伊地知季安記事
年月日未詳 / 冊子 471頁/原整理番号 462
山田民部少輔有栄の従者六人が差副として各地頭所衆とともに獅子島警固へ向かった経過を記す。谷四郎左衛門尉重将・平田狩野介宗弘らの名を挙げ、島津勢の国境警備と、松平甚三郎の指示による平田の肥後三角派遣を述べる編者記事である。
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年月日未詳 / 冊子 471頁/原整理番号 462
山田民部少輔有栄の従者六人が差副として各地頭所衆とともに獅子島警固へ向かった経過を記す。谷四郎左衛門尉重将・平田狩野介宗弘らの名を挙げ、島津勢の国境警備と、松平甚三郎の指示による平田の肥後三角派遣を述べる編者記事である。
〔延宝五年〕九月二十五日 / 冊子 219~220頁/原整理番号 1
勝目宗将の書付と猿渡越中守流の系図。猿渡掃部兵衛が羽月地頭時代に高麗へ渡海し、十一月十八日に四十四歳で戦病死したこと、法名、弟による跡目相続、四百石の知行、加治木・帖佐への移動、子女・養子関係を記す。延宝五年九月二十五日、勝目助左衛門宗将から山元孝右衛門へ提出した系譜書付。
〔天和二年〕六月三日 / 冊子 224~225頁/原整理番号 6
猿渡信安が先祖の地頭歴を記録所へ届け出た書付。猿渡越中守が加世田・羽月地頭となり、天正年中に知行を羽月へ移して城内に居住したこと、猿渡掃部兵衛が羽月地頭となったことを記す。さらに猿渡興三の栗野地頭、猿渡喜右衛門尉の川内山田地頭就任を挙げ、不明な年代は追って調査するとする。
元禄十四年七月二十五日 / 冊子 246~247頁/原整理番号 22
猿渡信安が、宇都宮次郎左衛門が羽月へ移された由緒について鮫島仲兵衛の照会に答えた覚書。六代前の猿渡越中が加世田地頭から羽月地頭へ移った経緯と、天正十五年の肥後国合志城主一行に対する島津方の処置、猿渡越中・白坂式部らの役割を述べ、家伝の範囲で回答する。
天正八年八月ほか / 冊子 267頁/原整理番号 24の16
『大友御退治御日帳』三日条から、羽月の猿渡掃部兵衛尉が使僧を通じて祝儀を申し上げ、新納武蔵守も同様に申し入れた記事を抄出する。あわせて天正八年八月の肥後国水俣陣の軍記勢揃に羽月地頭猿渡掃部兵衛が見え、この時期まで越中が掃部兵衛を名乗ったことを考証する。
明応二年、弘治二年、永禄元年三月十九日、永禄五年五月、天正十七年五月二十五日、慶長五年九月十五日、明暦四年三月二十四日 / 冊子 481~482頁/原整理番号 19
平田重宗から分かれたと伝える狩野之助家の系譜・軍歴・知行記録。筑前守宗勝は日州福島で戦死し、日置美濃守久遂の二男・出羽守宗仍は末吉地頭として居住した後、貴久に召し出され先代同様に家老職を務め、永禄元年三月十九日の肝付勢との宮ヶ原合戦で子の虎五郎と家人六名とともに戦死した。弘治二年生まれの平次郎狩野之助は七歳で北郷家へ付され、のち鹿児島へ戻って日州本城地頭・近村五十余町を与えられ、肥後・豊後、豊臣秀吉の九州攻め、庄内の戦いで奉公したが、慶長五年九月十五日に関ヶ原で四十五歳で戦死した。二男源太は飫肥方面の戦いで福島内市木にて戦死し、宗弘は宗應の跡を継いで羽月・日州野尻の地頭を務めたことまで記す。
年月日不記(各代の生没年・任官年を系図内に記す) / 冊子 627~628頁/原整理番号 112
種子島氏支族・美座対馬守時里の二男から出た国上氏の系図で、時里・時宣・時通以下の系線と婚姻・養子関係を記す。時盛は伊勢長門守貞清の二男で嗣子として養育されたとあり、島津義久の奥向きへの奉仕、小浜村千石の采地拝領、見隆寺建立を記す。後代の時貞は馬術と鉄砲の師範を務めたとされ、時春には高原・羽月の地頭職の記事がある。和田十助正弘の養子になった者や家督を継いだ者、諸家との婚姻も挙げ、国上氏の分流と奉公・知行の継承をたどる。
〔元禄二年〕正月十四日 / 冊子 225~227頁/原整理番号 7の2
猿渡信安が嫡子監物の初御目見願いに添えた家筋由緒覚。曽祖父猿渡越中の加世田・羽月地頭就任と日向伊東氏・高城での大友氏との合戦、肥前知々輪での軍役、猿渡掃部兵衛の羽月地頭就任と高麗陣での奉公・戦死などを記す。歴代の相続・養子・知行・感状の伝来を述べ、監物へ至る家筋を説明する。