平田純正譜
年月日未詳 / 冊子 102頁
平田盛右衛門純正の出生・母方を記し、若年から島津家久に昼夜勤仕した功により、寛永六年八月十五日に新恩地を拝領し、後年さらに五十石の加増を受けたことを記す譜記事。
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年月日未詳 / 冊子 102頁
平田盛右衛門純正の出生・母方を記し、若年から島津家久に昼夜勤仕した功により、寛永六年八月十五日に新恩地を拝領し、後年さらに五十石の加増を受けたことを記す譜記事。
寛文二年九月十八日 / 冊子 94~95頁/原整理番号 51-2
川上久園が平田純正へ、西俣七兵衛の身元や処罰の時期、幸侃の妻子が東福寺へ移った経緯、家臣らの行動について記憶するところを答える。細部に不確かな点があると断り、寛文二年九月十八日に書く。
年月日未詳 / 冊子 81頁
大野久武・高崎能乗・平田純正の三名が島津家久の使節として、比志島宮内少輔の処分など数条の命令を携えて江戸から帰着したことを記す。政務停止や宝福寺への移動を命じ、国分民部左衛門尉が正月八日付書簡を持参して領内処置を伝えた。
(寛永六年)八月十五日 / 冊子 102頁
島津久元と喜入忠政が、平田盛右衛門尉純正は地下役などで格別に奉公したため新地を宛行うので、異議なく支配させるよう御支配奉行衆へ命じた連署曳付。
(寛永十四年)二月廿九日 / 冊子 640頁
「光久公御譜中」の記事。前年冬に父・島津家久が病臥した際、光久は江戸にいて見舞えなかった。寛永十四年二月、家久は平田盛右衛門純正を介し、島津家伝来の愛染明王像・摩利支天像・鷹之巣の御刀・鳥利作の太刀・光忠作の腰刀を光久へ譲った。愛染明王像は弘法大師作で「谷渡愛染」と呼ばれ、源頼朝が所持したのち信濃深草山の光忍を経て家久へ伝来したと記す。本文は宛所・署名のない譜記事であり、索引の「文書・島津光久書状」と形式が相違する。
年月日未詳 / 冊子 557頁
吉利氏元祖秀久の二男久起の娘が白坂七右衛門と離別後に壱岐幸則へ再嫁し、その娘の子が幸則家を継いだ経緯など、婚姻と家督継承を記した吉利氏系図抄。
十月三日 / 冊子 25頁/原整理番号 6-24
虎狩の様子について奥後藤兵衛の申分と川上因幡の書物が食い違うか、絵図ができたら因幡方へ持参して照合するよう指示する。併せて高岡の系図は佐多から帰った際に受け取り、有屋国の系図を竹下吉右衛門に見せるよう命じる。
寛文二年十月十七日(純正没・辞世)、慶長十二年~元禄十年(後続系譜記事) / 冊子 494~496頁/原整理番号 21-7
寛文二年十月十七日に八十歳で没した平田盛右衛門尉藤原純正の辞世と、純直・純音以下の後続系譜。純正は『今年今月今日今時今刻』と死の時を明記して歌を残し、法名を天心又玄庵主とする。孫の純直は外祖父壱岐加賀守幸則の養子となり、正保二年冬、遠流途中で谷山正泉寺に宿泊した島津大和守久章の警護を新納仁右衛門と担当した。久章が逃亡を企て、多数を斬って血刀を提げ堂前へ出た際、純直は急走して組み伏せ、左右の額・腕など三か所に深手を負いながら鎮圧した。承応三年に平田姓へ復し、万治元年から綱久に仕えた。清右衛門純音は吟味役・高隈地頭・光久納戸奉行・勘定奉行を歴任し、光久没後には遺物の紋付衣裳を賜り、平山元仲とともに遺骨を高野山蓮金院から墓所へ担いだ。鶴丸紋を連環形に略した純音の家紋、後裔の出生・婚姻・幼死・役職も元禄年間まで記す。
元禄十三年十一月六日 / 冊子 246頁/整理ID 836
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美の三名が嶋主計と与力衆へ、諸国絵図改訂に伴う日向国の用務を貴殿に命じられたと江戸から知らされ承知した、と答えた連署状。当方の絵図を正保年間に公儀へ提出したとおりに調え、追って使者により申し上げる予定と伝える。
