鬼塚某外二名請取状
元和三年四月廿六日 / 冊子 642~643頁
高百石に対する七分出銀七十目を皆済として、鬼塚甚五左衛門ら三名が受け取ったことを証する請取状。
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元和三年四月廿六日 / 冊子 642~643頁
高百石に対する七分出銀七十目を皆済として、鬼塚甚五左衛門ら三名が受け取ったことを証する請取状。
元和6年2月27日 / 冊子 78頁/原整理番号 17-5
龍伯の代の国分衆中高帳から、松崎杢右衛門の高七十石四升五合を元和六年二月二十七日付で記す抄録。
元和6年(1620)5月13日 / 冊子 381頁/原整理番号 188-24
元和六年五月十三日、川上伊予守が喜入大炊助・蒲地四郎左衛門へ示した名寄目録。上小河院内で与三右衛門に関わる川添一反六畝内・下田一反一畝七分を掲げ、籾合計七俵二斗二升六合二勺、高にして二石六斗三升五合と算定する。編者注は、この文書を含む十八通の写しが蒲地四郎左衛門家にあると記す。
年月日未詳 / 冊子 398頁/原整理番号 127
大林市兵衛重頼の自記に収める忠元の和歌。「詠月前郭公」の題で、明るい月に郭公の一声が響く趣を花や紅葉に重ねて詠む。清書には全文を入れるようにという付記がある。
目録年月日記載なし / 冊子 119~123頁/原整理番号 3
「鹿児島、伊敷、四郎ヶ坂等之説」。鹿児島と鹿児島神食、伊敷・四郎ヶ坂の地名や旧跡を、古系図、社説、旧記から考証する。荒田・神食、伊敷郷と島津荘の記載を比べ、鹿島の語源や鹿皮を朝廷へ貢じた伝承も検討する。末尾は伊敷の上下村・上伊敷村の位置と、伊敷村名主家の由緒に及ぶ。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):元和六年庚申三月三日 / 冊子 151頁/整理ID KW1-G000125
吉利郷内千三百五十二石余と日州諸縣郡穂萬坊内百八十四石余を改めて賜ったと記す。 島津久元・喜入忠政・町田久幸・伊勢貞昌・三原重種の各連名による目録を左に付す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):元和八年壬戌七月二十日 / 冊子 153頁/整理ID KW1-G000129
七月二十日に誕生し、太守中納言家久卿の実の八男、母は鎌田播磨政重の娘と記す。
元和六年十一月十五日 / 冊子 235頁
加久藤湯田村内の知行をまとめた名寄目録。高六斗四升の知行分を阿多甚左衛門に宛てて記録する。永禄十三年関係文書の後に、後代の元和六年十一月十五日付目録を参考として収録したもの。
(元和三年)九月八日 / 冊子 659頁
島津惟新が、元和三年九月一日に島津家久へ松平の称号が与えられ薩摩守に任ぜられたことに関し、知らせの到着時期や家中の男子誕生記事について注記した書状。
(元和六年) / 冊子 725頁
元和六年春に死去した前備前守島津忠清を悼み、老少不定の世を嘆きつつ、春夏秋冬に寄せた八首を手向けた追薦和歌。
(元和六年四月) / 冊子 728~729頁
元和六年初夏に死去した前比志島紀伊守国貞を悼み、幼少時からの親交と教えを回想しながら詠んだ追悼和歌。譜記事にいう六首を収める。
元和六年二月十七日 / 冊子 740~762頁
元和六年二月十七日付で、薩摩・大隅・日向三州の一所衆および廃府衆について、家臣ごとの氏名・役職と持高を多数列記した高極帳。無上地・御使衆などの区分や複数本の異同注記を含む。
元和七年十二月四日 / 冊子 774~775頁
元和七年十二月四日に行われた犬追物について、各番の騎射手と馬数を配した手組。島津家久を検見とし、喜入島津大炊助らが喚次を務める編成を記す。
元和七年十二月五日 / 冊子 775頁
元和七年十二月五日の犬追物について、矢懸次第と各番の騎射手・馬数を定め、島津家久が検見し、嶋津大炊助らが喚次を務める手組を記す。
