島津家久譜
年月日未詳 / 冊子 823頁
北郷宗次郎は十月二十九日、唐島から釜山浦に着き、辰刻に方浦を経て金海川口へ至った。降雪と強風のため船を追ったが乗員数を把握できず、巨済岸に帰着した経過を記す。 加徳島の水主らを船内で捕え、船上の綱などを接収したという。冬の朝鮮沿岸における船舶追跡と捕縛の実情が分かる。
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年月日未詳 / 冊子 823頁
北郷宗次郎は十月二十九日、唐島から釜山浦に着き、辰刻に方浦を経て金海川口へ至った。降雪と強風のため船を追ったが乗員数を把握できず、巨済岸に帰着した経過を記す。 加徳島の水主らを船内で捕え、船上の綱などを接収したという。冬の朝鮮沿岸における船舶追跡と捕縛の実情が分かる。
(文禄2年)5月24日 / 冊子 698~699頁
釜山浦・加徳島・東莱・竹島などに蓄えた城米が古米にならないよう、各隊の手前兵粮と入れ替え、元の員数を正確に積み置くよう命じる。 福島正則・毛利高政を奉行として派遣し、各軍の人数に応じて城米を割り振り直させた、朝鮮在陣地の大規模な備蓄更新を指示する朱印状。
年月日未詳 / 冊子 832頁
「飯野衆中」から高麗へ御供する人々を、野田善右衛門重俊をはじめ、高麗に渡った者・各隊に付けられた者ごとに列記した書立。高麗・釜山・加徳島などでの配置先や、どの家臣の手に属したかが分かる。 書状ではなく、朝鮮渡海に動員された薩摩の将士を一人ずつ把握できる人員名簿。地域別の動員と島津軍の編成を調べる上で価値が高い。
年月日未詳 / 冊子 832~834頁
島津義弘・忠恒の隊を中心に、小西行長・福島正則・加藤清正ら諸大名と家臣の配置、加徳島・釜山・熊川など朝鮮各地の在陣状況を記した「朝鮮日々記」。将士名と所属、軍勢数、諸陣間の距離や移動経路を細かく列挙する。 島津軍だけでなく、四国・中国・九州の諸大名が朝鮮でどのように陳取りしたかを俯瞰できる軍勢配置記録。合計人数と個々の家臣名が豊富で、文禄の役の軍事組織を復元する上で特に重要である。
年月日未詳 / 冊子 909頁
日明和平が定まり、明国使節が日本へ渡航することになったため、巨済島の諸陣を加徳島へ移した経緯を記す。 小西行長・寺沢正成が明の遊撃官人を伴って来て、和平が偽りでないことを示したという、講和交渉と撤兵の具体像を伝える記事。
文禄4年8月28日 / 冊子 909頁
小西行長・寺沢正成は、唐島の人々が加徳島へ移ることに伴い、唐島割の奉行を二人任命したと伝える。 移転処理に十分注意するよう命じ、唐人に状況を見せるため明国の遊撃官人一人を派遣した、講和後の撤収実務を示す連署状。
(慶長元年四月) / 冊子 15~16頁
島津義弘の覚書。又八郎(忠恒)の帰朝後の再渡海・上洛などについて、渡海の安全、勢揃いと馬、供衆として図書頭・鎌田出雲守ら十騎または十五騎を召し連れること、伊集院抱節・比志島紀伊守が主取となる残番衆七百人の配置を指示する。在京中の用件は各人が国元へ直接申し送ること、公儀が加徳島に召し置いた御上米・諸道具、残番衆の乗船・兵糧米、同島にいる高麗人の扱いにも触れる。さらに又八郎の具足・馬面・馬鎧、鉄砲五十丁・鑓五十本の携行と、伊集院小傳次の帰朝などを列挙する。
慶長元年六月十五日 / 冊子 28頁
『征韓偉略』に、慶長元年六月十五日、明使が釜山を発ち、朝鮮在陣諸将が撤収準備に入ったことを記す。京都にいた島津義弘が、加徳島にいた忠恒へ秀吉の撤兵命令を伝えたが、その後、諸将がすでに出船していても島津勢は本陣へ戻って駐留し、改めて出船期日を命じるとの指示があり、忠恒は加徳に留まって守備を固めた。
年月日未詳 / 冊子 84頁
慶長二年、諸将が再び加徳島へ出勢するに際し、島津豊久が豊臣秀吉から全羅道方面の担当と行伍・軍勢編成を記した文書を賜ったことを記す島津豊久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 111頁
