新納忠元書状
(元亀四年)九月廿五日 / 冊子 316頁
新納忠元が相手の使者高橋氏に十分な応対をできなかったことを詫び、肝付方から寄せられた懇切への謝意を述べる。自身の落馬事故を心配する問い合わせに対し、不思議に命は助かり、まだ本調子ではないが次第に快方へ向かっているので、必ず面会したいと伝える。
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(元亀四年)九月廿五日 / 冊子 316頁
新納忠元が相手の使者高橋氏に十分な応対をできなかったことを詫び、肝付方から寄せられた懇切への謝意を述べる。自身の落馬事故を心配する問い合わせに対し、不思議に命は助かり、まだ本調子ではないが次第に快方へ向かっているので、必ず面会したいと伝える。
年月日未詳 / 冊子 597頁
関ヶ原で西軍が敗れると、伊東氏は国元の混乱に乗じ、九月朔日の未明に高橋氏領の宮崎城を奪い、佐土原城も攻めた。さらに島津領境の穆佐・倉岡方面へ迫ったため、島津忠恒(家久)は自ら出陣しようとしたが、龍伯こと島津義久が強く制止し、惟新こと島津義弘もこれに同意して書状を与えた。
年月日未詳 / 冊子 598頁
関ヶ原合戦後、伊東氏が高橋氏領の宮崎城を奪った際、長倉三郎兵衛尉が北郷忠能の家臣・小杉丹後守へ書状を送り、島津家は徳川家康の恨みを受けているので北郷家が徳川方へ忠節を示すよう勧めた。忠能は応じず、その書状を鹿児島へ提出した。
(慶長五年)十一月十三日 / 冊子 613頁
島津義弘(惟新)が、相談のため現地へ赴いた忠恒をねぎらい、時節柄いっそうの才覚を求める。日向口を最大の懸念とし、ほきたの城を高橋氏が構えているとの情報が事実なら佐土原の番衆を厳重にして堅固に備えるよう指示し、龍伯にも事情を伝えること、用務後に立ち寄って面談することを望む。
(天正九年七月) / 冊子 692頁
島津氏老中が伊勢貞知へ、豊後への到着を長山讃岐介から聞いたと述べ、進物の孔雀が急死した事情を釈明する。老中は芦北方面へ在陣中で、相良方が前城三か所の明渡しを求める一方、水俣籠城中の蓑田・高橋らとの条件調整が続き、近日中の決着を見込むと報じた書状案。
年月日未詳 / 冊子 423~424頁
北郷時久(一雲)が、秋月・高橋・伊東の諸氏とは私的な盟約を結ばず、島津義久(龍伯)へ忠節を尽くすことを誓った記事。 同月、時久への書状と忠虎への誓状が発給された経緯も記し、豊臣政権下で北郷氏を島津方へ再統合する過程を伝える。
十月二日 / 冊子 587頁
徳川家康が伊東民部太輔へ、その無分別な対応を聞き届けたとし、病気に関しては九州の在所へ申し遣わすと伝える。相良・秋月・高橋と相談し、薩摩への働きかけを命じ、詳細は井伊兵部少輔直政から伝えるとする。
(慶長十五年)七月十九日 / 冊子 283~284頁
慶長十五年七月十九日、山口直友が島津家久に、南蛮人の取扱いをめぐる大御所の不興が後藤庄三郎の取り成しで解けたため礼状を送るよう勧めた。伊東・秋月・高橋・藤堂・板倉らの厚遇、翌春の禁中普請、伊勢・三河経由の駿河下向路など、上方の政治事情を詳報する。
天正十四年~元和二年(高橋元種主要記事)、慶長十二年~宝永年間(後続系譜) / 冊子 501~506頁/原整理番号 23
高橋氏の出自を漢高祖・後漢霊帝の後裔から大蔵春実へつなぐ伝承で説き、筑前諸郡を領した大蔵姓高橋家に秋月氏から種時を迎え、顕種・元種へ続く系譜と軍歴を記す。顕種は大友方の攻撃を受けた筑前宝満城を守り、後に和睦した。元種は幼少で秋月種実の養子となり、天正十四年の島津勢による筑前攻略では父とともに大友勢を破り、七月二十七日の岩屋城落城・高橋紹運討死後、宝満城などをめぐる軍事行動に関与した。慶長四年、島津忠恒が伊集院忠真を都城で攻めた際には徳川家康から救援準備を命じられ、翌関ヶ原では当初西軍に属したが、福原・垣見・熊谷・木村らの処置をめぐり秋月種長・相良頼房らと共謀し、垣見・熊谷・木村の首を家康へ献じて本領安堵を得たとする。しかし同年冬、秀忠の命で領地を没収され奥州棚倉へ移り、元和二年十月九日に三十七歳で没した。後継の種直は慶長十二年に日州臼杵郡縣城で生まれ、旧臣の助力を受けて日州縣・高岡などに住み、光久の恩許により高橋姓を復した。以後の種長・種次・種栄・種良らについて、婚姻、知行、江戸勤仕、地頭職、没年・法名を宝永期まで載せる。
年月日未詳 / 冊子 508~509頁/原整理番号 24-2
阿智王子から高貴王・春実・種弘へ続く祖系を掲げ、春実に対馬守・太宰大監の官職を注記した高橋氏系図。種弘以下を六つの系統に分け、種賢―種生―種直―種雄の系には長門守および『筑前秋月城へ遷居』、種宗―種春―種信―種恒の系には『大垣城に籠る』と記す。ほかに種幸―種家―種頼―種資、種貞―種高―種顕―種道、種忠―種氏―種照―種朝、種方―清種(或いは文種)―種実―種長の各系を列記する。末尾に本系図が家系書からの抄録である旨を付記する。
永禄二年四月、元亀元年、慶長五年ほか(系譜中記事) / 冊子 506~508頁/原整理番号 24
漢恵帝・呂后から少帝・劉建・孝建・孝倫へつなぐ渡来伝承を経て、大蔵姓の祖から原田・秋月・江上・高橋・田尻の各氏へ分岐する系図。原田太郎種臣を筑前三笠郡原田城、秋月二郎種信を弥須郡古所山城、江上三郎種光を筑後三潴郡江上城、多記四郎長種を筑後三原郡高橋城、田尻五郎種保を生葉の居住者として、名字と城・所領を対応づける。後半は高橋形部左衛門佐種基、種成・文種以下を経て、秋月豊前守文種の二男・元種、吉弘左近大夫鑑理の二男で大友義鑑女を母とする鎮種(紹運)へ続く。鎮種は高橋家断絶のため養子となって家名を継ぎ、筑前岩屋城で薩州勢と戦って義死したとする。元種は西征時に日向国縣城を与えられ、慶長五年の関ヶ原後に処分されたのち赦免された経緯を記し、子孫の官途・居城・婚姻・改姓も載せる。末尾は筑前国住士魯井道載方から高橋武右衛門種登へ送られた写本であると伝来経路を明記する。
年月日未詳 / 冊子 662~663頁
鎌田政年の報告を受けて島津家中が肥後支援を評議し、佐多久政を大将として川上忠智・上原尚近・宮原景晴らを熊本へ派遣した。城親政父子と家臣、周辺勢力の帰趨を探り、阿蘇方の甲斐宗運、矢崎・青田・合志・大津山勢と対立する中、秋月・高橋・草野・星野勢の内応も得て、新納忠元・伊集院久治・鎌田政年らが矢崎城攻撃を決めた経緯を記す。