高城重興書状
大永三年五月日 / 冊子 642頁
高城重興が山口九郎右衛門尉に、先の文書に関する用件と肥前守への伝達を頼み、返事を求めた書状。
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大永三年五月日 / 冊子 642頁
高城重興が山口九郎右衛門尉に、先の文書に関する用件と肥前守への伝達を頼み、返事を求めた書状。
永禄九年七月二日 / 冊子 147頁
日新が本田九郎右衛門の各地での度重なる忠節を忘れないとし、その褒賞として伊作入来名内の原薗および水田一町・畠地一町を永代にわたり違乱なく与えるとした鑑札。
七月十日 / 冊子 358頁
用事に備えて留め置いていた大挙坊を吉田九郎右衛門尉とともに下向させると報じる。併せて、七月七日の伏見での能に諸大名が出席し、幕府の法度が公布され、京都でも同様に触れ出された状況を伝えた島津家久書状。
(寛永十二年)正月九日 / 冊子 469~470頁
島津久元が十二月十五日付書状への返答として、翌年の普請免除の内報、進上用の角石百本の調達、柳生但馬守・加藤勘助・有馬玄番頭への音信と贈物、大坂の焼酎・氷砂糖の取り扱いなどを報告した書状。
享保五年十月六日 / 冊子 446頁/整理ID 1193
石谷左平次が九郎右衛門久方らと実名を申し立てているが、以前の儀礼に関する照会と整合しないため、確認を求める覚書。
文政6年2月9日(本文の漢文記事) / 冊子 656頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1916
文政六年二月九日の重豪公御譜中の記事。大家が使番の戸田七内光紹を芝邸へ遣わし、重豪に御鷹の鶴を賜る。重豪に代わって九鬼靱負隆徳が鶴を受けた。同日、隆徳は登城して桜の間で御目付鈴木九郎右衛門正英に会い、賜鶴の恩を謝して退朝し、さらに本丸・西丸の老中邸に赴いて礼を述べた。本文に重豪自身が登城したとは書かれない。
明暦三年正月十五日 / 冊子 493~494頁/原整理番号 21-6
明暦三年正月十五日、鎌田筑後守政昭が平田清右衛門尉へ送った返書。清右衛門が多年にわたり昼夜家の記録編纂に精励したことを重く評価する一方、当時は藩の借銀が多く十分な褒美を与えられないため、褒美のしるしとして加増高百石を与えるので早々に拝領し、御礼を申し上げるよう伝える。あわせて同族の平田九郎右衛門を『薩州様』の側近に召し付け、奥・表の奉公と上洛時の供奉を命じる意向を通知し、本人が承諾するよう求める。前夜に使者を通じて届けられた礼を承知した旨も記し、正文が現存するとの注記を伴う。
(元和元年)七月十日 / 冊子 582頁/原整理番号 9
島津家久が父島津義弘へ送った書状の写。用向きに備えて大学坊を留め置いたこと、吉田九郎右衛門と大学坊を付けたこと、京中で権を振るう人物の動向などを報告する。七月十日付で惟新宛、家久御判。
記載なし(文中に慶長十五年五月・六月) / 冊子 54~55頁/原整理番号 12
伊地知季安が、琴月様の上洛と養子風聞に関わる平田増宗の動向を古記から考察する。増宗が家老職をめぐって島津忠長に遺恨を抱いたとの伝承、押川強兵衛・桐野九郎右衛門が慶長十五年六月十九日に入来で増宗を待ち伏せ鉄砲で討った経緯を詳述し、妻子を討ったとの伝承は別件との混同と注記する。
「寛永十六年」八月十二日 / 冊子 33~34頁
出典見出し「御文庫拾九番箱三拾四巻中」「光久公御譜中二在り」の島津久元書状。島津久元(下野守)が国元重臣へ、江戸城本丸火災の焼失範囲、将軍の西の丸移動、姫君らの避難と無事を報告した。松平伊豆守・松平薩摩守の留守居衆らと、火災見舞いの登城・御目見や進物を相談し、御成蔵の品や材木などの候補を検討して国元の意向を求めている。
(貞享三年)七月廿八日 / 冊子 773~775頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2015
七月二十六日の松木三郎五郎宅討入りについて、負傷者とその後の死亡者、討ち捨てた三十四人、灰燼内外で確認した者、三太夫らの妻子・奉公人、七月二十八日に斬罪とした十二人を列挙した書付。
元禄十六年六月十八日~八月四日 / 冊子 429頁/整理ID 1462
綱貴が六月十八日に江戸を発ち、喜入安房久亭、用人野村太左衛門広貞・平田九郎右衛門純音が従った。六月二十七日に伏見、七月二日に大坂へ着き、六日に出船、二十日に豊州小倉に着き、九州の駅路を陸行し八月四日に鹿城へ入った。嶋津新八久昌を東都へ遣わして帰州の暇を謝し、太刀・銀馬代・時服を先規どおり献上させた。久昌は将軍に拝謁し時服三領・道服一領を賜った。
