に嗣子がないため寛文十一年に後継となり都城へ入ったことを記す譜。