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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
追録2-No.2868記事旧記雑録暫定版確認度 中
宝永六年九月九日~正徳元年十一月廿二日〈系譜前歴を含む〉 / 冊子 875–876頁/整理ID 2868
薩州家備前守忠清後嗣久基の記事。久基は新納市正久珍の二男として生まれ、元禄十四年に元服した。宝永六年九月九日、吉貴に側小姓比志島範房から伝えられて出仕する。忠清家が無後断絶した事情とその先祖・家格を述べ、忠清の玄孫久基に三男家ではなく二男家の格で継承させ、家老直触とする。十月十六日家紋衣服拝領、十一月十三日六郎次郎命名、十五日太刀・馬代銀一枚・二種両樽献上を記す。正徳元年十一月二十二日には二男以下の称号を改め栗川とする証帖を賜った。
- 登場人物
- 薩州家備前守忠清後嗣の記事
- 宛先
- 記載なし
- キーワード
- 忠清家後嗣、久基、新納市正久珍二男、忠清玄孫、家断絶再興、二男家格、家老直触、十月十六日家紋衣服、十一月十三日六郎次郎、十五日馬代銀一枚、正徳元年栗川改称
追録7-No.1360申渡書旧記雑録暫定版確認度 高
文化11年正月(年は目録。日なし) / 冊子 436頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1360
白木御文書8番箱中2番。嶋津安藝殿(忠厚・今和泉家注)の三男和泉隼之介(久武注)について、島津の称号が免許され「二男家ニ被相立」と記す。分地を別立する件は追って願い出るよう命じられているので、この旨を帳面に記し置くよう御記録奉行へ指示する。正月、安房署、久備と文化11年は目録による。原文の三男という人物順位と二男家という家の表現を保持し、分地の実施済・石高確定とはしない。許可された称号・家成立、今後の願出、帳面への記録指示を分ける。
- 登場人物
- 嶋津安藝(忠厚・今和泉家注)、三男和泉隼之介(久武注)、安房(久備は目録)、御記録奉行
- 宛先
- 御記録奉行
- キーワード
- 白木八番箱二、忠厚今和泉三男和泉隼之介久武、島津称号免許二男家成立、分地別立追願出・安房正月記録奉行帳面指示
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w4:100家伝・上原氏諸流由緒旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
観応年間、島津忠昌代、島津義久(龍伯)代、島津忠良(日新)以来、島津貴久代、関ヶ原合戦時 / 冊子 256頁/原整理番号 100
『諸家大概記』所収の藤原姓上原氏由緒。観応頃に市来院伊作田を領した伊作田兵部太夫道材・中務丞尚経と足利直冬の御教書などを挙げる一方、伊作田から上原への称号変更が、一時的な名乗り替えを経たのか後に上原へ固定したのかは不詳とする。島津忠昌代に上原藤左衛門が奉公し、島津義久(龍伯)代に上原筑前守が兵具奉行を務め、その子孫上原休兵衛を嫡家とする。筑前守の弟・上原長門守尚常の系統は島津忠良(日新)以来近習として仕え、貴久代から地頭職、のち飫肥移地頭となって九州御退治で軍労を尽くし、代々地頭を務めたといい、近年の上原長次郎をこの筋とする。さらに上原伝左衛門の先祖が島津家久に付属し、上原貞右衛門が関ヶ原で島津豊久とともに戦死したこと、曽於郡衆中の上原掃部左衛門が系図を所持したこと、上原勘助の先祖が長門守に従って飫肥へ移住したこと、上原八郎左衛門が休兵衛二男家であることを記す。
- 登場人物
- 伊作田兵部太夫道材、伊作田中務丞尚経、足利直冬、島津忠昌、上原藤左衛門、島津義久(龍伯)、上原筑前守、上原休兵衛、上原長次郎、上原長門守尚常、島津忠良(日新)、島津貴久、上原伝左衛門、島津家久(中務)、上原貞右衛門、島津豊久、上原掃部左衛門、上原勘助、上原八郎左衛門
- 宛先
