伊地知重政書状
(寛永八年)四月廿九日 / 冊子 208~209頁
先に相談された一件について最上土佐守へ申し入れたが確答がなく、康心へ善鏡坊を介して内談し、和解・合点に向けて調整するよう勧める。追而書では家久・光久兄弟と忠直・忠紀の受領・任官を祝し、祝儀の様子にも触れる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(寛永八年)四月廿九日 / 冊子 208~209頁
先に相談された一件について最上土佐守へ申し入れたが確答がなく、康心へ善鏡坊を介して内談し、和解・合点に向けて調整するよう勧める。追而書では家久・光久兄弟と忠直・忠紀の受領・任官を祝し、祝儀の様子にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 88頁
慶長十一年八月、一向宗禁制の沙汰を受け、菱刈表にいた新納忠元が伊地知民部少輔重政以下四十八名を集め、互いに信仰を糾明させて誓詞を提出させ、取締りを行ったことを記す『忠元勲功記』の記事。
「寛永十七年」六月二日 / 冊子 112~113頁
伊地知重政と相良頼員が国元の重臣らへ、江戸から帰国途中の島津大和久章が五月朔日に京都三条へ着き、十七日昼に外出したまま戻らず、行方不明となったことを急報した連署書状。役人衆から五月二十二日に知らせを受けて上京し、手分けして捜索したが見つからず、江戸へも有馬左近将監を通じて報告したとする。追而書では久章の荷物に国元から持参した道具の不足があり別紙で報告したこと、詳細は下国する富山弥一兵衛に申し含めたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 117頁/原整理番号 186-2
『伊地知重政付衆小原織部取払留』。伊地知重政付衆の飯米、魚などの買物、使者の賄、俵を町から船手まで運ぶ賃銭等を日付・品目別に記す。本文には二月十一日・二月十三日や正月十七日からの期間も記されるが、目録年月日は空欄を維持する。
二月廿九日 / 冊子 336頁/原整理番号 379-1
季安家蔵本。本文は三四六号文書と同文であるため省略した、との編者注のみを収める。目録は二月二十九日、『伊地知重政差出』とするが、本文・署名・宛所は本箇所に掲載されない。三四六号本文との直接照合は今回実施していない。
寛永十五年六月朔日 / 冊子 393頁/原整理番号 495
伊地知重政は、有馬城攻めの二月二十七・二十八日の両日、持場に詰めていたが、落城の混乱時に下知を受けないまま本丸へ赴いて見物したのは不届であったと申告し、しかるべく取り計らうよう南林寺へ頼む。
寛永廿年九月廿二日 / 冊子 178頁/原整理番号 83
寛永二十年九月二十二日付、加久藤地頭伊地知重政の書状。毎年の上納品の未進について御算用所から送られた書付を、受取をもって清算し消し込んだと知らせる。今後は定めの時期に遅れず上納させるよう、白坂大炊左衛門らへ命じる。
(寛永二十年)九月廿二日 / 冊子 15頁/原整理番号 7
伊地知重政が加久藤の関係者へ、長年の上納品と未進について勘定所から渡された書付は、受取を得て全体の算用を済ませ、消し込めたと伝える。今後も時期ごとに上納を怠らぬよう命じる寛永二十年九月二十二日付の書状である。
寛永十七年五月廿六日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 28
京都にいた大和守久章が五月十七日に従者二人を連れて三条宿を出たまま帰らず、同二十二日に届けを受けた伊地知重政らが宿や周辺を捜しても行方が分からないと、江戸詰の関係者へ報告する。持ち出した道具の書立てと詳しい事情を別紙で知らせる旨を添える五月二十六日付書状。
慶長十一年八月十一日 / 冊子 266頁/原整理番号 21
一向宗の取調べに際し、伊地知重政が自分は同宗に入らず、以後も異心を持たず、忠勤に努め、野心・不忠をしないと誓う起請文。
年月日未詳 / 冊子 336頁/原整理番号 21
伊地知重政の申状が、第五代小次郎松元は重政へ改名し、本来は伊地知美作守重常、法名は光林澤公居士と記す。伊集院内の須木城の主として在番し、渋谷方の敵である蒲生勢が吉田城へ現れたため、麓の川原へ出て戦った。その時が大刀を用いる戦いの始まりであったという。
