島津家久書状
(寛永十年)十二月六日 / 冊子 397頁
No.667所載の島津家久書状の一通。島津久慶を家老に任じる趣旨の文書で、本文は省略されている。
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(寛永十年)十二月六日 / 冊子 397頁
No.667所載の島津家久書状の一通。島津久慶を家老に任じる趣旨の文書で、本文は省略されている。
年月日未詳 / 冊子 494頁
佐多久慶の母が島津左兵衛尉久の娘であったこと、永禄年間の出生、天正十九年に三州の所領改替を受けて旧領知覧から河辺へ移ったことを記す。久慶が同年六月二十一日に没したことも載せ、佐多氏の婚姻と所領移動を簡潔に伝える譜の記事。
慶長八年八月十六日 / 冊子 904頁
川上久慶が島津家の弓馬に関する命を守り、当世流の早道乗りを上意なく行わず、教示内容を他言しないと誓う起請文。先祖以来の馬術については、子孫一人への相伝許可を願い、違反時の神罰を誓った。
(寛永十一年)五月八日 / 冊子 421頁
島津久慶・久元が、諸所の合戦での戦功と政務参与の功労を賞し、太守家久の命により薩摩国伊佐郡黒木村を食邑として島津豊後守久賀へ与えた連署宛行状。
(寛永十二年)八月九日 / 冊子 489頁
島津久慶・川上久国が、蛯良合粒寺の勧進を領内で順次宿継ぎし、奉加物を同寺へ送り届けることを毎年の例とするよう触れた回状。
(寛永十二年)十月十一日 / 冊子 502頁
島津久慶ほか四名が、曽於郡止上社を再興するため、清水・国府・福山・日当山・加治木・帖佐・山田・蒲生・吉田・庄内などの衆へ、志に応じて奉加するよう触れた回状。
寛永十二年十月廿一日 / 冊子 503~504頁
島津久慶ほか四名が、南蛮宗改めのため、男女・子供を含む領民に木札を作らせ、庄屋らが付き添って焼印を受けさせること、地下人・他国者・旅人・船乗り等を別帳に記し、札や旅人帳を携帯させることなどを申し渡した文書。
(寛永十二年)十一月二日 / 冊子 505頁
島津久慶ほか三名が、女性・子供を人数改帳へ記すこと、男子は年齢に応じ誓紙・血判を用いること、他所者・浮世人・唐人の札や証文を整えること、改衆への夫馬・食料等の支給と狼藉禁止などを定めた条書。
年月日未詳 / 冊子 507頁
島津久慶ほか二名が、平田盛右衛門尉へ高五十石を加増として給付するので、これを支配するよう命じた曳付。
寛永十三年正月廿日 / 冊子 524頁
島津久慶ほか三名が、唐へ遣わす糸船、琉球からの銀納付、火災後の出銀、罪人の処置、前年の糸船不着、北京使節の帰国状況、日本国内の南蛮宗禁制などについて報告と履行を求め、四月の帰国時に協議するとした条書。
寛永十三年四月廿六日 / 冊子 537~541頁
島津久慶(弾正大弼)・島津久元(下野守)・川上久国・伊勢貞昌・山田有栄・三原重庸・鎌田政統が連署し、家中の政務処理を定めた「物定三十五条」。旧例・訴え・奉公上の申立ての扱い、家老衆・物奉行衆・賦衆・普請奉行等の職掌、知行・扶持・切米・納銀・欠米売買、江戸勤番・役人交替、訴訟・借銀・家中統制、年貢・諸役・蔵入などの処理を定める。末条では諸料物・調所の代物を別納し、神社・仏閣・橋の建立や給付の費用に充てることを定め、談合で決定した条々に違背しないよう命じる。本文は冊子537~541頁、日付は寛永十三年卯月二十六日。
(寛永十四年)十二月十六日 / 冊子 710~713頁
家久の年寄衆からの返書と二通の御状を受け、黄門へ進上した書状や幕府側の命令内容を照合し、長島・獅子島への兵配置と天草への即時渡海を協議する。肥後勢が十二月三日に三角瀬戸へ到着し、翌日天草へ押し寄せるとの注進を踏まえ、薩摩勢が遅れないよう準備を急がせた。薩摩から首取千人・鉄炮衆千人・馬乗三騎を天草へ遣わすとの取沙汰、山田民部少輔・新納賀州・仁礼左将を獅子島番手とすること、船の手当、本文を流布しないことを記す。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十六日付。