元禄十五年十月朔日 / 冊子 384頁/整理ID 1292
宇宿久明と神宮司純正が島津主計および与力衆へ、調進した国絵図が江戸で滞りなく納められたと聞き、祝意を述べた連署書状。領内絵図について万事丁寧な指図を受けて首尾よく完成したことに謝し、今後も用向きを命じるよう求める。
元禄十三年秋(序)、元亀二年六月二十三日~寛永十三年十二月八日(系譜中記事) / 冊子 490~491頁/原整理番号 21-1
元禄十三年秋、藤原純音が藤原姓平田氏の由来と純貞以下の履歴を記した序・系図。家は古く薩摩国牛屎院と大隅国太良院の境に住み、平良氏から平田氏へ改姓した藤原姓の家であって、平姓平田氏とは別系統だと口碑に基づいて論じるが、旧記が失われたため純貞以前の祖名は不明とする。純貞は島津貴久に仕え、貴久が元亀二年六月二十三日に没すると、その冥福のため六十六州を巡礼し、翌元亀三年の帰国後に殉死を望んで三月二十三日に南林の海へ歩み入り溺死した。遺体が数日後に南林の砂浜へ上がり、その地に葬られたこと、墓碑・法名を伝える。後半は九郎右衛門純昌、休右衛門純次、朝鮮国巨済で病死した女子、幼少から家久に奉仕し寛永六年に新恩地五十石を拝領した純正らの出生・婚姻・没年・法名を系譜化する。
万治二年九月十一日 / 冊子 22~23頁/原整理番号 6-13
平田純正は、義弘以後の軍記や日帳がなく御記録草案を編めないため、年号不明のものも多い御文書を見合い次第記録してよいか伺った。併せて遊休中の筆者の活用と、清書後に正本が散逸する場合に備え草案を箱・長持に納め施錠保存する案を示す。各項には押札の回答が付される。
本文年月日未詳 / 冊子 93頁/原整理番号 51
平田純正が川上商山に、伊集院幸侃の妻子や家臣の動向をめぐる旧聞を伝え、関係者の証言・書付を照合する。続けて西俣七兵衛の古い覚書を掲げ、幸侃成敗後の家中の動きについて問いを出す。
年月日未詳 / 冊子 26頁/原整理番号 6-30
本文は同帳の6-32号文書とほぼ同文として省略される。参照先では、御記録草案の料紙、朱罫か墨罫か、現行草案の閲覧について平田清右衛門が伺っている。
九月十三日 / 冊子 26~27頁/原整理番号 6-32
平田清右衛門は、御記録草案を書き改める料紙の種類、罫線を朱で引くか墨で引くか、現行の草案を閲覧に供するかを伺った。押札は国漉きの厚中紙と朱罫を採用し、草案を島津図書へ見せたうえで返答すると指示する。
万治三年正月三日 / 冊子 28頁/原整理番号 6-42
万治三年正月三日夜の火事に際し、徳永半左衛門、御記録方細工人の慶覚坊、市後崎長右衛門、宮越新兵衛らが御記録所を見回った。平田清右衛門は、後日のために彼らの労をねぎらうべきか伺う。
元禄十二年六月二十四日 / 冊子 130頁/整理ID 459
町田久置・浅山高重・神宮司純正が島津圖書へ、相手の健勝を喜び、島津左京の御用のため伊集院三右衛門・酒匂源左衛門を派遣したと連署して知らせた書状。
元禄十三年十二月二十九日 / 冊子 255–256頁/整理ID 863
伊集院久美・町田久置・神宮寺純正が島津久輝ら六名へ、寒中の無事を祝い、絵図の件で誠方次郎左衛門を通じて受けた申入れと島津主計からの詳細を承知したと返した連署書状。内容を左京へ伝え、こちらの絵図が完成次第知らせると述べ、詳しくは次郎左衛門から伝達するとする。
元禄十三年十二月二十九日 / 冊子 256頁/整理ID 864
伊集院久美・町田久置・神宮寺純正が島津主計忠雄へ、家老衆から絵図の件で誠方次郎左衛門が派遣され、絵図二枚と口上の内容を承知したと返した連署書状。内容を左京へ伝え、絵図を指示どおり調製して完成次第知らせると述べ、詳しくは次郎左衛門から伝達するとする。
