穆佐衆中による石塔調査
安永年間5月(目録、日付記載なし) / 冊子 528頁/原整理番号 72
穆佐衆中小田四郎右衛門から、石塔が埋まったとの申出を受け、所在と掘出しの事情を照会する。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
97 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
安永年間5月(目録、日付記載なし) / 冊子 528頁/原整理番号 72
穆佐衆中小田四郎右衛門から、石塔が埋まったとの申出を受け、所在と掘出しの事情を照会する。
6月(目録、年次記載なし) / 冊子 538頁/原整理番号 76
穆佐の旧権や安藤十郎らの申出を受け、伊集院・悟性寺に関わる古書の書写と差出を記す。
安政三年正月(本文)、正月廿一日(外包受渡)。応永三十二年正月廿一日(久豊逝去)、安永三年・天保十二年ほか(調査経過) / 冊子 167~169頁/原整理番号 233/整理ID 233
八代久豊の墓所と「義天」銘石塔・掘出骨の調査を述べ、混同を防ぐ処置を命じる文書。久豊は応永三十二年正月二十一日逝去、法号を義天存忠大禪定門とするが葬地が明らかでなく、安永三年に穆佐悟性寺の義天塚と伝える場所から骨を納めた甕、香炉や鈴が見つかっても確証が得られなかったとする。天保十二年に義天の二字を刻む石塔と笠石が出たため、旧文書・古老の伝承等を調べた。久豊の鹿児島での葬儀・法事、福昌寺の卵塔や御石塔等から廟所を検討し、去る丑年には上村休兵衛・榎本新兵衛を遣わして絵図と古い墓地の情報を集めたと記す。一方、火葬と土葬、後世の埋葬、損傷して読めない文字、記録の乏しさ等を挙げて、石塔の由来と掘出骨の身元は分けて慎重に扱う。石塔の文字を磨り消して寺内へ埋め、別途石塔一基の建立を命じ、穆佐中で奉尊し祭式を入念に行う扱い、寺家への書付と後年紛れない保管を示す。寺社奉行・穆佐地頭は石塔の取扱いと場所を吟味して寺家へ伝え、書付を取り調べ申し出るよう求める。本文末は正月・豊後、外包は安政三年正月二十一日に上村休兵衛へ渡して白木御文書十番箱へ納めたと記す。
元禄16年(目録) / 冊子 506頁/原整理番号 44-2
御回禄以前の古書などを探して照会すべきこと、寺社奉行も尋ね、穆佐から書き出した留と見られることを記す。冒頭に貼紙があり、一部判読を保留する。
目録年月日記載なし / 冊子 134~135頁/原整理番号 5
「穆佐悟性寺古塔考」。季安は穆佐上倉永村内の古祥寺廃寺跡にある古石塔を調べ、阿弥陀堂からの位置、石塔に彫られた梵字・文字、判読しにくい年号を記す。石塔の形と刻字の見取り図を添えて、伝承と現物の照合を試みる。
元禄10年閏2月14日(目録) / 冊子 456~457頁/原整理番号 102-1
穆佐悟性寺に伝わる本尊・社寺の建立と焼失、開山快空や天正寺の由緒を記し、久豊・忠国・義久らの時代における穆佐城、忠国公八幡宮、社領・寺領の給付と勧請の経緯をたどる。元和六年の安置や慶長年間の修造などを挙げ、古い書付と実地の伝承を照合して報告する。
元禄10年閏2月13日(目録) / 冊子 457頁/原整理番号 102-2
元禄十年閏二月十三日付で、穆佐祈願所天正寺が寺社の由緒と書付の経緯を報告する。元禄四年に由緒書の提出を命じられたが、昔の由緒書と留帳が焼失したことを述べ、古い書付と伝承を照合して寺社奉行所へ差し出す。
元禄10年閏2月14日(冒頭日付) / 冊子 507~508頁/原整理番号 45-3
穆佐悟性寺の本尊薬師如来、久豊・忠国らによる寺の建立・修理、寺領と関係文書の伝承を詳述する。元禄十年閏二月十四日付の書留。
寛文10年4月5日 / 冊子 468~469頁/原整理番号 116
悟性寺の客殿・茶堂などの間数と屋根の状態を挙げ、古くなった建物の修補を願う。寺の由緒と維持の難しさを述べ、寛文十年四月五日付で穆佐の役人に差し出す。
