新納為舟知行目録
慶長十四年三月廿一日 / 冊子 211頁
慶長十四年三月二十一日、広徳寺門前の屋敷を反別・畦歩・石高ごとに列記し、合計屋敷四反六畦二十歩、高四石五斗一升余を大中様御寺の儀として新納為舟へ支配させた知行目録。
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慶長十四年三月廿一日 / 冊子 211頁
慶長十四年三月二十一日、広徳寺門前の屋敷を反別・畦歩・石高ごとに列記し、合計屋敷四反六畦二十歩、高四石五斗一升余を大中様御寺の儀として新納為舟へ支配させた知行目録。
(慶長十三年)八月十日 / 冊子 182頁
慶長十三年八月十日、島津家久が新納為舟から贈られた見事な月毛馬を秘蔵すると喜び、長年の武功・忠勤を称えて老齢の養生を勧め、返礼として帷子三領と酒二樽を贈った書状。
五月六日 / 冊子 23~24頁
新納為舟忠元が旅庵老へ、船の出発がようやく進む一方、飯米が不足するおそれがあるため、当面の米・物資を借り受け、後続の船が着くまで取り成すよう頼んだ。別船は六月末ごろの上着が見込まれるとして判断を仰ぎ、国元の事情、武庫(島津義弘)・龍伯(島津義久)への礼、在洛中の作州・休心老らへの応対について伝える。さらに四月二十一日に乗船し、五月二日に大坂へ到着した経過と、旅庵らの尽力への謝意を述べ、今後も吉報を伝えるとした書状。
(慶長三年)三月七日 / 冊子 198~199頁
新納為舟忠元が貴島弥兵衛尉へ、長い在洛の労をねぎらい、前年冬に忠元が薩摩へ在国していたため無音になったことを詫びた書状。黒木廣顔済に関わる件について、留守中でも伊東平右衛門尉と相談し、次郎兵衛尉・弥太右衛門尉の内談がまとまり次第、武庫へ内々に申し上げて納得を得たいと伝える。追而書では、病気の次郎兵衛尉を隈本勝右衛門尉が親身に世話したと聞いたため、十分に礼を述べるよう依頼する。
(慶長三年)三月廿二日 / 冊子 200~201頁
新納為舟忠元が上井神五郎へ、上洛したと聞いて書き送った書状。吉田の内にある冨森九介・嶋田弥五右衛門尉の各三百石余の役口について、そのうち一口の取成しと知行方の配当を頼み、国境へ移るには少数でも役立つ人衆を伴わなければ困難だと訴える。また返地として上申した蔵野の内約五百五十石について、岡松が未検地なので検地後に帳面を提出するとし、岡松から京都・高麗へ夫丸を立てる件の差止めと、孫の二郎兵衛尉を上洛させる際の支援も依頼する。
(慶長四年)九月十一日 / 冊子 434~435頁
新納為舟忠元が秋月長州に、二日間の戦況を報告する。都城から一里ほど手前まで兵を進めると敵が出て激しい鉄砲戦となり、その後、野々美谷・高城・志和池の兵が合流した。敵の三重の備えを破って二、三十人を討ち取り、味方は六、七人が戦死したと述べ、秋月の参陣時期に相談したいとする。
九月晦日 / 冊子 910頁
新納為舟が石原小作へ、久しく会えないまま相手が今回名誉ある役目に臨み、御供も務めると聞いたことを祝う。主君の機嫌を損なわぬよう手柄を立てることを期待し、詳細を使者に託した。
十月朔日 / 冊子 915-916頁
新納為舟が石原小作へ、近日の来訪を聞き、竹内右馬を通じて事情を承知したと伝える。当地方は不如意で十分な準備が難しいため、供回りの手配に際して取り合わせと調達を頼み、詳細は竹内右馬から聞くよう求めた。
十月廿四日 / 冊子 916頁
新納為舟が江州様の留守居へ、主人が今朝帰着したため、迎えに出られなかった件について沙汰があったと知らせる。伊兵部少輔から早々に参上する必要があると伝えられたとして、労を承知で来訪を待つと述べた。