寛永十七年七月十日 / 冊子 86頁/原整理番号 37
一乗院が相良頼員・伊地知重政へ、大和守久章が十日の申刻に蓮金院へ登ったとの報を受け、川上因幡守に急ぎ知らせるよう求める。本人の存分はまだ聞いておらず、蓮金院からも連絡するという七月十日付書状写。
寛永十七年七月十日 / 冊子 86~87頁/原整理番号 38
蓮金院秀伝が相良頼員・伊地知重政へ、大和守久章が同日申刻に蓮金院へ来るとの知らせを受けたため、急ぎ一報すると述べる。事情の詳しい返書を求め、直接世話をする旨を追而書に記す七月十日付書状写。
二月廿九日 / 冊子 315頁/原整理番号 346
伊地知杢右衛門重政が、寛永十五年二月二十八日未刻、有馬原城本丸へ一番乗し、鑓を合わせて敵一人を討ち取ったことを届ける証文。出水衆の指宿内蔵助・井尻三郎右衛門尉を証人に挙げ、翌二十九日、上原左太右衛門尉・新納佐左衛門尉宛に差し出した。編者注は『旧記雑録後編五』二一六四号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 353頁/原整理番号 395
本文書は346号文書と同一文書であるため省略したとの編者注。さらに全文が斜線で抹消されており、本文・署名・宛所は本箇所に収録されない。
請二〇八寛永十五年六月朔日 / 冊子 415頁/原整理番号 208
伊地知本右衛門宛て書状。有馬城の普請に関する書付を受け、落城後で手元に用意がないため、本丸での見物・確認を頼む。寛永十五年六月朔日付、南林寺。
弘化二年十一月四日 / 冊子 599~600頁/原整理番号 2
嘉翁祐慶居士の二百回忌に捧げられた追薦法語。生前の徳行と子孫の追慕を述べ、供養と冥福を祈る。末尾に玉龍山の僧による拜薦の署名がある。
寛永十七年六月二日 / 冊子 83~84頁/原整理番号 33
相良頼員・伊地知重政が国元の家老らへ、大和守久章が五月十七日に京都三条宿を出たまま戻らず、二十二日に知らせを受けて手分けして捜したが、六月二日現在も行方が分からないと報告する。江戸へも同様に注進し、発見後は追報すると伝える。
年月日未詳 / 冊子 210~211頁/原整理番号 129
伊地知重政・重堅の経歴、大口・羽月・山野での役務、朝鮮番船での戦死、宗門禁制下の移住などを考証する伊地知季安の記事。
年月日未詳 / 冊子 29頁/原整理番号 43
伊地知季安が、鹿児島から島原の陣所へ、世子は日州筋から下り、鹿児島に一夜逗留した後、紫尾山を越えて獅子島へ渡り、情勢次第で有馬へ渡海するとの注進があったと記す。陸上の軍勢は世子を待って出陣に従い、普請奉行の伊地知重政・長谷場純正らは急行して陣屋などを整え、賦方の村田経乗・福崎新兵衛らも来る予定だと、島津久元・山田有栄が上津浦へ問い知らせたという記事。
年月日未詳 / 冊子 116~117頁/原整理番号 186-1
伊地知季安の記事。伊地知重政は米之津まで主従三十五人を率い、その後人数を減らして上津浦で三十一人分の兵糧を受け、さらに帰還者を出して約二十四人で島原へ渡海したと考証する。九人ほどは自力で賄った可能性を示し、この日初めて島原で受けた支給を次条に掲げる。
年月日未詳 / 冊子 145頁/原整理番号 253-1
十七日、伊地知重政が有馬の陣屋で加久藤から来た詰衆を饗応したことを、付衆・小原織部の取払帳に基づいて記す。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 254-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が内衆三人を有馬から帰したと記す。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁/原整理番号 257
加久藤地頭・伊地知重政が召し連れた人数は削減により帰されたが、西田杢允時栄と赤川弥七郎は城攻めで働く志が強く、一人が小者八郎左衛門を伴い、三人でこの日加久藤を発って島原へ赴いた。いずれも自力で参陣したと記す。
年月日未詳 / 冊子 150頁/原整理番号 265-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が召し連れた人数のうち十二人を有馬から帰したと記す。
年月日未詳 / 冊子 152頁/原整理番号 271-1