貞享3年3月17日 / 冊子 453頁/原整理番号 99
悟性寺の拝殿破損について、十六年前に合力銀を受けて修補した後も私費で維持してきたが、再び損傷が進んだと述べる。過去の銀の使途と修理の経緯を説明し、貞享三年三月十七日付で修理費の再給を求める。
年月日未詳 / 冊子 639~640頁
建武二年十二月、日向国の内乱で伊東祐広・祐重・祐持・祐広ら一族が挙兵し、国富庄・梶籠城・土持氏領・穆佐院などで戦った経過を記す『日向記』。河越勢の旗宿所襲撃、放火・殺害、島津庄穆佐院政所への攻撃、祐広親類の敗走・追落し、田地所職の譲与と代官占領まで具体的に述べる。
安永六年七月(年は朱) / 冊子 529頁/原整理番号 1465/整理ID 1465
穆佐で掘り出した骸骨を納めた大甕の蓋石の銘書について、別紙草案の通りに仰せ付けられたので、その通り彫刻するよう寺社奉行へ申し渡すことを命じる。七月、帯刀。小松清香の注がある。
安永七年戌五月 / 冊子 552~553頁/原整理番号 1550/整理ID 1550
穆佐悟性寺について、久豊公が穆佐に在城した際の菩提所であるとして以前から位牌があり、先に調え替えて安置したので、御目見寺を命じ、下馬札を建て、仏餉米を渡してほしいと寺社奉行が繰り返し申し出たと記す。これに対し、久豊公については福昌寺に「元久公御相廟」と記し、位牌は惠燈院に安置されているとする。悟性寺は以前から菩提所との由来はあるものの、石塔がなく由緒が詳らかでないため、御目見寺とはせず、下馬札も建てないと裁定する。一方、仏餉米については、極めて貧しい寺で霊膳などを調え難いはずなので、御物方から米三石を年々給付することとする。以上を伝えるよう申し渡し、首尾係には例のとおり申し渡すと記す。安永七年戌五月、帯刀。帯刀には小松清香の原注を付す。菩提所とする申出、石塔欠如と由緒不詳の留保、御目見寺・下馬札を認めない判断、貧寺への毎年の米給付を分ける。毎年三石を一度限りの三石や毎月三石に換算せず、寺の扱いを認めない判断から米給付も拒否したとはしない。先行の古塚記や木主修礼の記事とは関連するが、この裁定を出土骨の本人比定が確定した証拠として扱わない。
記載なし / 冊子 221頁/原整理番号 9
「穆佐郷土吉野氏日記抜書」の見出し。後続の番号9-1以下は宥邦院の病気・逝去に際する祈祷、禁制、葬送、中陰法事の廻状や申渡を抜き書きする。見出し自体に独立した日付や用件はない。
寛文10年4月5日(目録) / 冊子 中表紙(無頁)・393~398頁/原整理番号 1
穆佐悟性寺にある義天の御石塔について、島津・伊東家の旧事や日州穆佐の由緒をたどり、石塔の建立地と移転、維持をめぐる証言・旧記を検討する。末尾には寛文十年四月五日付の悟性寺による修補願と、客殿・茶堂・庫裏・門・薬師堂などの破損箇所を挙げた書付を収める。
寛文10年4月19日(目録) / 冊子 399~402頁/原整理番号 2
穆佐悟性寺の客殿修補申出について寛文十年四月十九日付の寺社御奉行所の記録を掲げ、石塔の立地、義天の墓所と伝える根拠、碑文や古記の読みを検討する。後段では石塔が義天のものか、移転・再建の経緯を吟味し、天保八年三月十二日に季安が補書した。
安永6年11月21日(目録) / 冊子 402~403頁/原整理番号 3
穆佐郷の古塚にある石・金鈴・香炉などの伝承を記す安永三年の「穆佐郷古塚記」を引き、義天の墓とみなす根拠を検討する。悟性寺の御石塔に残る碑文・旧記、移転や修補の経緯も照合し、伊地知小十郎が天保七年十二月に汾陽次郎右衛門へ見解を伝える。
目録年月日記載なし / 冊子 中表紙(無頁)・405~406頁/原整理番号 1
穆佐悟性寺の義天御石塔について先の私考に続けて考証する。伊東氏と島津氏の穆佐をめぐる旧事、義天の石塔を刻んだとする伝承、寺地の変遷を検討し、悟性寺の寺名や石塔の由来を旧記と照らす。表紙に天保八年四月吉日の年記がある。
目録年月日記載なし / 冊子 406~407頁/原整理番号 2