慶長十二年四月朔日 / 冊子 110頁
慶長十二年四月一日、新納為舟(忠元)が湯田新右衛門尉に宛てた加増坪付。山野村内の中田一段六歩ほか、石高一石四斗二升八合、および由畠三段二畝十八歩・分米三石一斗五升六合などの田畠を記す。途中は「外数行略」として省略され、濱田将兵衛・大蔵の名も見える。
慶長十二年十二月廿六日 / 冊子 137頁
慶長十二年十二月二十六日、新納為舟が大田三川入道へ、夏の馬追で息子藤吉が奥州様の目に留まったことを述べ、亡兄小平次の跡を藤吉に相続させる方針を伝えた書状。
慶長十三年四月五日 / 冊子 165頁
慶長十三年四月五日、新納武蔵入道為舟が柳瀬村湯之谷などの田地、合計一反二畝・高一石一斗二升を縄分の知行返地として赤池六左衛門尉に宛行った坪付。
慶長十三年八月八日 / 冊子 181頁
慶長十三年八月八日、新納武蔵入道為舟が薩州大口・羽月・山野三か所の十七筆、合計田畠屋敷九反八畝十歩・分米十石六斗三升余の知行坪を柳田吉兵衛へ宛行った坪付。
(慶長十四年)六月十六日 / 冊子 222~223頁
六月十六日、新納為舟が吉加江狩野介入道に、琉球へ兵船を渡して全島を服属させ、国王以下数百人を連行したことを知らせたうえ、早々に下向するよう求め、古田織部から茶湯の作法を少しでも学んでくるよう依頼した書状。
四月廿四日 / 冊子 224頁
四月二十四日、新納為舟が山田助左衛門に、犬童休矣の書状が夜前に届いたこと、奥州様の船衆からの注進は格別の事情ではないことを伝え、委細は書面に尽くせないとして早々に帰着するよう求めた書状。
慶長十五年閏二月廿一日 / 冊子 268~271頁
慶長十五年閏二月二十一日、新納為舟が小川内村の田畠を一筆ごとに所在地・面積・石高・耕作者名まで列記し、合計約九十石九斗余を丸田与右衛門尉らに宛てた知行目録。
(慶長八年)正月廿五日 / 冊子 880頁
新納忠元が大慈寺侍者へ新年を祝い、島津忠恒が前年冬に内府へ出頭して首尾よく仕合を得たこと、帰国が近いことを喜ぶ。前年の書状と酒樽一樽の贈答にも礼を述べた。
五月六日 / 冊子 132~133頁
船の出航が遅れているため、兵糧米を借り受けて到着まで取り計らうよう依頼した。また国元の争いで上方へ逃れたところ武庫の判断により途中で討ち果たされた件、在洛中に受けた厚意への謝意を述べ、細島から夫丸五人の助力で入来院へ帰着し、帖佐の家族も無事だと報告した書状。
(慶長四年)十二月十七日 / 冊子 477頁
相良長泰と新納忠元が入田左馬入道に、先年の豊州での忠節に疑いがなく、さらに子の東市正が高麗で戦死した奉公も浅くないとして、その次第を老中へ披露すると伝える。当地の縄瀬勤番については両名とも当初から承知しており、十分に取り合わせて支援するので安心するよう述べ、詳細は圓教房が説明するとする。
(慶長四年)七月晦日 / 冊子 410頁
入来院重時・平田宗増・新納為舟が阿多甚左衛門尉に、書状を拝領し、当地での勤番について特別に言葉を掛けられたことを謝する。内府の上使から庄内の件を島津方の存分に任せる旨が示されたのは大慶であり、今こそ軍勢を差し寄せる時機ではないかとして、この意向の披露を求める。
文治三年九月九日 / 冊子 523~524頁/原整理番号 331
新納為舟の書状。米や船の調達、使者の往来、当地の情勢について相談し、必要な手当てを求める。五月六日付。
慶長四年閏三月三日 / 冊子 365~366頁
幸侃成敗に関する諸相談の内容を一切漏らさず、伊集院源二郎をはじめ縁者・親類がいても庄内とは決して通用しないことを、上井里兼以下十四名が連署して誓う。違反すれば梵天・帝釈から霧島・新田八幡・鹿児島一宮・諏訪・愛宕など諸神の罰を受けるとする起請文。