- —
- キーワード
- 諸家大概記、藤原姓上原氏、観応、市来院伊作田、伊作田兵部太夫道材、伊作田中務丞尚経、足利直冬御教書、証書、伊作田氏、上原氏、称号変化、不詳、島津忠昌、上原藤左衛門、島津義久、龍伯、上原筑前守、兵具奉行、上原休兵衛、嫡家、上原長門守尚常、島津忠良、日新、島津貴久、地頭職、飫肥移地頭、九州御退治、軍労、上原長次郎、上原伝左衛門、島津家久、上原貞右衛門、関ヶ原、島津豊久、戦死、曽於郡衆中、上原掃部左衛門、系図所持、上原勘助、飫肥移住、上原八郎左衛門、二男家
旧記雑録拾遺 著作史料集3-文書ID w9:115系図・桂彦太夫家旧記雑録拾遺暫定版確認度 高
年月日不記(天正十九年・寛永十四年などは系図内の生没・事績年) / 冊子 639~642頁/原整理番号 115
桂氏五世太郎兵衛忠詮の三男・忠増(初名忠益)から始まる彦太夫家系図で、子女の生没・婚姻と官職を記す。忠増は仁礼蔵人頼景の三男・忠守(初名頼張)を養子に迎えたが、のちに実子忠保が生まれ、頼景が忠守の帰家を求めた。忠増は二男家として残すことを申し出て田を分け、忠守の家を立てたとする。忠守は明暦三年に境目の紙屋で地頭職に補され、加久藤・横川でも地頭を務め、京都蔵奉行・町奉行・琉球奉行・御用人などの勤めを重ねた。寛文九年の病中には綱久が山次右衛門久包を通じて安否を尋ねたこと、後代の勝政による太刀献上や勝房らの系線も載せる。
- 登場人物
- 桂忠詮、忠増(忠益)、忠守(頼張)、忠保、仁礼頼景、島津綱久、山次右衛門久包、勝昌、勝政、勝房
- 宛先
- なし(系図)
- キーワード
- 桂彦太夫家系図、桂忠詮、忠増、忠益、仁礼頼景、忠守、頼張、忠保、養子、二男家、分知、紙屋地頭、明暦三年、加久藤地頭、横川地頭、京都蔵奉行、町奉行、琉球奉行、御用人、島津綱久、山次右衛門久包、寛文九年、勝政、太刀献上
追録1-No.1739系譜抄旧記雑録暫定版確認度 中
年月日未詳 / 冊子 686頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1757
市正忠広譜中に、忠広が初め御屋地の養子となり豊州家の二男家として一家を立てた後、延宝六年二月十六日に光久の命で豊州家を辞し宗室の庶流へ復帰して、平兵庫忠朗の次弟として三男家に準じ一家を立てたと記す。延宝七年四月六日に家老職を辞し、元禄十六年八月三日に死去する。
- 登場人物
- 島津忠広、島津光久、島津忠朗
- 宛先
- —
- キーワード
- 島津忠広、島津光久、島津忠朗、豊州家、宗室、庶流、一家創設、系譜、死去
追録5-No.52-13覚書旧記雑録暫定版確認度 要
元文五年十二月四日 / 冊子 19~21頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0052(の13)
記録方の日高甚兵衛・吉田用右衛門・安藤佐平次と記録奉行の川上平右衛門が十二月四日、島津但馬守の源姓使用願を受け、林大学頭による姓の照会に備えて家系と復姓の先例を調べた覚書。島津本家は元祖忠久が源姓で、近衛基通との関係から藤原姓を用い、光久が寛永八年の初叙任時から源姓へ復した経緯を挙げる。佐土原家は豊久の死後、以久への所領授与、忠仍の辞退、忠興の継承を経ており、本家から分立した二男家として藤原姓を用いてきたと論じる。本家の復姓を新たな勅命による改姓とは区別し、但馬守家も同じ源姓へ復してよいと考えつつ、口宣・系図・霊屋や石燈籠の銘を吟味し、源姓を命じられることに支障があるかは林家へ確認すべきだと述べる。
- 登場人物
- 記録方:日高甚兵衛・吉田用右衛門・安藤佐平次、記録奉行:川上平右衛門。島津但馬守・林大学頭・忠久・源頼朝・近衛基通・家久・光久・右馬頭以久(宗恕)・貴久・忠将・豊久・義久(龍伯)・忠恒(家久)・家康・彰久・又四郎忠仍・久信・右馬頭忠興・萬壽
- 宛先
- 宛名記載なし
- キーワード
- 本家の源姓復旧と佐土原家の分立、口宣系図霊屋石燈籠銘の吟味、林家へ支障確認