(寛永十四年)十二月十七日 / 冊子 713~714頁
上使衆の早打に託された先月二十三日付の御状が今月十一日夜に酒井讃岐守から兵部少へ届いたことを述べる。上使は十二日夜半に到着し、翌朝御奥で対面して雑煮の寄合と七五三の振舞を受け、黄門様の胸や手の様子を見た。北郷式部大輔と孫庵が相伴し、上使は引き留められたが十三日夜に出立した。先行して注進した者は海道で上使に追い越され、船で進んだ黒葛原周右衛門・松田七左衛門は五日前に到着したとし、一連の順調な到着を神仏の加護として祝う。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十七日付。
(寛永十五年)三月八日 / 冊子 790頁
頓翁宗悟居士の七周忌に際し、「時しりて花も涙や濺らむ/鳥はこころの有かほになく」と詠み、故人を追悼した島津久慶の詠草。
(寛永十五年)三月十日 / 冊子 791~792頁
大隅守死去後の薩摩守の家督・国政処置と江戸参府を見込み、幕府上使の下向もあり得るため内々に備えるよう伝えた島津久慶・鎌田政統の連署書状。上使対応の具体的な道中・船・供人手配は続くNo.1286に記される。
(寛永十五年)三月十日 / 冊子 792~793頁
能勢小十郎から、幕府上使が薩摩へ下向するとの連絡を受け、道中の馬、乗船、京都以西の供人、差し支えがある場合の代替要員、随行人数などを早急に整えるよう伝えた島津久慶・鎌田政統の連署書状。
(寛永十五年)四月朔日 / 冊子 796~798頁
薩州様(島津光久)が帰府するまで御番を務める件を確認し、大坂から届いた品の送状を火災後の分と照合して、見つかった分を三札にして送る。桑畑藤右衛門尉・大脇正右衛門尉の到着、光久の参府見込み、野村勘兵衛尉を松平伊豆守へ遣わしたことを報告する。有馬一揆の城が先月二十七、八日に落ちたが、銀不足のため祝儀使者を差し止めたこと、山田民部少輔・新納加賀守ら薩摩勢が約二百の首級を挙げたとの情報を記す。江戸・京・大坂で借銀できず、借銀の利息さえ払えない窮状を述べ、銀子の送付を求める。新納勘解由が奉行する大廻船の仕出しや屋敷の無事も伝える。島津久慶・鎌田政統の連署で、島津久元・伊勢貞昌・川上久国・三原重庸・山田有栄宛。寛永十五年四月朔日付。
(寛永十五年)五月十日 / 冊子 804~805頁
急な御使を命じられて江戸へ上った伊集院左近を先に帰国させ、家督相続の報を国元へ伝えさせる。五月八日、島津光久(薩州様)が土井利勝(大炊頭)の宿所へ赴き、酒井忠勝(讃岐守)・阿部忠秋(豊後守)らの出合いのもとで家督相続を申し渡された。島津久慶・島津久元・鎌田政統・伊勢貞昌も供をして申し渡しを聞き、近く将軍への御目見があり、進物を準備していると報告する。四名連署で川上久国・山田有栄・三原重庸宛。寛永十五年五月十日付。
寛永十六年十月廿三日 / 冊子 57~58頁
島津久慶ら六名が、高野山における島津家宿坊の由緒と蓮金院への改替を示した条書。義弘・家久が蓮金院と寺領三十五石を代銀四十貫目余で買い整備したこと、廻向院が豊臣秀頼の大坂籠城に加担したため寛永十六年に宿坊利用を禁じたことを述べ、領内の参詣者を蓮金院に付け、廻向院や他坊への宿泊を禁じ、違反時は届け出て処罰するよう定めている。
「寛永十八年」十月廿三日 / 冊子 168~169頁
島津久慶が新納仲左衛門へ、送られた書状・書立を夜に灯火のもとで読み、これまで知らなかった事柄が判明して疑念が晴れたことを伝えた書状。近年の文書の造成や人物・屋敷拝領の由緒について慎重に検討し、野州老・秘書老にも示したこと、使者が上るため清書へ追記したことを述べる。さらに島津忠恒が家久と名乗るようになった年号を確認できず困っているとして、調査を求めている。
十一月廿日 / 冊子 64頁
島津久慶が帖佐長右衛門尉に、薩州様・虎寿様への使者派遣と黄門様の上洛予定などを知らせた書状。肩衣・袴一具を添えて送り、国元の無事を伝えつつ、上洛や在旅中の取次・奉公について配慮を求める。