元禄十四年一月十日 / 冊子 259–260頁/整理ID 872
伊集院久美・町田久置・神宮寺純正が島津久輝ら六名へ、佐土原絵図の件で前年末に誠方次郎左衛門を派遣されたことに謝意を述べた連署書状。今度は富田六郎左衛門を差し越し、詳細は島津主計へ申し上げたと伝える。
元禄十四年一月十日 / 冊子 261頁/整理ID 876
伊集院久美・町田久置・神宮寺純正が島津主計忠雄と御与力衆へ、自領絵図のため前年末に誠方次郎左衛門が届けた手本絵図と書付に謝意を述べた連署書状。米良主膳方と照会・相談し、富田六郎左衛門に絵図を持参させたので、適切に指示してほしいと依頼する。
元禄十四年一月二十九日 / 冊子 265頁/整理ID 888
伊集院久美・町田久置・神宮寺純正が島津主計忠雄と御与力衆へ、富田六郎左衛門に持参させた肥後・日向国境絵図の下書への指示を受け、念のため米良主膳方へ双方立会いの境界見分を申し入れたと報告した連署書状。相良遠江守方からの返答待ちとなったため、春成五左衛門と上山郷右衛門の派遣を延期し、米良方の返事が届き次第出発させると伝える。
元禄十四年二月五日 / 冊子 267頁/整理ID 892
島津淡路守家臣の伊集院久美・町田久置・神宮寺純正が、国絵図調進の命令を受け、肥後国に接する島津淡路守領の境を調査した結果、地面に相違がないことを確認して境絵図を調製・提出した連署届書。
元禄十四年二月九日 / 冊子 270頁/整理ID 897
伊集院久美・町田久置・神宮寺純正が島津助之丞へ、先に相談した国絵図の用務について、春成五左衛門と上山郷右衛門を派遣して申し上げるので、万事指導してほしいと依頼した連署書状。
元禄十四年二月九日 / 冊子 270頁/整理ID 898
伊集院久美・町田久置・神宮寺純正が島津主計と御与力衆へ、先に相談した国絵図の用務について、春成五左衛門と上山郷右衛門を派遣するので、万事指導してほしいと依頼した連署書状。詳細は両人から申し上げるため、その旨を承知するよう求める。No.897と同日・同趣旨だが宛所が異なる。
元禄十四年二月二十三日 / 冊子 274頁/整理ID 912
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美が嶋主計(忠雄傍注)と与力衆へ、国絵図のため当地から派遣した者たちが万事懇切な指示を受けたと聞き、厚意に謝した連署書状。追書で一種を進献すると記すが、その内容は示さない。
元禄十四年三月九日 / 冊子 283頁/整理ID 946
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美が嶋助之允・喜安房・種子蔵人・肝主殿の四名へ、国絵図の件で嶋津主計から段々の指導を受け、相手方の地で首尾よく納めたとして、使者が帰還したことを伝える。この経過を淡路守方へも知らせ、厚意に謝す。
元禄十四年五月十七日 / 冊子 301–302頁/整理ID 994
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美が嶋津助之丞ら四名へ、伊東大和守・秋月長門守の領境絵図について相手家来と当方役人の証印が済んだとの通知を承知したと返答する。当方領境も先例に従い、主計が取り寄せた絵図で地面・字名などを照合して証印すれば送る旨を了承し、証印付き絵図は相手方で調製する由なので、できたら知らせてほしいと依頼する。本条当方分をすでに双方立会いで加印完了した証状とはしない。
元禄十四年六月朔日 / 冊子 303–304頁/整理ID 1000