元和七年十二月七日 / 冊子 775頁
元和七年十二月七日の犬追物について、矢懸次第と各番の騎射手・馬数を定め、川上嶋津十郎左衛門尉らが検見・喚次を務める手組を記す。
元和十年正月十三日 / 冊子 803~804頁
元和十年正月十三日に島津家久らが催した漢詩句と和歌句を交互に継ぐ漢倭連句。春の野、雲、花、雨、旅、月、霜などを題材とし、家久・頼景・重長・理心・貞守・為善・貞昌・紹嘉らが句を連ねた作品。
元和十年二月十二日 / 冊子 806~808頁
元和十年二月十二日に島津家久らが催した「賦何船」連歌。春の花、霞、船旅、月、雨、秋、里山などを題材として、家久・久賀・紹嘉・玄与・日説・元綱・宗可・重位・久元・重長・喜庵・国隆らが百韻を連ねた作品。
元和十年二月十二日 / 冊子 808~811頁
元和十年二月十二日に島津家久らが催した「賦何人」連歌。柳・月・霞・旅・山寺・秋・雪・里・恋などを題材として、家久・久賀・紹嘉・玄与・日説・元綱・宗可・重位・久元・重長・喜庵・国隆らが百韻を連ねた作品。
元和十年二月廿二日 / 冊子 811~814頁
元和十年二月二十二日に島津家久らが催した「賦何木」連歌。春の花、舟、雲、月、旅、秋、露、雪、草木、恋などを題材として、家久・紹嘉・重種・祐辰・貞守・尚演・重長・喜庵・宗可・幸相らが百韻を連ねた作品。
元和6年 / 冊子 178~179頁/原整理番号 59
伊東権角家の系図。曾我大臣の末孫・曾我兵部祐清の二男とする祐泰を祖とし、祐泰は井尻を号して八郎右衛門・七郎次郎を称した。祐貞(七郎右衛門・八郎次郎)から、祐徳(権之介・七郎右衛門)、祐守(九郎次郎・佐渡)、祐俊(八郎右衛門・早左衛門)へ続け、別系に祐元(九郎次郎・佐渡守)、祐宗(九郎次郎・佐渡守)、祐雪(九郎次郎・相左衛門)を掲げる。祐宗は高原で戦死した。末尾の祐保は八兵衛・権右衛門を称し、元和六年に相模国の宗家・伊藤惣左衛門祐重を請い、井尻から伊東氏へ改めたと記す。身帯逼迫のため御酒蔵役・御里役を務めた。
元和元年 / 冊子 206頁/原整理番号 70
祢寝山城坊の女子から亀山又兵衛妻へ至る関係と、岡村伊織家の由緒を記す系図・由緒書。女子は近衛信輔公の側に召し置かれ、上京に供奉したのち、岡村伊織との縁組を命じられたとする。伊織は元和元年に豊臣秀頼方へ味方し、落城後は牢人として籠居したが、のち松平下総守に召し仕えた。伊織の子は十六歳の時、国許にいた母を見舞うため岡村新左衛門を伴って下り、亀山又兵衛宅に滞在した。その後上方へ戻ったところ父伊織が死去したため、母を介抱する目的で再び国へ下って居住し、札改めの際には亀山家の預りとして親類札に登録されたという。系線には岡村新左衛門―岡村市兵衛も掲げる。
慶長期、元和年間・元和8年9月ほか / 冊子 280頁/原整理番号 110
横川士上原氏の祖・上原少監物(のち奉膳兵衛か)から藤右衛門・藤左衛門へ続く系図。少監物は龍伯公が国分にいた時期に慶長高帳で食禄六十石、元和年間には七十五石七斗六升三合を食み、元和八年九月に東郷重位の秘訣書を受けたほか、龍伯がその宅を訪れて刀を与え、その刀を八幡宮へ寄進したと記す。藤右衛門は光久公から名を与えられ、喜入丹波が国分地頭であった時に関わる由緒を持ち、のち横川へ移ったという。藤左衛門は綱久公に従って芝邸へ上り、藤左衛門の名を賜り、二十四歳で横川の役人となった。
5月10日、天文3年4月3日、永禄7年頃、文禄元年、慶長4年、慶長19年~元和元年、寛永13年 / 冊子 312~314頁/原整理番号 119-36