地頭樺山規久らに関する旧記を引き、穆佐城内の坪・屋敷と悟性寺の移転、城内の火災後に残った植樹や石塔の所在を考証する。石塔の由緒を義天や島津家の旧記・伝承と照らし、寺の現地を特定する根拠を吟味する。
目録年月日記載なし / 冊子 407頁/原整理番号 3
「山田聖栄自記」から、修理亮が穆佐を受け取り、池尻・白糸・細江城をめぐって所領や役務を願い出た経緯を抄出する。伊東家との縁と兄弟間の不和にも触れ、穆佐城の支配の変化をたどる材料とする。
目録年月日記載なし / 冊子 408頁/原整理番号 4
忠國公の法名を大岳とし、用久とともに伊東腹の子孫で、穆佐高城を出生地とするという短い系譜記事を収める。
目録年月日記載なし / 冊子 408頁/原整理番号 6
旧記の元久・久豊・義天に関する記事を引き、島津家の親族関係と福昌寺・穆佐の伝承を検討する。忠國公の系譜や穆佐城の攻防を照らし、石塔の由来と義天の出生地説を考える。
建久8年6月(日付記載なし、目録) / 冊子 414~415頁/原整理番号 1
穆佐への内用出張後に差し出した届書と記録方から示された勘考箇条の相違を、旧記・系譜と照らして逐条検討する。加江田城攻撃と久豊の没年、義天の墓所と悟性寺の石塔、穆佐における伊東家の支配期間を論じる。「日向国園田帳」の穆佐院三百町ほかの所領記載も引き、建久八年時点の島津荘地頭所と伊東氏の所領関係を考える。
文和5年2月28日(朱書:延文元年) / 冊子 416頁/原整理番号 4
日向国穆佐院内の星崎村を大慈寺三門造営の料所とし、所務を全うして造営の功を遂げるよう命じる。文和五年二月二十八日付で修理亮の花押があり、当寺修造司禅師に宛てる。
正平15年5月20日(朱書:延文5年) / 冊子 417頁/原整理番号 6
下野守祐氏が、勲功の賞として領掌する穆佐院内の今山寺と歳窪の田地を永代寄進する。川崎宮内左衛門尉忠兼を助縁檀那、玄戒庵主を住持とし、天下泰平と当家永昌の祈祷を求める。正平十五年五月二十日付の花押があり、朱書に延文五年と記す。
建武元年4月28日(目録) / 冊子 418頁/原整理番号 10
建武元年四月二十八日付、大隅国守護職を先例に任せて沙汰すべきとする文書を引く。続いて足利氏から島津時久・資久・資忠への所領給付、伊東勢による穆佐城攻撃と奪回、悟性寺鐘銘の大檀那伊東祐満を検討し、寺領を押領から回復させる後続文書へつなぐ。
明徳2年8月7日 / 冊子 418頁/原整理番号 11
相国寺雑掌の訴えを受け、日向国穆佐院・三俣院などの押領人を退け、寺家雑掌に引き渡して知行させるよう島津又三郎に命じる。明徳二年八月七日付で右京大夫の御判がある。
明徳2年9月21日 / 冊子 418~419頁/原整理番号 12
相国寺領の穆佐院・三俣院について御教書が出されたので、相違なく成敗するよう島津殿に求める。詳しい事情は童徳蔵主が伝えるとし、明徳二年九月二十一日付で書き送る。
目録年月日記載なし / 冊子 419頁/原整理番号 13
『日向記』から、今川播磨守の下向・在国、穆佐高城を開いての帰国、島津氏の山東出陣と清武城攻撃を引く。続いて「氏久」は元久の誤記と指摘し、伊東方の記録や穆佐三百町・池尻・白糸・細江の地名を照合する。
目録年月日記載なし / 冊子 419~420頁/原整理番号 15
『山田聖栄自記』の穆佐三百町・池尻・白糸・細江の知行記事を引く。季安は旧記の「氏久」を元久の誤記とし、今川探題の帰国後に元久が山東へ向かった経緯を伊東方の記録と照合して、地名の位置を説明する。
目録年月日記載なし / 冊子 423頁/原整理番号 25
『山田聖栄自記』は、曾井・源藤の合戦で島津方が損害を受け、御曹子二人を末吉へ移したことや、伊東勢が穆佐西城へ攻め込んだことを記す。季安は伊東系図・日向記との記述差を比べ、忠國・用久の年齢と聖栄が記録した時期を検討する。さらに島津家の内紛と伊東氏の勢力拡大を年次に沿って整理し、自記が複数代の出来事を省略・圧縮した可能性を論じる。