正保三年四月二日 / 冊子 250頁/原整理番号 186
四月二日付の書状抄。寺沢殿への応対と御馬追に触れ、馬の用立てを相談する。大月毛の馬を借りたいという依頼を伝える。
(文禄元年)6月吉日 / 冊子 565頁
新納忠元(為舟)が、薩州牛山院大口のうち太田名一段について、永代買得地として坪付を作成した文書。 土地の所在と面積、買得による権利を簡潔に証明しており、戦時下における薩摩国内の土地取引を示す。
年月日未詳 / 冊子 337~338頁/原整理番号 28
忠元が二十七歳の歳旦に七言の詩を作ったことを記す。家の記録にはないが世間で賞美されてきたという。「さまくに」の歌もその年の作として伝えられるが、真筆短冊は為舟の名で、為舟は天正十五年以後の老号なので、二十七歳の作とは区別される。後年の和歌を若年の詩と取り合わせる伝聞の誤りを指摘し、その年の歳旦詩を抄録する。
正月廿六日 / 冊子 431頁/原整理番号 181
芦北から退く際に百姓を召し帰し、加藤の命令で前年中に皆帰ったが、境目の籠居役は残ったと述べる。角の不忠者や出家した百姓について日記に記したものの、詳しい事情は分からないとする。大口・出水の親類らに双方から聴取し、境目について一人でも帰れるよう取り計らってほしいと頼む。正月二十六日付、新武入為舟の署名・花押があり、栴山と圖書入道へ送る。
(慶長五年)十二月廿四日 / 冊子 726頁
新納忠元が馬越の市日を加増として拝領したことを知らせ、十二月二十六日の開市に向け、加藤武部左衛門らと相談して各地の商人を集め、市の振興と商人の定着を図るよう依頼した書状。
慶長十二年四月朔日 / 冊子 110頁
慶長十二年四月一日、新納忠元が与えた加増坪付。複数の田地について所在地、面積、分米と旧担当者を列記し、新納利兵衛尉に宛てる。
慶長十二年四月十四日 / 冊子 111頁
慶長十二年四月十四日、新納忠元が合田島一町五段八歩、分米十五石余の田地を湯田新右衛門尉に与えた坪付。
慶長十二年四月十四日 / 冊子 111頁
慶長十二年四月十四日、新納忠元が木崎村内かた牧之門の田地を加右衛門尉に与えた坪付。下田・中道などの面積と分米を列記し、田島屋敷を付す。
閏四月廿九日 / 冊子 115頁
閏四月二十九日、新納忠元が寺沢氏との会合、馬追、招待客や随行者、宿泊・馬の手配などを岩城吉左衛門尉に相談した書状。関係者への連絡と準備を求める。
慶長十二年閏四月廿九日 / 冊子 225~226頁/原整理番号 164
新納家に伝わる四月十九日付の書状。馬追の見物客や同行者の参会、馬の借用・調達をめぐる相談を記す。取駒のうち良い馬を与えることや、客の接待・座次にも触れる。
三月廿七日 / 冊子 224頁/原整理番号 160
天正十七年三月二十七日付の新納忠元の書状。御馬追について、今年は火災の被害や人手不足があり、例年どおりの動員が難しいことを述べる。火の取扱いと騒動を戒め、実施に向けた判断を関係者に求める。
(天正15年)11月26日 / 冊子 364頁
返答が届かないため直書を送り、大木の件や在所の扱い、兵粮・雑事の手配が進まないことへ強い不満を示す。油断によるものか、野心があるのかと問い、現地の事情を詳しく返答するよう村田久右衛門へ迫った新納忠元の書状。
慶長二年三月十七日 / 冊子 94頁
新納忠元が、主家への忠節を貫き、内外の者と私曲を結ばず、知り得た企てを隠さず申し出ることなどを誓った起請文。違背した場合に諸神の罰を受ける旨を神文として列挙する。