五月十日、村田経安と平田兼宗が執印友秀に連署して、今度の相論を宥恕の扱いによって従前どおり差し置いたことを神妙とし、惣官職は従来の筋目に任せて執務すること、社司・神官らも先規どおり友秀の下知に従うこと、この趣旨に基づいて成敗することを伝えた書状。付随系譜は公友以下を掲げ、康舩が天文三年四月三日に水引内九禮橋で主従十二人と討死したこと、良友が永禄七年頃に新田宮執印職を襲ったこと、友則が文禄元年に島津義弘に従って朝鮮へ渡海し、水引星原の御船手で山鹿越右衛門と同役の御船奉行を務め、慶長四年の庄内出陣と慶長十九年から元和元年までの大坂への二度の出陣に供奉したことを記す。さらに新田宮執印職の友春とその子女、友春に継子がなかったため日野内膳資治の二男を養子とした友慶を載せ、友慶が寛永十三年、六歳で島津家久に御目見し、久左衛門の拝領名を与えられたとする。書状は『旧記雑録附録一』238号文書と同一と注記される。
作成年不詳(元和以後の評言) / 冊子 367頁/原整理番号 168
澤村全道から之清・之辰へ続き、之辰の子を之省と之章とする系譜。全道は彦根侯井伊直孝に仕え、関ヶ原の役で島津豊前守久顕の首を取り禄千石を賜ったとし、之清を二千石、之章を左平太・三百石で奏所に勤める宮内近江人と記す。続く評言で高瀬学山は、元和以後は多事・変法・紛擾・煩苛ではなく、省事・守法・安静・寛簡を重んじるべきだと述べ、経世済民を自負する熊沢蕃山を、時勢を省みず新制度で人心を動揺させたとして批判する。末尾に中表紙『薩 文書写』を収める。
元和元年六月十六日 / 冊子 582頁/原整理番号 8
加治木衆中帳の抄録。川上・樺山・新納・伊勢らに続き、白坂清左衛門・仲右衛門・大学坊などの名を掲げる。加治木・吉田・山田・帖佐・蒲生の人数が、年一度六月に加治木で振舞を受ける際の参上順を記した帳簿である。元和元年六月十六日付。
元和七年十二月四日 / 冊子 150頁/原整理番号 95
元和七年十二月四日の犬追物手組。宰相殿七疋、仁礼信濃守三疋、三原左衛門佐四疋などの犬数を記し、検見を島津志摩守、喚次を本田弥六とする。
元和七年十二月四日 / 冊子 150頁/原整理番号 96
元和七年十二月四日の「四日二番」犬追物手組。岩松殿三疋、島津豊後守一疋、伊勢美濃守二疋などの犬数を記し、検見を辛相殿、喚次を島津大炊助とする。
元和七年十二月五日 / 冊子 150~151頁/原整理番号 97
元和七年十二月五日の「三日三番矢闌次第」。下手論犬追物手組として八文字掃部助一疋、島津又十郎五疋、相良丹後守一疋などを記し、検見を伊勢美濃守、喚次を渋谷周防守とする。
元和七年十二月六日 / 冊子 151頁/原整理番号 98
元和七年十二月六日の「六日二番一」犬追物手組。虎寿殿三疋、伊勢大隅守一疋、八文字掃部助一疋などの犬数を記し、検見を辛相殿、喚次を島津六郎兵衛尉とする。
元和七年十二月六日 / 冊子 151頁/原整理番号 100
元和七年十二月六日の「六日二番三」犬追物手組。虎寿殿一疋、八文字掃部介二疋、島津又太郎一疋などの犬数を記し、検見を辛相殿、喚次を島津六郎兵衛尉とする。
元和七年十二月六日 / 冊子 151~152頁/原整理番号 101
元和七年十二月六日の「六日二番二」犬追物手組。虎寿殿一疋、島津又太郎一疋、三原彦千代丸二疋などの配当を記し、検見を辛相殿、喚次を島津六郎兵衛尉とする。
元和七年十二月七日 / 冊子 152頁/原整理番号 102
元和七年十二月七日の「五日二番矢闌次第」。次手論犬追物手組として島津長十郎四疋、仁礼小吉四疋、伊勢大隅守二疋などを記し、検見を島津十郎左衛門尉、喚次を蒲池左八郎とする。
元和七年十二月七日 / 冊子 154頁/原整理番号 107
目録は元和七年十二月七日付「犬追物手組」とするが、本文は別紙とのみ掲げ、一〇一号とほぼ同一のため省略したと注記する。独立の射手・犬数はここには載らない。
元和二年六月日 / 冊子 430~431頁/原整理番号 12
元和二年六月、従来薩摩へ入港していた明商船に対し、将軍の統一的な命令で今後は肥前長崎を交易港と定めたことを説明する文。薩摩に近着した商船も小舟で引き入れないのは拒絶ではなく幕府の命令によると説き、将来の再来航の可能性に触れながら従うよう促す。
元和八年七月 / 冊子 69頁/原整理番号 22
