某覚書
年月日未詳 / 冊子 848~849頁
某覚書が、本田紀伊守親廣の退隠後に起きた清水新城の争乱を記す。伊集院大和守忠朗方と旧本田勢の対立の中で、梶原藤七兵衛・田尻荒兵衛尉らが出陣・交戦した経過を追い、戦後に関係者が処罰されて城内秩序が再編された事情を述べる。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
12 件 (全巻)/ 1–12件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 848~849頁
某覚書が、本田紀伊守親廣の退隠後に起きた清水新城の争乱を記す。伊集院大和守忠朗方と旧本田勢の対立の中で、梶原藤七兵衛・田尻荒兵衛尉らが出陣・交戦した経過を追い、戦後に関係者が処罰されて城内秩序が再編された事情を述べる。
永禄九年十月十五日~廿六日 / 冊子 155~156頁
飯野防衛のため小林三之山城を攻めた経過を、各軍の進路と将兵の働きに即して記す。義弘勢が二之丸、歳久勢が二重城戸へ迫り、田尻荒兵衛らが奮戦したが、義弘が負傷して兵が動揺したため、義久の命で順次退却し、追撃兵を伏兵で討って飯野へ引き上げた。
(文禄元年)6月21日 / 冊子 572~573頁
麻植長通が、梅北国兼・田尻荒兵衛の逆意と佐敷での鎮圧を報じ、妻子の成敗のため龍伯と細川幽斎が薩摩へ向かうことを伊勢雅楽入道へ知らせる。 一揆が朝鮮渡海軍の遅参を招いたことを嘆き、義久・義弘・久保ら島津父子の高麗渡海を急ぐよう求めており、梅北一揆と出兵動員の直結を示す書状である。
天正20年7月吉日 / 冊子 579~580頁
島津忠長・伊集院忠棟(幸侃)・町田久倍の三名が、田尻荒兵衛尉の旧跡を残らず一王雅楽助へ宛て行うことを認めた連署宛行状。 梅北一揆関係者である田尻氏の所領処分と、その跡地を新たな家臣へ再配分した具体例として重要である。
年月日未詳 / 冊子 580頁
島津義弘・久保らが朝鮮へ渡る一方、名護屋留守中に梅北国兼・田尻荒兵衛らが平戸・佐敷方面で一揆を起こし、秀吉の命による厳しい捜索と鎮圧が行われた経過を町田久倍の譜に記す。 義久が細川幽斎を伴って帰国し、国中の秩序回復と家中統制に当たったことまで述べ、梅北一揆を政権・島津家双方の対応から捉える記事である。
年月日未詳 / 冊子 580~581頁
梅北国兼・田尻荒兵衛が薩摩・肥後境で反乱を企てたため、島津義久(龍伯)が細川幽斎を伴って鹿児島へ帰り、文禄元年七月六日以降、国中の法度・神社仏領・村々の負担を改めた経過を記す。 一揆後の処分だけでなく、田畑・年貢や家臣統制、住民の反応、再発防止の軍事警戒まで述べており、島津領国再建の実務を当事者の自記から読める。
(文禄元年)7月29日 / 冊子 599頁
島津義久(竜伯)が、秀吉の九州下向時に忠節を尽くした王雅楽へ知行を与える約束が、空き地不足のため延引していた事情を伝える。 約束の筋目に従い、田尻荒兵衛の旧知行を残らず王雅楽へ与えるよう手配したので、その旨を本人へ知らせるよう細川幽斎らに依頼した書状である。
年月日未詳 / 冊子 633~634頁
新納友義以下の加世田・市来系譜。忠澄が伊作久逸に従い、幼い島津忠良の後見として田布施へ移ったこと、康久が田尻荒兵衛の案内で加世田城攻略に功を立て地頭職を得たこと、市来で渋谷氏勢力と戦ったこと、久韓以下の家系を詳述する。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 153~154頁
永禄九年十月二十六日の小林三の山攻めに参加した将兵を、戦闘配置や戦功とともに列挙した交名。城口から二之丸までの攻撃に加わった市来・加世田など各地の武士を掲げ、阿多中務丞、末弘又左衛門尉、本田治部少輔らには戦死の注記を付す。
天正八年五月十三日~十一月 / 冊子 656~657頁
天正八年の肥後進出に際し、事前偵察、宝川内城攻め、熊本番手、矢崎城攻め、合志方面出陣に参加して軍功を挙げた者を日付・戦場別に列挙する交名。鎌田政年ら足軽三百余の派遣、新納忠秀らの偵察、忠元・忠尭らの攻略、佐多久政・伊集院久治らの合志戦を記す。
年月日未詳 / 冊子 413~414頁/原整理番号 155
豊後勢の敗軍後の評判と、肥前・筑後・肥後の動静を述べる。義久は肥後の協力者を増やすため道観らから情報を得て、阿蘇家との交渉や諸将の招集を進めた。出水から兵船を出して高橋の津へ入り、隈本で城親政と会談した。親政は義照と改名したという。忠元は大口の住番のため日向出張を許されず、天正八年五月十三日、菱刈・牛屎両院の三千余騎で朴之河内を攻め、岩年礼に城を構えて相良に備えた。
天正七年 / 冊子 634~635頁
耳川敗戦後、大友方の威勢が衰えて筑前・筑後・肥後の諸勢力が離反し、熊本の城親政も島津方への帰属を望んだ。義久は遠国支援を評議し、鎌田政年の進言で島津義虎を介して天草五人衆を味方につけ、政年・田尻荒兵衛尉ら足軽二百余人を熊本へ派遣して城親政・伯耆鑑高と連携した。