町田久則譜
年月日未詳 / 冊子 392頁
町田久則譜は、島津忠恒の庄内出陣に供奉し、山田城が落ちた際、町田久則が鉄砲傷を負って退こうとしたところ、城兵一人が勇戦を挑んできたと記す。久則は負傷を顧みず戦ってその首を討ち取り、後に相手が勇名のある黒木越前であったと知ったとする。
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年月日未詳 / 冊子 392頁
町田久則譜は、島津忠恒の庄内出陣に供奉し、山田城が落ちた際、町田久則が鉄砲傷を負って退こうとしたところ、城兵一人が勇戦を挑んできたと記す。久則は負傷を顧みず戦ってその首を討ち取り、後に相手が勇名のある黒木越前であったと知ったとする。
七月廿三日 / 冊子 556頁
有馬純房が宿許へ、伏見城に徳川家康の内衆が籠城し、諸軍勢が昼夜攻めていること、島津義弘(惟新)以下が軍労していることを報じる。自身は大坂に召し置かれていたが人数の一部を伏見へ寄せ、城際まで進んで鉄砲傷の者を出したものの自分は無事であり、奉公に励む覚悟を述べる。あわせて千代丸兄弟の手習いなど家中のことを頼む書状。
(寛永十五年)三月八日 / 冊子 789~790頁
黄門の死去に弔意を示し、薩摩守後見について伊勢兵部少輔の尽力を求めたうえで、有馬一揆が二月二十七・二十八日に鎮圧されたこと、自身も戦闘で鉄砲傷を負い療養中であることを詳しく報じた書状。
年月日未詳 / 冊子 559~560頁
神戸久五郎が、八月朔日の伏見落城時、松丸口で父松岡勝兵衛が五代舎人と先頭に立ち、矢狭間を開いて槍で戦ったことを記す。勝兵衛は草摺を鉄砲で撃ち抜かれて瀕死の深手を負い、財部傳内は門内で敵と組み討死した。勝兵衛は島津義弘(惟新)の毎日の見舞いと薬により助かり、大柿への供を望んだが歩けず、のち大坂で米六十石を与えられたという。
年月日未詳 / 冊子 250~251頁/原整理番号 333-38
細川立允の相備の組頭・三淵内匠が、鍋島勢による出丸攻略を知って本陣から出撃し、重傷を負いながら本丸下まで進んだ経過を記す記事。竹束と混雑で城戸が開かないため竹束を越え、家来に左右へ押し開かせ、当初十二人ほどで飛び出した。佐渡守備・式部手に加わる過程で家来に討死・負傷が相次ぎ、内匠自身も右手を鉄砲で撃ち抜かれ、さらに左肩を撃たれて深手となった。それでも、黒田甲斐守家中の武者が証人になるとして退却を勧めたのに対し、城を後ろにして退く覚悟はなく証人も望まないと答えた。のち旗本からの下知を受け、組中が内匠を本陣へ担ぎ戻したという。
年月日未詳 / 冊子 251頁/原整理番号 333-39
三淵内匠が、二月二十七日に二之丸大手口左側の塀から乗り込み、敵へ向かったところ左肩を鉄砲で撃たれて手が利かなくなったため、頼母佐・清田石見へ事情を断って退いたと申し出たもの。