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美・宇宿久明が嶋助之允ら四名へ、領境絵図証印について先に詳しく示されたことを承知したと答える。淡路守方から春成興五左衛門・上山郷右衛門を派遣するので、万事適切に指導してほしいと依頼する。
元禄十四年六月朔日 / 冊子 304頁/整理ID 1001
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美・宇宿久明が嶋津主計と与力衆へ、領境絵図証印について先に相手方家老から詳しく指示があったことに応じ、春成興五左衛門・上山郷右衛門を派遣するので万事適切に指導してほしいと依頼する。
元禄十四年七月六日 / 冊子 318–319頁/整理ID 1041
神宮寺純正・町田久置・伊集院久美・宇宿久明が嶋主計(忠雄傍注)と与力衆へ、嶋津式部少輔(久寿傍注)・同氏主税(久武傍注)が分知後に判物や知行書出などを受けたかとの照会に答える。自分たちは承知せず、念のため主税役人の和田吉左衛門を呼んで尋ねると、式部少輔・主税方でその種の文書を受けたことはなく、近頃のことは知らないとの回答だったと報告する。
元禄十五年十一月二十八日 / 冊子 396頁/整理ID 1337
宇宿久明・伊集院久美・神宮寺純正が連署して島津大蔵ら四名へ、領分絵図の控を当地で渡すとの通知を了承し、十二月十四日か十五日頃に受取人を派遣すると答えた書状。絵図役人から受取人へ引き渡すよう求める。
元禄十五年十二月十二日 / 冊子 399–400頁/整理ID 1347
宇宿久明・伊集院久美・神宮寺純正が島津主計と与力衆へ、家老から淡路守領内絵図控を渡すと命じられたため、受取人の春成与五左衛門を派遣したと通知した書状。受取手続を指導するよう依頼する。
元禄十五年十二月十二日 / 冊子 400頁/整理ID 1348
宇宿久明・伊集院久美・神宮寺純正が肝付主殿とその家中へ、家老から淡路守領内絵図控を渡すと命じられたため、受取人の春成与五左衛門を派遣したと通知した書状。受取手続を指導するよう依頼する。
元禄十五年十二月二十二日 / 冊子 405–406頁/整理ID 1370
宇宿久明・神宮寺純正・伊集院久美が島津久年へ、淡路守領内の絵図・郷帳などを引き渡すよう命じられ、春成与五左衛門へ諸事を指図して首尾よく完了したと報告した連署請書。相手の配慮への謝意も述べる。
元禄十六年三月九日 / 冊子 420頁/整理ID 1423
伊集院久美・町田久賢・神宮寺純正が島津久年と与力衆へ、懇切な指南により国絵図等が完成して滞りなく納められ、二人の使者が帰着したため、その旨を淡路守にも伝えたと報告し、謝意を述べた連署書状。
序本文に明治二十一年四月の編纂命令、明治四年廃藩・丁丑の乱の回顧(末尾独立年月なし) / 冊子 409~410頁/原整理番号 1129/整理ID 1129
齊宣公御譜初巻中の序文。得仏公島津忠久が文治中に三州の封を受けて以来、二十六世・六百余年を伝えた家の史乗を述べる。寛陽公光久の時に平田清右衛門純正を文書奉行にして家譜を集めたことを記す。得仏公から慈眼公家久初世まで十八世の正統系譜百十四冊、公中世以後の正統系譜続編七十九冊、支流系譜五十二家九十六冊が編纂され、史官の記録が積み重ねられたとする。寛陽公から大信公重豪まで七世五百八冊が正統系譜続編となり、大慈公齊宣・金剛定公齊興二世の記事実録・文書の編纂も進められたが、明治四年の廃藩によって史官の職と編纂業務が廃されたと述べる。後の丁丑の乱では鹿城が戦場となり、島津家の累世の譜牒・文書のうち岩崎文庫所蔵品は保護運搬によって兵燹を免れたが、築地邸所蔵品は十分に運べず、焼失したことを記す。