山口直友書状
(慶長十七年)閏十月二日 / 冊子 383頁
慶長十七年閏十月二日、山口直友が鎌田左京亮へ、本多正純の指示により硫黄二百斤ほどを進上するよう求め、上様が鷹野のため関東へ下向したことも伝えた書状。
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(慶長十七年)閏十月二日 / 冊子 383頁
慶長十七年閏十月二日、山口直友が鎌田左京亮へ、本多正純の指示により硫黄二百斤ほどを進上するよう求め、上様が鷹野のため関東へ下向したことも伝えた書状。
二月廿九日 / 冊子 412頁
二月二十九日、島津忠嘉が鎌田左京亮へ、高麗入・大脇の二所をめぐる安楽五郎左衛門と鎌田玄蕃助の所領争いについて、両者を召して熟談・調停するよう求めた書状。
十一月十六日 / 冊子 96頁
島津龍伯が吉野で鷹狩りをして加治木へ赴く予定だったが、当日は雨天のため出発できたかを尋ね、島津惟新から番所まで状況を問い合わせるよう命じられたため飛札を送った書状。
年月日未詳 / 冊子 57頁
肥後の花之山で鎌田左京亮らとともに戦死した木脇祐昌が、敵も味方も同じく現世の夢を見終えるという趣旨を詠んだ辞世。 激戦の最期を背景に、討つ者と討たれる者を等しく無常の中に置く武将の死生観が表れた、印象的な一首である。
慶長十九年八月七日~十月朔日 / 冊子 543~544頁
慶長十九年八月七日から十月朔日までの御日記抄。島津義弘(惟新)からの伝言をはじめ、島津家久(奥州様)の川内通過と長崎出立、村尾源左衛門尉入道・新納次郎四郎らの長崎出立および出立人数の編成、奥州様への茶の進上、鎌田左京亮による使節と焼葉壺三つの進上、小城権現座主職への善乗院任命、本田伊豆守の鹿児島への使い、新納次郎九郎の見舞いなどを記す。
卯月五日 / 冊子 385頁
島津龍伯が出船の予定を問い合わせ、東山宛ての書状を持参するよう依頼し、鎌田左京亮にも別件の用務を命じたことを伝える。さらに徳川家康の上着に関する先の風聞は虚説で、真龍の報告では三月十五日時点で未着だったと訂正した書状。
慶長九年四月五日 / 冊子 27頁
出船予定を問い、東山宛ての書状を鎌田左京亮へ託すよう依頼し、公方の上着という先報が虚説だったことを、上方から下った者の情報に基づいて訂正した書状。
正月十一日 / 冊子 358~359頁
琉球へ下す使者について、川上式部太輔ら五人のうち誰を任命するのがよいか義弘の意見を求め、現地では鎌田左京亮が義弘の意向に従うよう申し付けると伝えた島津家久書状。
(元和元年) / 冊子 571~572頁
幕府の法度に反する者がいるとの情報を受け、関係者を召し出して詳しく調査するよう求める。違反の程度と人数を確認し、重い者には相応の処置を行うよう指示した家久書状。
(慶長十九年)十月十三日 / 冊子 553頁
長年奥方で奉公する江田藤右衛門の老齢と辛労をねぎらい、大窪備前守を交代要員として上らせたので、到着後は帰国してよいと伝える。大坂情勢も熟談して報告するよう求める義弘書状。
十月十三日 / 冊子 124~125頁
大風後の屋敷普請の進捗を問い、駿河と大坂の不和との風聞を受け、陸奥守は東国奉公に専念すべき立場なので、江戸・駿河へ早く使者を送り、国元の雑説に惑わされず書面どおり判断するよう命じた書状。
12月15日 / 冊子 478~479頁/原整理番号 474
九州へ赴く松平伊豆守・戸田左門らのため、家中の船を大坂へ差し出すよう命じられた件を記す。奉行衆から七艘の着岸船数が書き出されたこと、上使衆召船への同心衆乗船と松隠州の船について、仁礼主計助へ照会・依頼する覚書。
年月日未詳 / 冊子 97~98頁
肥州八代の花山城を阿蘇方が攻めた際、鎌田左京亮政虎ら島津方が少人数で籠城した戦闘を長谷場越前が記す。敵は城を包囲して火を放ち、守兵は騎馬・弓・鉄砲で応戦し、城外へ打って出て挟撃した。武器を失っても敵を追う兵、負傷者、首級、討死の状況まで描かれ、花山合戦の激しさと個々の兵の動きが具体的に分かる。
年月日未詳 / 冊子 98頁
木脇刑部左衛門尉祐昌と鎌田左京亮政虎が肥後国花之山で戦死し、祐昌が辞世を残したことを記す島津義久譜の記事。 No.47の辞世本文と対応し、二人の戦死を島津家の公式的な譜記事から確認できる点に史料的価値がある。