『征韓偉略』から、慶長二年六月十八日、小西行長の使者が海辺に来て伝えた日本軍諸将の朝鮮各地における守備配置を記す記事。宇喜多秀家を中心に、釜山・竹島・安骨浦・蔚山・加徳島・順天などへ諸将が分かれて布陣したことを列挙する。
年月日未詳 / 冊子 117~118頁
『島津家久譜』から、日本諸将の再渡海後、巨済・唐島・加徳島付近で明・朝鮮水軍と戦った経過を記す。敵船の接近と日本側の迎撃、船の拿捕・焼却、将ごとの働き、損害と戦功、豊臣秀吉の賞賛までを叙述する。
年月日未詳 / 冊子 118頁
『島津豊久譜』から、朝鮮水軍が巨済島周辺へ数百艘を進めた際、日本側が七月十四日に迎撃した記事。島津豊久らの戦闘、藤堂方による敵船拿捕、加徳島方面での追撃と戦功を記す。
年月日未詳 / 冊子 122~123頁
『朝鮮日々記』から、加徳島前へ繰り返し現れた敵船を日本側の番船・諸隊が追撃した経過を記す。海上と陸路に分かれて敵を追い、射撃・接舷・上陸を交えた戦闘、首級や損害、各隊の動きを日次で述べる。
年月日未詳 / 冊子 123頁
『朝鮮日々記』から、七月十三日に唐島と加徳島の瀬戸口で敵の番船五十余艘と交戦した記事。日本側の船が敵船を破り、島津義弘ら諸将が陸上から援護・進撃したこと、陣替え後の配置までを記す。
慶長三年二月廿一日~同年夏 / 冊子 173~174頁
『新納忠元勲功記』から、慶長三年二月二十一日に松齢様が久見崎から乗船する際、新納忠元が見送り、大嶋出羽守忠泰を供に付けて二首の別れの歌を贈った記事。同月二十八日に五十余艘で出船し、四月十九日に朝鮮加徳島へ着陣したこと、同年夏に忠元が清敷から飯野の地頭へ替えられて移住したことも記す。
慶長三年二月十五日 / 冊子 194頁
島津義弘が、朝鮮加徳島で昼夜にわたり粉骨し、軍兵の勝利を祈祷した櫻井坊慶長坊へ与えた証状。五大尊不動明王絵像一幅と古備前の太刀一腰を、大田吉兵衛を介して拝領させたことを証し、今後も肝胆を砕いて働くよう求める。
年月日未詳 / 冊子 285頁
『島津家久譜』の記事。釜山浦の諸将が吉日を選んで一斉に帰朝する約束を結んだ後、島津義弘・忠恒父子は救出した将兵とともに十一月廿一日夜半に巨済を発し、昌原・安骨浦・加徳島を経て釜山へ向かったとする。到着すると諸将は約束を破ってすでに帰国しており、明・朝鮮の大船団を恐れず待っていた島津豊久だけが父子を迎えた。父子は廿四日に釜山浦を出帆した。
十二月初二日 / 冊子 99頁
加徳島の宿で寝込んでおり、酔いが醒めず召し出しに遅参したため二度も意向に背いたことを謝し、他所に宿泊したなどの別意は一切ないと、薩隅両国の神々に誓った起請文前書。
年月日未詳 / 冊子 529~530頁
島津忠辰が秀吉の厳命で朝鮮へ渡海した後、釜山浦で病を得て軍務に就けず、密かに帰帆しようとして暴風で漂流した経緯を記す。帰国を断念して朝鮮へ戻ったものの、病状が悪化し、八月二十七日に異国の島で四十一歳で死去したという忠辰最期の記事。
巻五/冊子 63~73頁
朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳島などを攻守する各大名の人数と配置が詳細に列記される。久保は金海で虎狩りを行った逸話の後、文禄二年九月に巨済で病没し、二十八歳で世を去った。翌年、弟の忠恒(のち家久)が家統を継ぎ、義弘とともに巨済・加徳島へ在陣する。秀吉の求めに応じた虎狩りでは、義弘・忠恒の家臣が危険を冒して虎を仕留め、その肉を献上して褒賞を受ける。さらに文禄四年および慶長二年の軍勢帳・陣立書を大量に収め、小西・加藤・鍋島・島津・黒田・毛利・宇喜多・小早川・船手衆などの人数、釜山浦から各城までの在番、先陣の順序、軍議・注進・築城・野陣の規則を示す。末尾は南原攻略へ向かう陣立に続く。個々の武功や家督継承だけでなく、朝鮮役における全国大名軍の編成・兵数・占領統治を具体的に伝える軍事記録である。