旧典抜書に、元和八年七月、光久を国分の養子とした際に、龍伯以来伝来の系図と財宝などを譲る旨を記す。家久が島津久元に出した書状の前置きとなる短い記事。
元和5年7月3日(目録) / 冊子 488頁/原整理番号 2
家久公の時に寺社知行の三分一を召し上げて別紙に記したことを述べ、無縁の寺社、先祖以来の寺と知行、建立や祈願所に関する扱いを列挙する。末尾に元和五年七月三日とある。
年月日未詳 / 冊子 535頁
長福寺に宛行われた寺領について、元和六年の外城寺社高削減時に本高の三分の二を召し上げ、残る十六石を付け置いた経緯を記した差出。
年月日未詳 / 冊子 569頁
元和元年正月、大坂が平定され諸軍が帰還した後、北郷忠能の領地が多いことを検地で確認し、三千石を加増して本高を四万四千四百余石とした北郷忠能譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 569頁
元和元年、十二歳の北郷久加が元服し、島津家久が加冠して又次郎と名乗らせ、宝刀を与えた。島津義弘も銭二千疋を贈り、祝歌を添えたことを記す北郷久加譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 575頁
宇喜多秀家の旧臣本郷義則が、秀家の八丈島配流後に薩摩へ来て島津家久の師範となった経緯を記す。本郷義則が元和元年三月二十五日に病死し、家久が深く哀惜したとする家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 581頁
島津家久の四女が元和元年四月二十日に生まれ、母は鎌田政重の娘で、寛永二十年四月二十三日に二十九歳で没し、法名を妙国としたことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 605頁
慶長二十年七月十三日、今上天皇の代に年号が慶長から元和へ改められたことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 605頁
元和元年七月十八日、吉富大蔵が主君の跡を追って四十二歳で殉死したことを記す『殉国名藪』の記事。
年月日未詳 / 冊子 606頁
元和元年七月十八日、桂忠昉が隅州高山で病死し、享年五十八、法号を龍泉道活としたことを記す譜伝記事。
年月日未詳 / 冊子 609頁
元和元年九月二十一日夜半、江戸で大火が起こり、松平長門守邸をはじめ諸大名・家臣の屋敷が焼失したことを記す島津家久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 619頁
古口利氏系図から、古口久定の弟・三郎次郎左衛門佐山城守久金について、享禄三年生、母は島津相模守忠幸の娘、元和二年三月二日に八十七歳で没したと記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 628頁
元和二年六月二日に鹿児島で島津光久が誕生し、母が島津忠清の娘であったこと、幼名・官位などを記す島津光久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 634頁
「光久公御譜中」に、島津忠朗(初名忠平、忠明、又八郎、兵庫)が元和二年十一月七日に誕生し、母は家臣鎌田政重の娘、延宝四年二月十六日に没したことなどを記す。島津光久本人の出生記事ではない。
年月日未詳 / 冊子 635~636頁
朝鮮の役に出陣した児玉利昌が薩摩から軍勢を率いて赴き、元和二年十二月二十一日に帰参を願い出て赦免され、国老家久がこれを喜んだことを記す児玉氏譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 651頁
元和三年七月二十一日、将軍徳川秀忠が参内し、島津家久がこれに扈従したことを記す島津家久譜の記事。