伊地知季安の記事。この日も、伊地知重政が召し連れた加久藤衆のうち二十八人が人数削減により有馬を発って帰ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 272-1
伊地知季安の記事。伊地知重政の手勢のうち、付衆の池上内膳正一人を人躰衆と同じくこの日に発たせ、帰したと記す。
年月日未詳 / 冊子 156頁/原整理番号 279-2
伊地知季安は、伊地知重政が城攻め前に用意した討出酒四升を、元日攻めで三原重庸が牛角の酒筒に泡盛を入れて板倉重昌へ奉った例や、天正十四年の鷹取城攻めで木脇祐定が水を携えた例と比較し、攻城前に酒を備えるのは勇気を助ける習慣だったと論じる。
年月日未詳 / 冊子 161頁/原整理番号 284-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が新納二郎四郎忠秀・大口地頭宮原壱岐守景之・高尾野地頭仁礼左近将監景頼・須木地頭村尾源左衛門重候を有馬の陣屋で饗応した。季安は、新納忠秀が大口地頭新納加賀守忠清の嫡男で、重政の婿養子・伊地知主膳重頼の実兄であるため饗応したのだろうと考証する。
年月日未詳 / 冊子 176頁/原整理番号 297
伊地知重政付衆・小原織部の取払留。二十二日の買物として、脚絆用の「おくしゅす」の切れ代六分、朱珍一尺三寸の代五匁六分、脚絆仕立用の糸一匁六分の代銀八分を記す。難読の布名は本文表記のままとする。
二月廿二日 / 冊子 178頁/原整理番号 301-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知重政が上津浦から内衆二人を再び帰したと記す。
二月廿三日 / 冊子 178頁/原整理番号 301-4
伊地知重政主従三十二人のうち、与力の池上内膳亮と彦作が正月から従軍し、二月二十三日に有馬から召し帰されたとして、日数を一人三十八日ずつとする。伊地知季安は、この記載が「有馬陣立差出」と取払帳とで相違するとして「不審」と留保する。
年月日未詳 / 冊子 365頁/原整理番号 431
小原織部の取払帳は、三月四日に真米一斗五升と赤米一斗五升を先掻で受け、三月七日から十日まで主従十五人分の引飯米としたこと、米合計十石四斗三升八合の先掻・前掻別および米種別内訳を記す。伊地知重政の在陣中、地頭所加久藤・羽月での持留、出水の米津・天草の上津浦・有馬で主従三十五人から漸減した兵糧だとの編者注を付し、同四日の小鯛等の買物と米之津宿賃も記録する。
年月日未詳 / 冊子 367頁/原整理番号 437
伊地知重政付衆小原織部佑の取払留は、三月五日の御振舞方として、伊地知弥右衛門尉へ白米二合を振る舞ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 713頁/原整理番号 747の1
十六日、加久藤地頭伊地知杢右衛門重政が加久藤衆50人とその内若42人、自分の内若33人、自力立など21人を合わせ、およそ150人を率いて加久藤を出発し、その夜は羽月西田村に宿泊したと記す。
年月日未詳 / 冊子 131頁/原整理番号 214-1
伊地知季安の記事。この日、伊地知杢右衛門重政が島原の陣屋で、鹿児島の士である土持平左衛門綱辰・田中善兵衛・吉田次郎兵衛康清・中上内蔵丞を饗応したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 153頁/原整理番号 272-3
伊地知季安の記事。重政の弟・伊地知弥右衛門重延は加久藤の小頭で、家僮六人を率いて島原へ出陣し、兄重政に従ったため、陣屋では兄の物資で振舞を行ったと説明する。
年月日未詳 / 冊子 161頁/原整理番号 284-2
伊地知杢右衛門付衆・小原織部の取払留。二月二十一日の振舞として、新納二郎四郎・三原大蔵介・宮原壱岐守・仁礼左近将監・村尾源左衛門の五人へ白米二升五合を用意した。買物方には糸六尋の代、小さな縫物のため与右衛門へ渡した金員、わらび・牛蒡・鮑・豆腐・魚・九年母・酒などの代価を記す。
年月日未詳 / 冊子 188頁/原整理番号 309-1
伊地知季安の記事。二十四日、伊地知杢右衛門重政が、新納加賀守忠清、三原大蔵介重朗、市来五兵衛家昌、西田市左衛門、伊地知弥右衛門重延の五人を有馬の陣屋で饗応したと記す。