残存数は原記「正統家譜正續編十七處七百零一冊」、支流系譜九十六冊とし、岩崎文庫に存すると述べる。明治二十一年四月、島津家譜を続輯する命を受け、宗高は旧藩太史職に就いていた者として力を尽くして二世の編纂を成したと記す。築地邸の旧編纂史料が焼失したため、全く新しく集め直す必要があり、先公譜に引用される事実文書を読み、文庫・史館記録・家老座右筆所の簿籍を採り、中山王と藩内諸家の文書も求めた。県庁収蔵史館記録も兵燹で失われ、旧中山王や諸家の文書も廃藩時の混乱・その後の災難で散逸し、残存史料が少ないとする。岩崎文庫が火災を免れても多くの譜に欠けがあるため、編纂が十分でない遺憾を述べる。先公旧譜の紀事体にならって公自身の文書を用い、後の先史の凡例に関する論説を宗高が独断で改めることはせず、時に愚按を加えて記事の不足を補うという編集方針で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 29頁/原整理番号 43
伊地知季安が、鹿児島から島原の陣所へ、世子は日州筋から下り、鹿児島に一夜逗留した後、紫尾山を越えて獅子島へ渡り、情勢次第で有馬へ渡海するとの注進があったと記す。陸上の軍勢は世子を待って出陣に従い、普請奉行の伊地知重政・長谷場純正らは急行して陣屋などを整え、賦方の村田経乗・福崎新兵衛らも来る予定だと、島津久元・山田有栄が上津浦へ問い知らせたという記事。
元禄十三年十二月十五日 / 冊子 252頁/整理ID 852
島津久輝・島津久當・喜入久亮・種子島久時・肝付久兼が伊集院久美・町田久置・神宮寺純正へ、日向国絵図を薩摩側で調製する命令に従い、指図を受けるため江戸から差し越された二使者の用件を承知したと返した連署書状。詳しい内容は島津主税から二使者へ申し含めたため省略するとする。
元禄十四年一月十五日 / 冊子 260–261頁/整理ID 875
島津久當・島津忠守・種子島久時・肝付久兼が伊集院久美・町田久置・神宮寺純正へ、前年末に絵図使者を送った際の返答を承知したと伝えた連署書状。富田六郎左衛門を派遣し、詳細を島津主計へ伝えたとの連絡も了承したとする。
元禄十四年一月十五日 / 冊子 262頁/整理ID 881
島津主計忠雄が伊集院久美・町田久置・神宮寺純正へ、肥後国米良主膳領との境を照合して調製した境絵図を富田六郎左衛門に持参させた件について、絵図面は妥当だと認めた書状。ただし江戸から新たな連絡があったため絵図に張紙を付けて返し、その内容を調べて急ぎ報告するよう命じ、詳細は富田に申し含めたとする。
元禄十四年六月十八日 / 冊子 311–312頁/整理ID 1021
宇宿久明ら四名が島津主計と与力衆へ、領境の絵図への証印に際し、春成興五左衛門・上山郷右衛門が受けた絵図の調製・引渡しと丁寧な応対を淡路守へ報告したと礼を述べる。あわせて式部少輔の由緒と、その死去時に淡路守が養父の服忌を受けるべきか阿部豊後守・林大学頭へ伺い、指図どおりにした経緯は、淡路守から別紙で詳報すると伝える。
十月朔日 / 冊子 24頁/原整理番号 6-19
御記録の表紙百冊分と真筆二十対分を国元から取り寄せたいとの求めを受け、鎌田政直が本の表紙を見本として送ると伝えた。京都からの筆は質が悪いため江戸から取り寄せ、江戸評定所の筆者衆へ依頼するよう指示する、十月朔日付の書状。
元禄十五年十二月十五日 / 冊子 402–403頁/整理ID 1358
島津久明・川上久重・新納久珍・島津忠守が宇宿久明ら三名へ、春成与五左衛門の来訪を受け、絵図役人に淡路守領分絵図控などを引き渡させたと回答した書状。詳細は春成から伝えるとする。
記事中安永二年三月十四日完成、明和六年十一月十五日起草 / 冊子 360~361頁/原整理番号 1010/整理ID 1010