元禄十三年秋(序)、元亀二年六月二十三日~寛永十三年十二月八日(系譜中記事) / 冊子 490~491頁/原整理番号 21-1
元禄十三年秋、藤原純音が藤原姓平田氏の由来と純貞以下の履歴を記した序・系図。家は古く薩摩国牛屎院と大隅国太良院の境に住み、平良氏から平田氏へ改姓した藤原姓の家であって、平姓平田氏とは別系統だと口碑に基づいて論じるが、旧記が失われたため純貞以前の祖名は不明とする。純貞は島津貴久に仕え、貴久が元亀二年六月二十三日に没すると、その冥福のため六十六州を巡礼し、翌元亀三年の帰国後に殉死を望んで三月二十三日に南林の海へ歩み入り溺死した。遺体が数日後に南林の砂浜へ上がり、その地に葬られたこと、墓碑・法名を伝える。後半は九郎右衛門純昌、休右衛門純次、朝鮮国巨済で病死した女子、幼少から家久に奉仕し寛永六年に新恩地五十石を拝領した純正らの出生・婚姻・没年・法名を系譜化する。
享保十四年十二月二十六日 / 冊子 38~40頁/整理ID 35
竹姫に附属する御同朋・御台所人・小間遣・小姓・中居など多数の奉公人について、役職・氏名と石高・扶持人数・薪・油・湯之木・五菜銀等の給付額を列記した書上。
寛永15年正月20日 / 冊子 764頁/原整理番号 816
谷山衆有馬氏所蔵の、寛永十五年寅正月二十日肥前天草立人数の名簿。西田貞右衛門、有馬千兵衛純堯、東郷長左衛門重尚らの名を列記し、東郷長左衛門内の吉利覚右衛門も載せる。夫丸を含む総人数の集計はない。
慶長11年正月19日ほか / 冊子 343~346頁/原整理番号 130-33
慶長十一年正月十九日付の切紙名寄帳抄。〔日か〕州久津良村の浮免坪付を省略し、合計一石四斗四合を衆中屋敷として返地したと記し、高岡御支配所印を据える。付随系譜の十四代忠辰は天正十三年生まれで、島津光久から三河守の名を賜り、家久の出馬に十八歳で馬廻として供奉し、寛永三年に上京した。光久の御題「春の雪」・菊・清見関の梅に応じた和歌を載せ、江戸で奏者番、日州代官役、与頭役を務め、寛文元年十二月十七日に七十七歳で没したとする。十五代久堅は元和六年生まれで光久の扈従となり、笹右衛門の名を賜って援役・与頭役を務め、元禄二年十一月十九日に七十歳で没し、子女・養子・婚姻・法名を列記する。十六代家寛は慶安三年生まれで、元禄八年に曾祖父忠宅が改めた源姓川上を上野守久尚へ返進して大蔵姓を再び継承し、援役・与頭役を務め、享保十一年正月二十四日に七十七歳で没したと記す。
寛文二年十月十七日(純正没・辞世)、慶長十二年~元禄十年(後続系譜記事) / 冊子 494~496頁/原整理番号 21-7
寛文二年十月十七日に八十歳で没した平田盛右衛門尉藤原純正の辞世と、純直・純音以下の後続系譜。純正は『今年今月今日今時今刻』と死の時を明記して歌を残し、法名を天心又玄庵主とする。孫の純直は外祖父壱岐加賀守幸則の養子となり、正保二年冬、遠流途中で谷山正泉寺に宿泊した島津大和守久章の警護を新納仁右衛門と担当した。久章が逃亡を企て、多数を斬って血刀を提げ堂前へ出た際、純直は急走して組み伏せ、左右の額・腕など三か所に深手を負いながら鎮圧した。承応三年に平田姓へ復し、万治元年から綱久に仕えた。清右衛門純音は吟味役・高隈地頭・光久納戸奉行・勘定奉行を歴任し、光久没後には遺物の紋付衣裳を賜り、平山元仲とともに遺骨を高野山蓮金院から墓所へ担いだ。鶴丸紋を連環形に略した純音の家紋、後裔の出生・婚姻・幼死・役職も元禄年間まで記す。
(永禄四年)五月十八日 / 冊子 93頁
廻城への普請・陣役のため、役負担者だけでなく小者にも竹尻を一つずつ用意させ、五月二十七・二十八日に串良で受け取るよう命じる。また村人に廻城へ米を運ばせ、受取日記を提出するよう指示した連署状。
年月日未詳 / 冊子 225頁/原整理番号 333-8
八組に属する手負者計二十名を列記した覚書。谷主膳組は釘本十左衛門・山路太左衛門・魚住藤七・杉山七太夫・宇野喜一郎・魚住藤三郎の六名、西郡要人組は伊藤左内・道家清十郎・北村半右衛門の三名、島又左衛門組は友田八太夫一名、小笠原備前組は佐分利彦右衛門・佐々次郎右衛門の二名、松野右京組は安井喜一平次・和田清太夫の二名、坂崎清左衛門組は小崎与次兵衛一名、平野九郎右衛門組は中川佐左衛門・中川長吉の二名、志水伯耆組は中根勘兵衛・矢野吉之助・荒木太郎助の三名。