勝部兵右衛門聞書
天正九年八月上旬 / 冊子 697~698頁
天正九年八月、相良義照の度重なる敵対を理由に島津義久が芦北出兵を決め、義虎を先陣として水俣城へ迫った経緯を記す。城下で出水衆が反撃を受け、島津出羽守・切通左馬允を失うが、義久が三州の大軍を率いて着陣し、相良方の主要将士が籠城した。
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天正九年八月上旬 / 冊子 697~698頁
天正九年八月、相良義照の度重なる敵対を理由に島津義久が芦北出兵を決め、義虎を先陣として水俣城へ迫った経緯を記す。城下で出水衆が反撃を受け、島津出羽守・切通左馬允を失うが、義久が三州の大軍を率いて着陣し、相良方の主要将士が籠城した。
天正九年十二月二日以後 / 冊子 704~706頁
相良義照が島津への忠節を示すため阿蘇方へ出兵し、岩下町を破って勝利したのち、響野原で油断したところを甲斐宗運に急襲されて討死した経緯を記す。相良領が騒然となり、新納忠元が八代へ入って鎮めた後、大膳亮の上球磨侵入や八代老衆の要請を受け、翌年島津勢が八代を領有して相良遺児を球磨へ移し、花山に新城を築いて守備を置いたと続ける。
天正九年八月十八日~九月二十日 / 冊子 698~699頁
五万三千余騎とする島津軍が八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾などに布陣し、水俣城を昼夜包囲した長文記事。矢文連歌の応酬とその故事を記し、相良義照が水俣・津奈木・湯浦・佐敷・市之瀬を差し出して和議を求めると義久が許し、嫡子に島津家の通字を与えて四郎太郎忠房と名乗らせたとする。
年月日未詳 / 冊子 420~422頁/原整理番号 166
天正九年八月、義久は相良の北原・菱刈への妨害を理由に軍勢を動かした。十八日に五万三千余騎で水俣を囲み、義久・忠平・義弘らが各所に陣を置き、鉄砲や見張りで城を攻めたと記す。城中との発句・返歌三首も載せ、忠元が相良の反発を警告したという。相良義照は劣勢を見て和談を願い、諸城・八代の五ヶ所を引き渡した。義照の嫡子を義久が加冠し忠房と名付けた経緯まで述べる。
年月日未詳 / 冊子 422頁/原整理番号 167
水俣城を囲んで昼夜攻め、城内の人々を籠中の鳥・網中の魚にたとえる。城の攻防と島津の大軍を見た義照が、籠城衆を救うため和談した。水俣・津奈木・湯浦・佐敷・一野の五ヶ所を譲り、従前の罪を許してほしいと願って和議となった。義照は嫡子佐敷を差し出し、義久が加冠して忠房と名付けた。忠は家久の一字を望んだもので、のち宮内少輔となったと記す。
年月日未詳 / 冊子 424~425頁/原整理番号 170
義照が島津への奉公を称しながら、その意図は分からないとして経過を記す。十二月三日、東左京亮ら五千程の軍で堅志田付近を攻めたが、宗運方の連合と戦い、宗運が響か原で機を見て攻撃すると味方が混乱した。義照は戦って討死し、左京亮も討たれたとする。退却後、義照の弟相良頼みが八代谷山に籠もり、武蔵がその扱いについて語ったことまで記す。
年月日未詳 / 冊子 422~424頁/原整理番号 168
天正九年八月十七日、水俣へ向かう先勢に少人数の使いを出し、翌日に陣を見せる手配を記す。水俣攻めでは出羽守らが戦い、負傷者を陣中へ迎えた。二十日には義久が大軍を率いて各所を固めた。九月十日、湯浦・津奈木などの引渡しを受け、比志島を派遣した。相良は岩下町の家を壊して御船・隈庄への備えに用い、御舟の味方勢と協力したという。八代・求广の守備と、花か山などの城・若木脇の番にも及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 705~706頁
相良義照の弟大膳亮が上球磨へ侵入して郡中を乱したため、島津忠平がこれを召し戻した記事。八代老衆の要請を受け、義久は八代を島津領とし、相良忠房兄弟を球磨へ移した。忠平が八代領有を辞退した後、平田光宗、次いで伊集院忠棟を地頭とし、花山に新城を築いて木脇刑部左衛門尉を城衆頭に任じた。
十二月廿七日(目録、本文に独立年月署なし) / 冊子 446頁/原整理番号 1225の12/整理ID 1225-12
朱で御届書一通と記し、打揚腰網代乗物、虎革鞍覆、茶弁当を従前から使用している旨を記す。御用番へ相談したところ、御付札をもってこれまでどおりとする旨を仰せ渡されたので、今後も使用する件について届ける。宛は大御目付正木志摩守殿。本文には独立の日付・差出署がなく、目録は十二月廿七日の渋谷貫富届書として掲げるので、その根拠を分けて示す。御用番への伺、御付札の仰渡、大御目付への届の順を保持し、次の覚書の名義照会・受領注とは別の文書として扱う。
年月日未詳 / 冊子 413~414頁/原整理番号 155
豊後勢の敗軍後の評判と、肥前・筑後・肥後の動静を述べる。義久は肥後の協力者を増やすため道観らから情報を得て、阿蘇家との交渉や諸将の招集を進めた。出水から兵船を出して高橋の津へ入り、隈本で城親政と会談した。親政は義照と改名したという。忠元は大口の住番のため日向出張を許されず、天正八年五月十三日、菱刈・牛屎両院の三千余騎で朴之河内を攻め、岩年礼に城を構えて相良に備えた。