太田重恒書状
応永卅二年十月十七日 / 冊子 335頁
太田重恒が、永穏の証文は義天の代に理運と認められ下知されたため、当代でも判書を執進する旨を澤殿へ伝えた書状。
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応永卅二年十月十七日 / 冊子 335頁
太田重恒が、永穏の証文は義天の代に理運と認められ下知されたため、当代でも判書を執進する旨を澤殿へ伝えた書状。
応永卅二年十月十七日 / 冊子 335頁
本文でNo.1051と同文のため省略された太田重恒書状。永穏の証文と当代の判書に関する内容を別文書として保持する。
応永卅四年六月一日 / 冊子 339頁
本田重恒が安貞に関わる長田所在の田四段を榜巖寺へ寄進した文書として、重恒譜の摘録を掲げる。
応永卅四年六月一日 / 冊子 339頁
本田重恒が實翁貞公庵主の位牌田として、長田所在の水田四段を榜巖寺へ寄進し、違乱を禁じた文書。
応永卅四年八月十日 / 冊子 340頁
本田重恒が薩摩国鹿児島郡西田村内宮地園三か所を永代にわたり賢忠寺へ寄進し、諸公事の停止と子孫の違乱禁止を定めた文書。
応永卅四年八月十日 / 冊子 340頁
本田重恒が薩摩国鹿児島郡花棚の水田一町ほかを永代に賢忠寺へ寄進し、万雑公事・諸役の停止を命じた文書。
応永卅五年十月三日 / 冊子 343頁
本田重恒が亡父安了禪定門の後生菩提のため、大隅国曾小河村内岩崎の水田七段を榜巖寺へ寄進し、子孫の違乱を禁じた文書。
年月日未詳 / 冊子 354頁
永享四年二月三日、島津忠国が本田重恒へ本田の名字を与え、領地で諸事が起きた際の地頭検断を代々免許する証状を授けたことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 404頁
本田重恒が嘉吉二年三月十七日、島津持久から溝辺六町・同城と向島内の有村を与えられたことを記す。取得の事情は不明とする。
年月日未詳 / 冊子 423頁
『本田重恒譜』に、文安五年十二月二十九日、税所氏らと清水で戦い、本田重恒が石原口で国親に討たれたことと、その法名を義翁忠公とすることを記す。
年月日未詳 / 冊子 392頁
大覚寺義昭(尊有)の陰謀発覚と日向国福島への逃亡、島津忠国の命を受けた新納忠続・肝付兼忠・本田重恒・樺山孝久・北郷持久らが嘉吉元年三月十三日に永福寺で義昭を討ち、北郷持久が忠賞として足利義教から宝刀を賜ったことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 400頁
大覚寺事件の功労者に与えられた太刀を列挙した目録。新納忠續に長光、北郷持久に国行、肝付兼忠に同銘、本田重恒に正恒、樺山孝久に国宗を与えたと記す。
年月日未詳 / 冊子 411~412頁
文安年間以降の島津氏をめぐる軍事・政治動向を記す。本田重恒が税所氏の援助を得て姫木方面で島津忠国と争った戦闘、忠国方の反撃と敵将の敗走、伊集院照久らの動向、島津家の家督継承、応仁の乱と細川勝元・山名宗全、足利義尚の将軍就任などを年代順に叙述する記事。
年月日未詳 / 冊子 448~449頁
本田国親が屋形重恒を不義として退けようとした事情と、元親・親光・重恒をめぐる本田家の家督・所領継承、被官の直参化、国親の鹿児島居住と奉公の経緯を記す系譜記事。
永享四年二月三日 / 冊子 354頁
島津貴久が本田殿に本田の名字を認め、領地内で諸事が起きた際の地頭検断を代々免除し、今後相違があってはならないと定めた書下。
