石橋和義軍勢催促状
建武三年三月十五日 / 冊子 652~653頁
新田義貞党類追討のため、島津忠兼に一族を率いて近日中に京都へ発向し、合戦の忠を尽くすよう命じた石橋和義軍勢催促状。
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建武三年三月十五日 / 冊子 652~653頁
新田義貞党類追討のため、島津忠兼に一族を率いて近日中に京都へ発向し、合戦の忠を尽くすよう命じた石橋和義軍勢催促状。
延文元年十二月四日 / 冊子 888頁
石橋和義が島津上総半官に、島津修理亮氏久代頼兼の山城国木幡庄内大田以下田畠の件を、文和二年五月十二日付御施行に基づき沙汰付けするよう命じた施行状。島津氏に関する当事者の行為、対象となる所領・権利、実施条件とその後の取扱いまで記す。
文化7年正月9日伺・15日報告。外包同年3月12日収納 / 冊子 347~348頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1075
白木御文書七番箱48番。薩摩国鹿児嶋城の橋1か所は長8間・横3間3尺の板橋で、度々朽損するため修復の際に石橋にしたいと絵図を添えて伺う。正月9日、松平豊後守(斉興注)署。張紙は勝手次第に致すべき旨を示し、御書附1通には国元の御城の橋が朽損し修復時に石橋としたい件を御用番土井大炊頭用人河村理兵衛から申し渡すと記す。次頁へ続く桑山仲太夫の正月15日・典膳宛報告では、今日中1人が出頭するようとの用人の切紙により籠出し、付札付き書付を受け今晩勤めたと述べる。追書は表方使による御請と思っていたが、今晩は夜陰なので明朝御請するよう言われ、出会いの用人と相談したと記す。外包は御楼門橋石橋掛替御伺書1通・相添図1枚・留守居首尾書1通、文化7午3月12日安房から本田休七へ渡し七番箱収納。掛替許可と工事完成を同一としない。
文化7年庚午正月。法事同月19~21日 / 冊子 349頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1080
文化7年庚午正月、従来鹿児島城楼門前の橋は板で架けていたが、度々壊れるため石に替えたいと幕府に申し出て允許を得たと記す。次の丸印以下は別件で、同月、貫明公(島津義久注)の200年忌法事を妙谷寺で3日間、19~21日に修したと述べる。細字の法事説明は、先に寛政5年に祖宗の祭祀法を議定し、五十年忌以後の遠忌は桃蘭のように寺費へ付すもの、功徳により官庫から特に寺へ付すものを分け、通常1日としつつ功徳により2・3日を特議すると記す。貫明公は桃蘭であっても国家に大功徳があるため3日にしたとの説明を保持する。掛替許可を工事完成とせず、橋と法事の二件を分ける。
正徳二年八月廿三日 / 冊子 32~33頁/整理ID 74
八月二十三日の演能について、加茂・八島・羽衣・石橋の演目とシテ・ワキなどの担当者を列挙した番組。
明和六年(十二月二十四日・二十六日)、追記は明和九年春 / 冊子 234~235頁/原整理番号 628/整理ID 628
この年、恕翁公元久・大中公貴久・一唯公久保・心應慶安大姉・曹源院殿の廟室を重修し、石塔を移したことを記す。十二月二十四日、組頭島津直衛久中を福昌寺と恵燈院へ遣わし、それぞれ代拝させた。続く記事は、享保乙卯の年に福昌寺が「池魚の災」に遭い、その後も寺宇が整わず殿屋を仮設していたため、この年、旧制に従って再建したとする。家老島津久金が総監、大目付島津久起が副監を務め、寺社奉行町田久連・島津久前、側用人二階堂行端、用人川上久福・川田国起、普請奉行伊集院兼明・村田経芳・面高俊常らが関与した。経芳が東武へ役務に出たため俊常が代わったとの注がある。春正月に着工し冬十二月に完成、同月二十六日に入仏供養を行った。先規により使番頭川上久馬久致を通じて福昌寺へ青蚨五百匹を贈って慶賀した。完成後、扁額を作り、重豪が「玉龍山」の三字を親書して山門に掲げた。門外の石橋一か所は龍門橋と呼ばれたが廃され、明和九年壬辰春には泉を引いて池とし、石橋を架けた。長さ二丈六尺余、幅一丈六尺余で、壮麗さは旧制を超えたとする。池中に蓮数百根を植えて蓮池と名づけ、小堂二宇に観音と弁財天女を安置し、さらに橋を架けて通じさせた。観音は俗に水観音といい、もとは龍門橋の傍らにあったとの注を伴う。
独立年月日記載なし(目録は安永二年の記事群) / 冊子 384頁後の無頁番号折込(題記384頁)頁/原整理番号 1083/整理ID 1083
「造士館・演武館絵図折込み」とする題記に続く施設配置図。垣で区切った敷地の中に、聖堂と門・杏壇、講堂や御座の間などの諸室、文庫二棟、供所などを描く。文教施設に隣接して剣術稽古所二棟、鎗術稽古所、射手屋と射場、犬追物稽古場、周囲の馬乗場、馬見所・御膳所・目附詰所などを配する。中門・小門、石橋を伴う門、外周の通りや城山方向も記し、建物ごとの柱・部屋、庭・通路・垣のつながりを示す。神農堂については建物とは別に「神農堂地」の表示がある。文教・祭祀と武芸の施設を一つの敷地配置として把握できる図で、創建記事の「左図」に対応する。
年月日未詳 / 冊子 95頁
名護屋で行う普請について、長さ二百七間の石橋、崩所の地均し、谷の埋立て、三百八間分の小屋敷と家屋規模など、工事箇所・寸法・数量を列挙した注文。
建久3年 / 冊子 175~176頁/原整理番号 55
鮫島宗家流の系図。工藤四郎家光の子・宗家(鮫島四郎)が駿河国鮫島郷を領し、源頼朝に属して石橋山合戦で功を挙げ、建久三年に薩州阿多地頭職を与えられたことを起点とする。宗家・長家と女子・山門郡司秀忠の婚姻関係を図示し、その系譜説には宗家と秀忠が同時代人であることから誤りであろうとの考証注を付す。二代家高は刑部允・入道行願、三代家景(景家とも)は弥二郎で、妻を山門郡司忠秀の女とする。兼家の九代孫宗喬は日新公に仕え、彦次郎・入道蓮道は貞久公に仕えて加世田・知覧・指宿を領した。蓮性は師久公に仕え、民部忠宗は伊作家のため阿多へ落ち久豊公に仕えたと記す。後半は宗吉―宗満、宗遊―宗秀(実は弟)、宗秋―宗昌の系線を掲げ、宗秋を日新公に仕えた備後守・泊地頭、宗昌を『人物志』所載とする。
年月日未詳 / 冊子 39頁
島津忠久の出生伝承と源頼朝の挙兵をつなぐ記事。忠久は治承三年に丹後局から頼朝へ引き渡されたとし、頼朝の伊豆での挙兵、石橋山・鎌倉入りを経て、治承五年には清盛没後の情勢へ至る経過を年次順に記す。
天明五年三月六日 / 冊子 801頁/原整理番号 2195の12/整理ID 2195-12
三月六日の能組。翁・三番叟、難波(宝生太夫)、田村(幾衛)、巻衣(金剛太夫、五段神楽)、石橋(彌五郎)、祝言高砂(左織)を列記する。続く狂言は八幡前を八右衛門、内沙汰を仁右衛門、悪坊を伊兵衛と記す。各曲の配役・囃子方の名を併記する。