島津勝久書状
十月十一日 / 冊子 276~277頁
島津勝久が、前日の使者の申し入れ、女房と鹿児島方面の事情、本田・肝付越前守らの動向、海上と船の手配について樺山助太郎へ伝えた書状。
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十月十一日 / 冊子 276~277頁
島津勝久が、前日の使者の申し入れ、女房と鹿児島方面の事情、本田・肝付越前守らの動向、海上と船の手配について樺山助太郎へ伝えた書状。
七月七日 / 冊子 277頁
肝付久兼が、樺山助太郎の滞留と辛労をねぎらい、帰宅・出頭の時期や使者による申し入れを伝えた書状。後続の契約条項は枝番No.635-2として分離した。
年月日未詳 / 冊子 42~43頁
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山田・松坂以下、大隅各地の地頭・領主配置を詳述する。
永禄五年六月二十六日 / 冊子 116頁
島津貴久が樺山玄佐に対し、近時の雑説を信用せず、玄佐の度重なる忠節と助太郎の死を忘れていないと述べた起請文。今後も玄佐父子を疎略に扱わず、雑説があれば何度でも互いに説明すると誓う。
年月日未詳 / 冊子 671頁
大永六年、島津忠兼が忠良一族へ国政を委ねようとした時期の樺山信久の動向を記す。信久は虎寿丸を後継者として支え、肝付三郎五郎・本田紀伊守・樺山助太郎らと諸家の帰属、領地配分、奉公条件を協議し、新体制への移行を調整した。
天正二年正月十九日 / 冊子 327頁
天正二年正月十九日の禰寝方面の合戦で戦死した喜入季久の弟忠通・久績と、季久配下の武士らを列挙する。地下・足軽を含めて十五人が戦死したとする。
慶安五年正月十一日 / 冊子 210頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0420
嶋津右馬頭の奥方が正月六日から病み、亀庵法印の療治を受けたが、八日から疱瘡と見られ駿河玄勝とも相談したこと、祈念の験もなく十一日昼に他界したことを町田久則が報じる。別件として町田助太郎が落馬により遠行したとの飛札を得たと記す。
年月日未詳 / 冊子 33頁/原整理番号 250
末吉衆中宮里家の由緒を記す根元記の抄録。宮里善兵衛尉の弟助太郎と父隠岐守の来歴を述べ、馬越で伊東清右衛門に奉公したのち、帖佐・本城・曽木を経て慶長六年に末吉へ移り、村田雅楽助に仕えた経緯を記す。
11月22日 / 冊子 400頁/原整理番号 362の1
『平田宗直加子立曳付』所収、十一月二十二日の浦水手送状。茂兵衛尉・喜左衛門・利兵衛尉・孫左衛門を船頭として掲げ、作左衛門以下の水手を列記する。小浦から立てた合計三十一人の浦水手を受け取るよう、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ命ずる。
11月22日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 362の3
十一月二十二日、片浦から立てた浦水手の受取を命ずる送状。船頭壱岐・蔵右衛門・市右衛門・弥九郎と宇兵衛尉以下を列記し、第一群を三十二人とする。さらに助之丞・与介・惣五郎・弥右衛門・三右衛門尉・神介・少右衛門・杢之介の八人を別に掲げ、永山覚兵衛尉・三原源右衛門へ受取を申し付ける。
11月23日 / 冊子 404~405頁/原整理番号 368の2
片浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手計三十二人)と、小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘について、船主・上乗・主取を列記する。さらに小松原三人・小湊三人の加子六人をそちらの船に早く乗せ、残る十一人は片浦から送ると伝える。十一月二十三日、小湊庄屋佐藤大炊左衛門宛。六人は商買船に雇われ小浦へ来ているが、船は他国船なので加子だけを小湊船へ乗せると付記する。
文化十三年三月二十六日 / 冊子 21~22頁/原整理番号 2-2
伊地知季美は季安への書状で、先祖重英自筆の書に季安の先祖民部殿の名が見えることを伝え、書写の希望に応じる。季安は続く序で、この書に旧名・著者の記載がないこと、文明六年頃に三州を巡った僧が各地の豪族について聞き書きしたものとみられることを述べ、伝来と史料の扱いを考察する。
宝永元年九月二十一日 / 冊子 503–504頁/整理ID 1766
川上久重が新納久珍・島津中務・島津助之丞へ、島津綱貴の葬礼は福昌寺住持が導師を務め、種子島弾正・樺山助太郎を法事奉行とすること、九月二十三日に大円寺へ移し二十七日に荼毘に付すことを通知した。遺骸の東海道移送、霊屋・土葬・外委細の相談も指示した覚書。
建武三年六月日 / 冊子 667~668頁
郡山弥五郎頼平が肝付兼重与党追討のため御教書を受け、五月六日から六月十日まで加瀬田城で日夜合戦した軍忠状。若党・親類を率い、先懸・射疵・討死を重ね、渡河責戦の際に親類助太郎左衛門尉義清が射疵を負うなどの軍忠を列挙し、恩賞を求める。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日の菱刈陣攻めで、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先駆けて深手を負い、同月二十八日に二十一歳で死去したことを記す。貴久がその死を悼み、長浜で荼毘の煙を見届けた。
年月日未詳 / 冊子 48頁
蒲生馬立・荒平の陣と菱刈陣攻めを回想し、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先陣で深手を負い、四月二十八日に死去したことを記す。貴久が長浜から荼毘の煙を見た情愛にも触れる。