目録年月日記載なし / 冊子 443~444頁/原整理番号 80
文安二年六月三日、伊東祐堯が土持兼綱と同心して門川を退治し、同年九月八日に穆佐を攻め落としたと記す。直後の「日向記」が同じ戦役を詳述する。
目録年月日記載なし / 冊子 444頁/原整理番号 81
伊東祐堯が土持と同心して門川へ押し寄せ、六月四日に対治し、九月八日には土持・縣と同心して穆佐を攻めたと記す。直前の伊東系図記事と戦役は同じだが、六月の日付を四日とする。
目録年月日記載なし / 冊子 452~453頁/原整理番号 98
穆佐の稲荷大明神宮と拝殿の寸法、祭礼日、永両村の祭祀、社殿の修補を記す。忠国が穆佐城にいた頃の建立と伝え、火災後の再建や社領の変遷にも触れる。明暦元年九月上旬に下倉永村の祝子野田新三郎が記す。
元禄10年丑閏2月14日 / 冊子 455~456頁/原整理番号 102
元禄十年閏二月十四日付の「穆佐悟性寺由緒書留」と掲げる見出し。悟性寺の由緒をまとめた後続書付の題目を示す。
目録年月日記載なし / 冊子 457~458頁/原整理番号 103
穆佐下倉永村若宮八幡宮に奉納された剣の図と銘を示し、島津忠国の穆佐城・若宮八幡宮との関わりを考証する。伊東氏との対立、守護権や穆佐・日向の所領、義天の意見、忠国の家臣と社寺への給付などを旧記・伝承と照合して記す。
目録年月日記載なし / 冊子 459~460頁/原整理番号 105
「日向記」として、島津方と伊東方の関係、穆佐・日向の所領、忠国・立久の時代の守護権と家中の動向を述べる。寛正五年以降の交渉、長禄四年九月の伊東方との対立、古い書付・家伝による主張をたどり、寺社や石塔の証拠にも触れる。
目録年月日記載なし / 冊子 464~466頁/原整理番号 112
「深秘集」の一節として、久豊・忠国らの時代の穆佐悟性寺と墓所・石塔の由緒を検討する。墓碑の銘、社寺の建立と焼失、開山、寺領や祭祀の伝承を引用し、古い記録と現地の遺構を照らし合わせて、悟性寺の来歴を論じる。
目録年月日記載なし / 冊子 506頁/原整理番号 45
枠内に「天保十二丑 穆佐地頭仮屋諸帳書抜」と記す。後続の悟性寺関係書抜を導く標題で、独立した本文はない。
明和六年丑四月(日無記載) / 冊子 215~216頁/原整理番号 561/整理ID 561
他領で仕登物を積む船が難船した場合の心得。昨年の申渡しに従い穆佐・倉岡・綾からの役一人と高岡横目一人を派遣し、三か所の役に差し支えがあれば山之口から代替派遣する。難船の次第と御用物の損傷は品ごとに勝手方へまず概報し、詳細は追って報告する。急を要しなければ飛脚を特に立てず便宜による。正米は濡米と同じ入札払いを一律にせず、送状元と照合し損傷を見分して、積み出せる米は本船または借船で仕登する。借船が必要なら運賃・船中の締方を調べて指図を求める。遠方で指図が得にくい場合の本船上乗による積出し、大坂手形所への送状送付、正米・濡米・捨米の内訳報告も定める。本船は早く修理して出帆させ、修理済みでも損傷して仕登し難い正米が多い場合は、入札処分と借船運賃を比較し、運賃を十分吟味して海上の締方を堅固にする。正米だけでは積み足りない場合も濡米同様に入札とし、濡米は現地で広く入札を行い、落札どおりに処理し、代銀を高岡横目が最寄りの御蔵へ納める。入札を望む者には少量でも参加を認める。現地の世話人への船頭の相応の礼、船手からの謝礼は従来の取扱いを心得、費用・役々名・人数を文書で報告する。困窮した上乗船頭の拝借願、船頭・船乗方の大形の廉、他領での始末、船頭・水主の悪事や不宜な風聞は細かく聞き、大目付座や勝手方へ早く報告する。現地の作法も吟味し始末を整える。浮荷物の「部一渡方」等は元文三年の船奉行の申渡しに従うとし、高岡横目へ伝達し、交代時にも明確に申し渡すよう求める。
元禄4年12月7日(末尾日付) / 冊子 507頁/原整理番号 45-2
先の悟性寺由緒書に別儀がないことを承知し、奥書を付して穆佐の御嗳衆へ差し出す。元禄四年十二月七日付。