寛陽公の時に平田清右衛門純正を文書奉行とし、得佛公から慈眼公までの事跡を集めて「島津氏世録系図」を編纂したことを述べる。その後も史官が相続して編纂したが、譜牒はあって史伝がなかったので、明和六年己丑十一月十五日に太史郡山次郎左衛門遜志へ史伝を作るよう命じた。遜志は譜牒を根拠に新しく構成して起草し、記事のいう今茲三月十四日に完成、歴年凡五年と記す。得佛公から圓徳公までを記し、さらに延享二年以後から宝暦十年までの事を収め、二十七巻を十一冊にまとめて「島津世家」と名付けた。書写・装潢を済ませ、重豪が自ら詳しく閲覧し、一部を座右に置き、一部を文庫に収蔵して永く伝えることとした。旧系図の編纂と史伝の新編、対象年代、完成時期、巻冊数、閲覧・保存を分けて記録する。
寛永十二年十二月十五日、寛永十七年、正保二年冬、慶安二年春、明暦元年六月十五日 / 冊子 492~493頁/原整理番号 21-3
寛永十二年十二月十五日、三原左衛門佐重庸・鎌田出雲守政統・島津弾正大弼久慶が平田盛右衛門尉へ五十石を加増し、山田民部少輔有栄・新納加賀守忠清に支配させるよう命じた連署状。後半は平田純正による島津家家譜編纂の由来を記す。家久が病床で起き上がれなくなった際、純正は命により江戸へ赴き、宝刀吉・腹巻・鉄砲三挺など累代の重器を光久へ届けた。寛永十七年、諸侯・旧家へ自家系譜献上が命じられると、純正は国老島津図書久通と協力し、正保二年冬に光久から島津宗譜の校訂を命じられ、旧記・文書を自ら草稿化して慶安二年春に宗家・支流の草稿をほぼ完成させ、白銀百葉を賜った。明暦元年六月十五日の自宅火災では家財や宝刀・武具を失いながら、宗家・支流の伝記約三百冊と三万余の士庶の家譜草稿を守り抜き、四十余年の編纂労苦に対して光久から百石を賞賜されたとする。
年月日未詳 / 冊子 82~94頁/原整理番号 19
藤原鎌足・冬嗣から長良・良房・基経らを経て長谷場氏へ至る祖系と、薩摩・大隅・日向に展開した諸流を記す長大な系図。鹿児島郡司・弁済使・取納使、東福寺城・市来城・飫肥・櫛間・有馬等の所領・城地、建武期の足利尊氏による安堵、島津元久への東福寺城・長谷場屋敷の引渡しと清水移居、福昌寺創建、市来移住などを叙述する。近世部分では渋谷・伊東・大友・菱刈・豊後・庄内などの諸合戦、岩屋城・高城・小林城・大口・泗川等での軍功・討死、家督・養子・婚姻・法名・地頭職を列記する。実純の朝鮮出陣・泗川戦、琉球への武具奉行派遣、大坂陣、万治二年の琉球押奉行、松山・真幸・吉田地頭歴までを収め、末尾は純堯の女子四人と婚姻先を記して終わる。
慶長四年四月(日欠) / 冊子 93~94頁/原整理番号 51-1
西俣七兵衛が、伊集院幸侃の妻子を東福寺に見舞ったこと、家臣や使者の往来、大坂での刀の受け渡しなどを箇条書きにし、偽りがない証跡として慶長四年四月に差し出した覚書の写し。
年月日未詳 / 冊子 520~523頁/原整理番号 7-5
忠久を高倉王の子とする系図の説について、二十四項目の疑問を列挙する。丹後内侍と高倉王の関係、法師房の呼称、三宮と北陸宮の区別、母方の系譜などに明文があるかを問い、推察を根拠とする箇所を指摘する。仁安三年出生・六十歳没と、八歳入国・十九歳没の記録を比較し、年齢や生没年の整合を検討する。三郎から忠久への改名、頼朝が王子をかくまう必要、三位家下文、甘縄居住、後陣供奉や幕府内の待遇が皇統説を裏付けるかを問い直す。
元禄十四年二月二十六日 / 冊子 275頁/整理ID 916
島津忠守・種子島久時・肝付久兼が伊集院三右衛門・町田彌次右衛門・神宮寺外記へ、国絵図御用で春成興五左衛門・上山郷右衛門を派遣するとの書状を読み、その趣旨を了承した連署書状。委細は嶋津主計から両人に申し合わせてあるので詳答を省くとする。