水引泰平寺薬師堂推鐘銘
永禄六年二月八日 / 冊子 120~121頁
薩摩国高城郡の千華医王山泰平寺薬師堂へ奉納した推鐘の銘。住持・大檀那・奉行・大願主・勧進沙門・作者の名を列記し、永禄六年二月八日の年紀を刻む。
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永禄六年二月八日 / 冊子 120~121頁
薩摩国高城郡の千華医王山泰平寺薬師堂へ奉納した推鐘の銘。住持・大檀那・奉行・大願主・勧進沙門・作者の名を列記し、永禄六年二月八日の年紀を刻む。
嘉永六年九月十二日(遺物拝領)、嘉永七年五月十九日(申渡) / 冊子 153~154頁/原整理番号 216/整理ID 216
斉興が家慶の遺物として拝領した脇差一腰の仕様を記し、御納戸の御譲道具として後年まで紛れなく保管・記録するよう命じる四名連署申渡。脇差は美濃国兼定、長九寸九分半、代金十五枚と記す。二重金の鎺、角磨の縁頭、赤銅七子等の二所物、奥州会津住三善長道の小刀、白鮫の柄、金の目釘等、蝋色の鞘、紫の下緒、袋・紫房付桐白木外箱、折紙一枚の仕様・付属品を列挙する。恒徳院すなわち徳川家慶の遺物として、嘉永六年九月十二日に上使森川出羽守を介し斉興が拝領した品であるとする。嘉永七年五月十九日付で伊織久成・駿河久仰・石見久浮・筑後久封が署し、御納戸奉行へ宛てる。白木御文書十番箱中六十一番の表示を伴う。
系図全体は無年次(天正7年の飫肥移住・同14年7月27日の戦死を記載) / 冊子 598~599頁/原整理番号 102
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌・兼逸・兼通・兼明・兼治らの系線には、日向から母と姉妹が加世田へ移った話、幼くして知行を受けた記事、宮原・若松・河野・相徳武などへの女子の婚姻と早世も添える。
系図全体は無年次(寛文11年・延宝6年・元禄6年などの没年を記載) / 冊子 599~601頁/原整理番号 103
前田兵部左衛門兼政の弟兼定を祖とする前田宇兵衛家の系図で、兼定が加世田から谷山へ召し移されたことを記す。家伝は、兼定が高麗出陣で本田六左衛門の手に付き、陣中に詰めて帰陣時に伏見へ上り、感状を受けたが、のち平田盛右衛門に文書を差し出して返却されたという。子孫の兼長・兼延・兼家・兼倍・兼貞・兼賢らには加世田居住、官職・法名・没年、藤崎・馬場・島田・岩切・吉井・有馬などへの婚姻を付し、寛文・延宝・元禄期の記事と末代の出生までたどる。前項の前田茂右衛門家系図とは、兼政の弟兼定から分かれた谷山移住系統である。
天明七年正月二十九日・二月十五日・十九日・三月十八日・四月朔日 / 冊子 943~944頁/原整理番号 2572/整理ID 2572
「近秘野帥 斉宣公」の出典表示を伴い、天明七年の公辺関係の出来事を記す。正月二十九日に世子が封を受けたとし、二月十五日には斉宣が登城して太刀一腰・御刀一腰(濃州兼定)・縮緬二十巻・白銀百枚・御馬二疋を献上し、襲封の恩を謝したという。あわせて家臣九名が進物を献上する。島津兵庫久徴・島津伊賀久金・市田勘解由盛常・島津登は巻物各五と御馬代銀を、大島休左衛門久皐・松崎次左衛門貞儔・岸喜右衛門章彬・郡山権蔵長矩・谷村孫右衛門は巻物各三と御馬代銀を献じ、大家に陪謁し、例のとおり恩賞を受けたと記す。二月十九日に斉宣が初めて短袖となり、三月十八日に左近衛少将へ任じられたが位階は従前のままで、四月朔日に登城して謝恩したと続く。
天明七年二月十四日・十五日・十九日・二十日・二十七日・二十八日(十八日願書・二十六日奉書を回顧) / 冊子 947~948頁/原整理番号 2581/整理ID 2581
二月十四日に老中奉書を受け、翌十五日斉宣は斗目・長袴で登城し、白書院で家斉に謁して襲封の恩を謝したと記す。奏者番は稲葉丹後守で、太刀一腰と美濃国兼定の刀一腰を献じ、父重豪の隠居謝恩については父公譜に詳しいとする。十九日には袖留を祝い、父を休息所へ迎え、二汁五菜の料理と酒宴を設け、献酬したと記す。二十日には将軍への初見・首服・隠居・家督の諸慶事を合わせて祝う宴を開き、父を迎えて二汁五菜の料理・酒宴と猿楽を催した。島津伊賀久金を使者に父へ太刀・金馬代一枚・縮緬二十巻・三種二荷を献じ、さらに市田勘解由貞英を使者として太刀・金馬代一枚・二種一荷を献じたと記し、家老や奥向の役人にも祝品を贈った。宗高の按語は二使それぞれの献上理由は不詳とし、別々の慶事への祝いではないかと推測する。二十七日の条は、十八日に父の帰国・温泉療養と中国政の親視を願い、二十六日の老中奉書で斉宣が召された経緯を記す。当日白書院で大老・老中列座のもと重豪帰国を許され、羽織三領を賜り、斉宣は父に代わって受け、退出後大老・老中各邸で謝恩した。翌日、父が隠居を祝い、斉宣を縁亭へ招いて二汁七菜の料理と酒宴を設け、酬酢の後、斉宣は肴一折・樽一荷を献じて祝った。
系図全体は無年次(正保2年・元禄6年の没年などを記載) / 冊子 601頁/原整理番号 104
加世田士前田軍八家の系図で、前田兵部左衛門兼政の三番目の弟兼長が加世田に住んだ系統をたどる。兼長の子兼高は主膳と称し、母を宮原吉兵衛の娘と記すほか、兼申・兼明・兼吉らの名乗り、正保二年の兼長と元禄六年の兼明の没年・法名を載せる。後代には医師となって元養と改名した兼周、兼貞・兼西・兼次郎らをつなぎ、河崎・加藤・樋渡・河野・堀之内の家との女子の婚姻も記す。前項の兼定から谷山へ移った前田宇兵衛家とは、兼政の別の弟を起点とする加世田居住の枝筋である。