正月九日 / 冊子 64~65頁
島津久慶が帖佐長右衛門尉に、光久様が大事な役を無事に務め、疱瘡後に湯治を終えたことを喜んだ書状。自身も疱瘡を二度経験したため案じていたと述べ、快復の知らせに安堵し、若衆や関係者の近況も尋ねる。
二月三日 / 冊子 65頁
島津久慶が、薩州様の疱瘡快気と虎寿様の疱瘡が軽症であることを喜び、再び使者を進上した書状。野州老から届いた知らせに安堵し、薩州様が当年下国するとの噂について、確かな吉報を待っていると伝える。
八月二日 / 冊子 67頁
島津久慶と島津久元が、八朔に献上する太刀・馬の先後争いについて連署した書状。玄蕃頭との席次・進上順を黄門様が先例に基づいて裁定すること、双方が証文を提出し、東郷肥前守を介して決着させることを伝える。
十月朔日 / 冊子 69頁
島津久慶が新納仲左衛門尉に、家譜へ記載するため過去の贈答・拝領記録を捜すよう頼んだ書状。関ヶ原後の伏見で黄門様が拝謁した際の進上・拝領物、惟新様病中の上使と拝領物、医者三官関係の書物などを詳しく調査して書き付けるよう求める。
正月十一日 / 冊子 72-73頁
島津久慶・川上久國・伊勢貞昌が、根占殿の御蔵入方を會木弥兵衛尉と黒葛原吉左衛門尉へ命じたことを知らせた連署書状。吉左衛門尉は病気で参上が遅れたが当日出仕したため、その事情を披露するよう求める。
閏七月廿八日 / 冊子 77-78頁
島津久慶と川上久國が、上様の下向に備えて当地から御道具衆二十人を御舟本まで差し上げたと知らせた連署書状。相手方にも手持ちの御道具衆を今晩から順次差し上げ、油断しないよう命じる。
二月十四日 / 冊子 77頁
島津久慶と島津久元が、羽嶋蔵人家の事情により、その子一人を当地へ置く願いが認められたと伝えた連署書状。蔵人の宗領の子へ知行四十五石を付け鹿児島へ召し置くため、相手方の高から分けるよう求める。
年月日不詳 / 冊子 112頁
川上久慶の書付。複数の姓・系統ごとに、白兎毛・鼠驪毛・鹿驪毛・黄騎毛・驢蝿毛・猿毛・雲雀毛・赤驥毛・儀渠毛・盗驪毛など、馬の毛色名と読みを系図状に整理する。川上十郎左衛門尉の自筆本を書き付けた旨を記す。
七月十六日 / 冊子 168~169頁
島津久慶と川上久国が新納久辰に、祖先の戦功と代々の家老職における忠勤を中納言様が殊に神妙と評価したことを伝え、その褒賞として大隅国桑原郡踊の三躰堂村・大鹿倉を与える旨を達した連署文書。
四月十六日 / 冊子 170頁
島津久慶と頴娃久政が諸所の噯衆に、江戸奉行衆の奉書が早飛脚で下されたため写しを地頭衆へ回したことを伝え、前年の指示と相違なく油断せず申し付けるよう命じた廻文。御兄弟衆が巡見するので、不行届きの場所は直ちに報告されることを心得、少しも疎略にしないよう戒める。
(寛永十二年)三月十七日 / 冊子 475~476頁
前年京都で命じられた唐船入港禁止を領内へ徹底し、唐船を許容した者の処罰、違法な渡唐・入港の通報者への褒賞、唐船の曳舟禁止、漂着船の即時退去、宇治之島など無人島の監視、怠慢な地頭の処罰を定めた五名連署の条書。
寛永十三年九月十八日 / 冊子 553頁
境目地頭に付された新納加賀へ、替地・返地として大口のうち木氏村二百六十二石六斗二合三夕一才を与え、不足分は大口内の相応の地で補うよう命じた五名連署の引付。
(寛永十四年)十月十九日 / 冊子 682~683頁
家久周辺の内密な案件について、黄門様・奥方・野州老らへの対応、出仕や儀礼の手順を相談し、関係役人と連携して急ぎ処置するよう求めた連署書状。対象となる女性・屋敷内の事情や役割分担には難読箇所が多い。
(寛永十四年)十一月十三日 / 冊子 690~693頁
島原・天草一揆への幕府方針と周辺諸国の動きを詳報し、薩摩からの派兵命令に備えて人員・船・鉄砲を準備するよう指示する。切支丹の捜索と逃散防止、兵の集結、渡海・国境警備、上使への対応などを定め、関係者が協議して遅滞なく処置するよう求めた連署書状。
