島津惟新書状
二月十三日 / 冊子 111頁
長く任地に詰める辛労をねぎらい、奉公なので退屈せず勤め続けるよう命じ、交替要員について鹿児島へ申し入れ、瑞仙を再び上らせる予定なので、それまで油断なく奉公するよう求めた書状。
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二月十三日 / 冊子 111頁
長く任地に詰める辛労をねぎらい、奉公なので退屈せず勤め続けるよう命じ、交替要員について鹿児島へ申し入れ、瑞仙を再び上らせる予定なので、それまで油断なく奉公するよう求めた書状。
(慶長十七年)七月廿五日 / 冊子 367頁
慶長十七年七月二十五日、島津義弘が正因へ、道甫からの書状、蘇香円・香雪散・懸袋の贈与に謝し、亭徳院関係の用件を申し入れた書状。
(慶長十七年)七月廿五日 / 冊子 368頁
慶長十七年七月二十五日、島津義弘が寺沢志摩守へ、道甫を通じて有楽へ四方盆を進上したこと、茶村・茶道具の内々の取合いと秘蔵を依頼した書状。
二月廿三日 / 冊子 89頁
紅梅の緞子一端に謝し、少将の上洛時に加賀へ下っていて馳走できなかったことを残念がり、無事帰国後に茶屋・松岡・川崎・道甫ら優れた数寄者を見出した手柄を喜び、再下向して茶会を開くことを望んだ書状。
八月廿八日 / 冊子 113頁
道甫を通じて織田有楽から名物として聞く水指を贈られたことを老後の思い出として喜び、古びた自分の茶の湯で二服差し上げたいと述べた書状案。
九月三日 / 冊子 123~124頁
道甫の下向時に奈良漬二桶を贈られた礼を述べ、織田有楽から名物の水指を拝領して秘蔵しているとして、受領の礼状を持参し懇ろに謝意を伝えるよう頼んだ書状。
二月廿八日 / 冊子 269頁
茶詰めのため自分の茶壺を道甫に持たせるので、上洛が延びるなら家久の壺も同便で送ってはどうかと勧め、義久との相談結果を追って知らせるとした島津義弘書状。
(慶長九年)六月十九日 / 冊子 936頁
島津惟新義弘が島津忠恒へ、忠恒の上着と礼儀が無事に済むことを願う一方、龍伯の病状が重く、数日食事も取れないと報じる。医師三官による養生と祈念を続けているとして、拝謁後は早く帰国するよう促した。
(慶長十七年)七月廿五日 / 冊子 367~368頁
慶長十七年七月二十五日、島津義弘が片桐主膳正へ、薩摩守に関する用件と、書状・諸白樽二荷の贈与、前年高麗以来の懇意に謝した書状。
島津義久代、朝鮮出兵期、島津家久への代替り時、原山御狩時 / 冊子 257頁/原整理番号 101
正本家蔵の上原氏覚書。本名字を伊作田入道甫済と伝え、市来の伊作田名と同所の小原城に由来する名乗りだが、系図がないため何代目から上原を称したかは不明とする。源右衛門の名は三代が相伝し、二代目は国分にいた島津義久へ特に奉公し、平田狩野、のち三原七左衛門・川上彦左衛門・川越三右衛門と兵具方を務めた。朝鮮出兵には義久の側に留め置かれたため出陣加増を得なかったが、家久への代替りに際して墨色の『雨之御旗』を運ぶ使者となり、加増五十石を受け、名寄も残るという。妻は吉田作州の娘で、一人娘が鹿嶋駿河守の妻となったため、弟源六左衛門―源兵衛の子・喜左衛門を兄方の養子とし、現源右衛門の父とした。原山の御狩では、本文に伏字を含む出来事で義久に働きを賞され、鉄砲・銀を拝領し、のち兼光作の長刀も受けたが、喜左衛門の江戸上洛中に二品とも家内から盗み出され、行方不明になったと記す。さらに大隅国曽於郡地頭となり、国中の城下ろしの際に城門道具を与えられた記事へ続くが、末尾は『自是切テ無し』として欠落する。