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HP-1303巻10:182公開可

HONPAN JINBUTSUSHI · SOURCE ARTICLE

島津忠広

異名・検索語:島津忠広/島津豊後守忠広/二郎三郎/右馬頭/豊州家/島津忠朝/北郷数久/伊東義祐/穆佐/火柱合戦/鵜戸山/鬼ヶ城/飫肥/島津貴久/北郷忠相/島津賀久/島津忠親/福島/永徳寺円翁智鑑大禅定門/新納忠武/新納忠勝

試験導入中の史料別人物解説です

この解説は『本藩人物誌』の記事内容を整理したもので、一般的な人物伝や他史料を含む史実認定とは区別してください。今後の精読・原画像照合により更新される場合があります。

DESCRIPTION

本文内容説明

島津豊後守忠広(二郎三郎、右馬頭)は忠朝の嫡子で、母は北郷数久の娘。飫肥を守り、天文十年、伊東氏に背いた穆佐の長倉兄弟の求めに応じて出兵したが、火柱合戦で敗れ、多数の家臣・兵を失った。その後も肝付領の蓬原城攻め、伊東勢との鵜戸山・鬼ヶ城の攻防を重ねた。天文十四年、北郷忠相と貴久を太守に立てることを協議し、伊集院で譜代家老らと合意した。男子がなく、従弟忠隅の子賀久を養子としたが早世。北郷忠親を後継に迎えて家督を譲り、自身は飫肥から福島へ移った。室は新納忠武の娘で忠勝の妹。没年記事は他の記事の年代と整合せず未確定。法名は永徳寺円翁智鑑大禅定門と記す。

系譜・人物関係

忠朝の嫡子、母は北郷数久の娘。従弟忠隅の子賀久を養子としたが、天文十五年正月二十三日に病死したと記す。北郷忠相の子忠親を養子に迎えた。忠親が北郷家の家督を忠豊へ譲る経緯もこの忠広条に記載。室は新納近江守忠武の娘、新納忠勝の妹。

奉公・役職

豊州家を継いで飫肥を守る。北郷忠相と貴久擁立を協議し、伊集院で伊地知・本田以下の家老らと相談。養子忠親へ家督・系図文書・重代の刀などを引き渡す。飫肥から福島へ移住。

軍役・事績

天文十年に長倉兄弟を救援して穆佐へ出兵するが火柱合戦で敗北。肝付領蓬原城攻めの加勢、鵜戸山・鬼ヶ城などの対伊東戦。後半には「以下ハ都テ忠親カ伝ト見ルヘシ」との注があり、新山城などの後続記事は忠広本人の軍功に加えない。

生没・法名等

末尾本文は天文十二年五月二十日没、八十六歳と読めるが、天文十五年の養子賀久没・その後の忠親相続などと年代が整合しないため没年は未確定。法名は永徳寺円翁智鑑大禅定門。旧記録では鑑が脱落していた。福島への移住から没地を推定しない。

統合人物ID
HP-1303
原人物ID群
10-182-01
氏・分類
島津
掲載巻頁
巻10:182
主題・活動
系譜・奉公・役職・軍役・生没
人物関係要約
忠朝の嫡子、母は北郷数久の娘。従弟忠隅の子賀久を養子としたが、天文十五年正月二十三日に病死したと記す。北郷忠相の子忠親を養子に迎えた。忠親が北郷家の家督を忠豊へ譲る経緯もこの忠広条に記載。室は新納近江守忠武の娘、新納忠勝の妹。
検索キーワード
島津忠広/島津豊後守忠広/二郎三郎/右馬頭/豊州家/島津忠朝/北郷数久/伊東義祐/穆佐/火柱合戦/鵜戸山/鬼ヶ城/飫肥/島津貴久/北郷忠相/島津賀久/島津忠親/福島/永徳寺円翁智鑑大禅定門/新納忠武/新納忠勝
公開区分
公開可
精読・確認状況
従来記録:精読済(今回の再精読は未実施)
公開判定根拠
従来判定を継承。新基準による個別再判定は未実施。
説明作成区分
AI用PDF全頁精読
本文境界判定
人物別AI用PDF全4頁を再読。冊子182頁下段の〇島津豊後守忠広から184頁上段の没年・法名・室の付記まで。後半の忠親伝とする注記を保持し、家督譲渡に伴う関連記述として区別。次の忠親独立見出しは含まない。新規採番・PDF変更なし。
判読保留
没年は単なる判読不能ではなく、天文十二年と読める本文と継承記事の年代不整合として記録。公開文では未確定と明示し日付・年齢を採用しない。継承年月の異注、細字の将士名・戦死人数は留保。法名の智鑑を確認して訂正。本人に帰属する出自・初期軍役・貴久擁立・養子継承の記述で公開可と判断。

出典:『鹿児島県史料集 第13集 本藩人物誌』