貞享4年3月15日(目録) / 冊子 454~455頁/原整理番号 101
寺社奉行所へ拝殿修理の件を三月に申し上げ、検分を経て修補を命じられたと記す。合力銀二百目に関し、修理を丈夫に仕上げるよう願い、現住薫良が貞享四年三月十五日付で穆佐の役人へ届け出る。末尾の次書は地頭伊集院宮内に関わる。
寛文10年4月12日 / 冊子 469頁/原整理番号 116-1
悟性寺の修補願の内容に相違がないことを確認し、修補を命じてほしいと伝える。横目二人と噯三人が寛文十年四月十二日に連署して伊集院宮内少へ差し出す。
目録年月日記載なし / 冊子 528頁/原整理番号 73
小田四郎右衛門による石塔掘出しの申出と、その根拠となる旧記・貼紙を記す。
寛文10年4月19日 / 冊子 469頁/原整理番号 117
悟性寺客殿の修補申出を受け、合力として銀五枚を渡すこと、茶堂・庫裡・門・薬師堂などの規模を保って修治することを申し渡す。寛文十年四月十九日付で寺社奉行所が伊集院宮内らに伝える。
安永六年十一月二十一日(記文)、同月二十八日(修礼記事)、発掘は安永三年正月、後記は翌年夏五月 / 冊子 541~542頁/原整理番号 1509/整理ID 1509
穆佐郷古塚記として、安永三年甲午正月、日向州穆佐郷の悟性寺で地を掘った者が、七尺まで入って古塚を得たと記す。壙の四周に石を重ね、石䃭(石偏に感の原字)で覆い、中に大甕を置いていた。開いて見ると枯髏があり、金鈴一・香爐一もあったが、誌銘が失われ人物を識別できなかった。土地の人は以前、義天公の塚が寺にあったと伝えたものの場所は失われ、父老が見に来てその塚ではないかと考え、状況を本府へ報告した。本府は太史川上親敷と副史東郷實包を現場へ遣わし、二人が壙内を観察したが、確かな徴証はなかったとする。寺僧に元の場所で納め埋め直すことを命じ、周文の故事に従い、石を立て親敷に記させた。親敷は旧記が寺と義天公を関連付け、龍伯公譜には穆佐の仏寺に義天二字の刻があったとすることから、その仏寺は悟性寺ではないかと考える。一方、旧地は草莽丘墟となり残碑も断片で、何を証拠とするのかとの留保を述べ、事情を石に書いて観る者に示すとする。寺名には悟性寺・吾性寺の両表記がある。記文は安永六年丁酉十一月二十一日、本府太史川上親敷謹撰。続く記事は同月二十八日に義天公の木主を修め、櫝に納めて旧所へ置いたと記し、修理・栽樹の注を付す。南林寺住持泰禪和尚が焼香し、番頭平田新左衛門成政が代拝した。同寺に石碑を建て太史川上平右衛門親敷にその事を書かせたこと、翌年夏五月から義天公の斎食に毎年廩禄三石を供したことを載せる。発掘、人物比定の伝承と留保、記文の日付、木主の修礼・焼香代拝、碑と毎年の給付を分ける。後の祭祀を、出土した枯髏が義天公の遺骨と確定した証拠にはしない。
応永30年8月30日(目録) / 冊子 409頁/原整理番号 7
応永三十年八月二十日付、沙弥存忠が清色殿へ差し出した「請文状意趣之事」を引用する。続いて渋谷家・加江田城などの旧記を挙げ、穆佐悟性寺の御石塔と義天の墓所について検討する。天保八年四月、伊地知小十郎が汾陽次郎右衛門へ宛てた考証書の結びまで続く。
正平16年2月9日(朱書:康安元年) / 冊子 417頁/原整理番号 7
藤原秀良が穆佐院今山光福寺の伽藍田二段を永代寄進し、阿法禅門と玄園禅尼の菩提を弔う。子孫がこの寄進を背くことを戒め、正平十六年二月九日付で花押を据える。朱書には康安元年とある。
正平25年8月25日 / 冊子 417頁/原整理番号 8
藤原直綱が、穆佐院小山田名内の天神田と畠などを光福寺の土地神へ永代寄進する。田畠の所在・反別を挙げ、正平二十五年八月二十五日付で花押を据える。本文と朱書には伊地知季安の自筆とする注記がある。
元禄4年12月5日(末尾日付) / 冊子 506~507頁/原整理番号 45-1
洗心山悟性寺の開基・檀越、島津久豊・忠国に関わる伝承、寺領や本尊薬師如来などを記し、穆佐の御嗳衆へ差し出す。元禄四年十二月五日付。