年月日未詳 / 冊子 403~404頁
嘉吉二年以降の島津氏をめぐる動向を記し、島津持久による本田氏・山田忠尚への所領宛行、足利義勝が入来院・吉田へ持久らの討伐と島津忠国への助力を命じたこと、その後の軍事行動や持久・久照・和田正存らの盟約関係を述べる国史記事。
年月日未詳 / 冊子 595頁
藤原鎌足を祖とし、政則・則隆・経高へ系統をつなぎ、「此間十代略」「十八代略」と世代の省略を挟んで、武房・時高以下の米良氏歴代を図式化する。 後段には重吉・重恒・重純・重棟・重武らの諱・通称・官途や年月日の注記が添えられる。No.929-1で書写と他見禁止が述べられた系図本体であり、米良氏が藤原氏の後裔を称した家系認識と、同族内での系譜継承を示す。
文安3年、天文23年、弘治3年4月19日、永禄2年6月16日、永禄9年10月26日、天正6年11月12日、文禄元年7月18日、慶長5年9月15日、慶長13年9月29日 / 冊子 13~17頁/原整理番号 4
本田氏十代家督・重恒(又二郎、信濃守、法名義翁)を祖とする系図。兄元親から家督を譲られ、島津忠国に仕えて家老となったが、国親の讒訴で家督を奪われ、文安三年の上洛中に清水城を攻略され、のち曽於郡で国親に殺された経緯を記す。後裔について、隅州菱刈院・穂北・伊集院・湯之尾等の地頭職、親貞の養子相続と関ヶ原後の新納旅庵との周旋、高城・蒲生・滝ヶ水・牛根・三之山・関ヶ原での戦死、朝鮮出兵・川辺地頭、婚姻・養子による諸家への分岐を収める。
年月日未詳 / 冊子 388~390頁
嘉吉元年前後の大覚寺義昭(尊有)事件と嘉吉の変を諸史料から記す国史記事。義昭が大和・河内・九州の兵を募り、北郷氏や樺山孝久らへ義挙への参加を求めた経緯、日向国樺間院での追捕・自害と関係者への恩賞、さらに赤松満祐による足利義教殺害後の幕府追討と島津氏一族の軍功賞与を詳述する。
元久2年、延文5年8月22日、応安6年3月3日、永和2年、天文17年10月9日、元和4年、寛永元年3月17日 / 冊子 3~8頁/原整理番号 2
本田氏正統の系図。桓武天皇七代の上総介忠恒につながる祖系から恒親・恒文を経て、親恒・貞親以下の本田氏歴代と諸分流を系線で示す。親恒・貞親の源頼朝・島津忠久への奉仕と大隅国守護、親保(静観)・氏親・親治・忠親・重恒・国親・兼親以下の家督・養子・婚姻を記し、執事・家老・地頭職、宇治川・二俣川・蓑原での戦死、姫木・清水両城、天文十七年の清水城没落、日当山・牛根・曽於郡・敷根等の知行、元和・寛永期までの没年を注記する。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)頃の記事 / 冊子 421~422頁/原整理番号 9
家嫡太郎左衛門尉重豊の二男・伊地知河内守を祖とし、越前守・刑部少輔以下へ分かれる系図。重位は朝鮮で戦死し、石原助兵衛の長子を実子として系統へ迎えたこと、重清は朝鮮役で功を立て蒲生で戦死したこと、重徳は日新公に仕えて蒲生で戦死したことを記す。重増は比志島河内守の二男を実子とし天正十四年に豊後で戦死、重鑑は朝鮮役で功を立て庄内役では兵具奉行を務めて戦死するなど、石原・比志島両家との養子関係と、豊後・朝鮮・蒲生・庄内での軍歴を各支流に付記する。
年月日未詳 / 冊子 30頁/原整理番号 241
財部の米良周右衛門家に伝わった系図。隆直以下の系譜を掲げ、元寇の戦功と鷹羽紋の由来、後裔の動向や関ヶ原での戦死などを注記する。文政五年三月九日に写し受けた旨がある。