(寛永十四年)十一月廿四日 / 冊子 697頁
新庄右近の到着への対応を気遣い、図書頭帰国時の御内書、山田平左衛門の到着、有馬方面の急報と返書の送付、和田・有川両名による伝達、新納勘解由の帰国予定などを知らせる。大坂経由の奉書を速やかに届けるよう命じた連署書状。
(寛永十四年)十一月廿四日 / 冊子 698~699頁
細川肥後守が初めて暇を得て帰国するため、薩摩から祝儀の使者を派遣し、鎌田源左衛門または河田内膳を任命するよう指示する。太刀一腰・馬代黄金一枚・小袖十を贈るため、京都で小袖の表裏絹を調達し、仕立てと送付を急ぐよう命じ、祝儀書状の案文も添えた。
(寛永十四年)十二月五日 / 冊子 706頁
天草方面への出水・大口勢の先行や山田民部少輔の出水出陣を知らせ、遠国衆への差配、兵衛尉らの派遣、今後の指示について報告を求めた。
(寛永十五年)四月廿九日 / 冊子 802~804頁
有馬・天草への新領主入部、有馬向け米の調達、豊後目付の交替、使者到来や百姓負担のため遅れた国分川普請、種馬の扱い、喪中かつ家督相続前の改革抑制、家久遺物の贈与など、多数の政務案件を報告・協議した四名の連署書状。
(寛永十五年)五月十三日 / 冊子 806~807頁
五月八日に土井利勝邸で家督相続を正式に命じられた後、御礼登城・将軍拝謁を済ませて献上物を差し上げ、家久死去についての上意を受けたこと、幕閣への挨拶や贈物、供の者・使者への装束拝領、早期の暇と帰国の見込みなどを詳報した四名の連署書状。
三月廿五日 / 冊子 114頁
前年の国分下馬で起きた衝突を江戸へ報告し、関係者の処分を伝えた連署書状。本田蔵人ら五人は知行・屋敷没収と遠方への追放、下馬始の中間隼人ら三人は死罪とし、市来・左衛門への処置も命じる。
(寛永十一年)五月廿日 / 冊子 427~428頁
奥方関係の知行配当、福昌寺・南林寺・正八幡など寺社領の扱い、根占安千代と嶋伊勢鶴の知行・加増等を定めた連署条書。
(寛永十一年)五月廿日 / 冊子 428頁
No.719の連署条書を抄出した文書。本文は底本で省略され、No.719参照とされる。
年月日未詳 / 冊子 435頁
No.719の連署条書を抄出した文書。本文は底本で省略され、No.719参照とされる。
(寛永十一年)九月十七日 / 冊子 449~450頁
日新寺内常潤院の住持呑泰和尚が買い取った二十三石六斗の知行を常潤院へ付すことを認めた証状。寺家への知行付与は原則禁制だが、日新様の御影を安置する常潤院は別格とし、出物方・公役は諸寺家と同様に負担させる。
寛永十一年九月廿五日 / 冊子 450頁
伊勢兵部少輔の分として千石を上置きしたうち、今度返給となった千石について、淡谷四郎左衛門・児玉筑後守からの下知に従って支配するよう命じた達書。この高の分は上地しないものとする。
(寛永十一年)十月十九日 / 冊子 453~454頁
琉球国王・黄門・薩州様・三司官らに対する年頭進物の品目と数量を定め、使者・付衆・老中・琉球奉行等への進物や礼物の基準を示した条書。使節経験者への恒常的な音信や、一部役人への礼物を禁じる。
寛永十一年十月十九日 / 冊子 454~455頁
無許可の他国人渡航・宿貸し、公儀に無披露の投銀を禁じ、唐糸価格と福州での買付、琉球へ下る使者の行動、飯米等の供応、日本人の長期滞在、船頭・水手の現地妻帯、南蛮宗徒の処刑、琉球銀の上納方法などを規制した条書。
寛永十一年十月廿八日 / 冊子 457頁
法華嶽寺に従来の門前屋敷十二石とは別に、四十九石七斗三升と深歳村内仏生田之門の十三石二斗七升を合わせた六十三石を、虎寿の祈祷料として寄進し、永代の祈祷精勤を求めた寄進状。
寛永十一年十月廿八日 / 冊子 457~458頁
加世田小湊の内『中之塩屋』十石について、日新公の証文を根拠とする寺側の訴えを認め、従来の知行三十一石五升と合わせて四十一石五升を宝福寺の領地として安堵した宛行状。