年月日未詳 / 冊子 213頁/原整理番号 324
「重政付衆中小原織部祐萬取払留帳」の米払方記録。二月二十七日、白米五升を同日夜に城へ飯を調えて持ち遣わすため払い出した。これは通常の御賦二度分とは別であると注記する。
二月廿九日 / 冊子 332~333頁/原整理番号 374
伊地知杢右衛門重政が、春之城本丸への城乗りで、加久藤衆と寺領衆の首取得・手負・戦死を列記した注文。加久藤衆では伊地知弥右衛門尉ら首取得者八名と原記載の合首数十、手負として金剛坊の弓射通(敵六人を射たとの付記)、岩崎源之丞の鉄砲疵、川野与右衛門尉の鑓疵を記し、同心衆十名を列挙する。寺領衆では西田市左衛門尉らの首取得と赤川兵左衛門尉の戦死を分け、合首五つとする。二月二十九日付。宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一六八号文書と同文とする。
二月廿九日 / 冊子 336~337頁/原整理番号 379-2
伊地知杢右衛門重政が、春之城本丸への城乗りで加久藤衆が挙げた首取得、手負・戦死、同心衆を列記し、上原左太右衛門尉尚辰・新納佐左衛門尉忠頼へ提出した注文。首取得者十二名の個別首数は合計十五で、本文の『合首数十五』と一致する。金剛坊の鉄砲疵、岩崎弾之丞・川野与右衛門尉らの鑓疵、赤川兵左衛門尉の戦死を記す。同心衆欄には西田和泉守らを列挙する。二月二十九日付。編者注は『旧記雑録後編五』二一六八号文書と同文とする。
二月廿八日 / 冊子 333頁/原整理番号 375
伊尻三郎右衛門祐永が、寅年二月二十八日、有馬春之城本丸の屏内で長野正右衛門が敵の首を取ったことを確かに見届け、相違ないと伊地知杢右衛門重政へ証明した文書。冒頭に、羽月士長野式部左衛門の由緒書から写した旨を記す。
二月廿八日 / 冊子 350頁/原整理番号 387
二月二十八日、柏木主馬首が山下金剛坊に対し、有馬原城で本丸の高さ三間ほどの石垣を登り、屏を乗り越えて弓で敵を射通した働きを現場で見届けたと証し、後日のため証文を出した。
三月二日 / 冊子 359頁/原整理番号 409
伊地知重政が大重伝左衛門尉久永へ、寛永十五年二月二十八日に有馬の原城本丸へ乗り入り、敵の首を討ち捕らえた働きを確かに見届けたとして、後証のため暮春二日に与えた証文。
月日 / 冊子 360~361頁/原整理番号 415
伊地知重政が伊尻三郎右衛門尉祐永へ、寛永十五年二月二十八日の原城本丸への城乗時、祐永の最初の鑓合を脇から見届けたと証明した文書。その後に先へ進んでからの手柄は知らないと、実見範囲を限定して三月二日に証文を与える。
寛永18年2月12日 / 冊子 714~715頁/原整理番号 747の3
加久藤地頭仮屋に伝わる有馬陣立差出。伊地知重政の主従21人について、与力・供人を帰還日別に列記し、正月十六日からの在陣日数を計算する。二月八日唐津から帰還した組、二月十七日・二十三日および三月八日に有馬から帰還した組を記し、惣合日数1342日とする。寛永十八年二月十二日付、谷口次郎左衛門と伊地知弥右衛門の署名がある。
年月日未詳 / 冊子 729頁/原整理番号 758の3
十七日に人数を揃え、山に籠もる天草のキリシタンを生捕りにするため山狩りを行ったが、隠れた者はいなかったと記す。加世田衆四十人の配置と翌十八日以降の残る山の捜索に触れる。また伊地知重政が主従三十五人で加久藤勢を率い、羽月から米之津へ到着して指出により兵糧を受け取ったことを記す。末尾に衆中共同の差出とみられる旨の注がある。
年月日未詳 / 冊子 746~747頁/原整理番号 778
伊地知重政付衆中の小原織部萬取払帳から、正月十八日の米請取と送夫への飯米支出を抜く。真米・赤米各一石五斗五升を載せ、赤米は主従三十一人の二十日分飯米とする。羽月から出水米之津までの送夫について、西田源七らへの七合五勺、西市之丞への一升、北ノ薗之後藤への一食分二合五勺、狩代の夫への八升などを列記する。真米の主従人数表記は原文どおり扱い、赤米条から補訂しない。
年月日未詳 / 冊子 4~5頁/原整理番号 3-1
伊地知季安が、島津久賀・喜入忠政率いる薩兵二千の出動と上津浦での肥後衆との交替を記す。伊地知重政ら普請奉行、村尾重候・相良頼屋の島原渡海、薩兵七千九百・出水屯兵三千三百六十八人と兵糧不足時の減員案までを具体的に記録する。