渋谷氏鹿児島参仕座配書立
年月日未詳 / 冊子 616~617頁
渋谷氏一族が鹿児島へ参上した際の主居・中居・客居などの座敷順序を、人名ごとに書き立てた座配書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 616~617頁
渋谷氏一族が鹿児島へ参上した際の主居・中居・客居などの座敷順序を、人名ごとに書き立てた座配書。
年月日不詳 / 冊子 116頁
渋谷氏が鹿児島へ参仕した際の座配を書き立てた文書。忠隆公の御代における主居・客居の配置を示し、入来院・伊地知・高城・祁答院・東郷・樺山・北郷など各家の席次を図示する。
年月日未詳 / 冊子 93~94頁
島津師久が薩摩郡碇山城に居住し、串木野・羽島・荒川・隈城・宮里・高江・山門院などを領したこと、渋谷氏との戦いで高江峰城を攻め、激戦の末に永和二年三月二十一日に戦死したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 140頁
島津国史として、康暦元年・南朝元中六年の改元、忽翁公島津元久による富山土佐介への知覧院水田五町の給付、左衛門佐から渋谷氏への命令などを年代順に記す。
年月日未詳 / 冊子 160頁
島津元久譜として、応永二年に伊久が高城攻略のため横峯へ布陣した際、元久が新納氏・和泉氏を遣わし、渋谷氏退治について山田・高牧・樋脇・前田・市比野・入来を経る軍事計画を示した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 160頁
島津伊久譜として、伊久が応永二年八月十日に高城へ出陣し、横峯に陣を構えた経過を記す。元久は新納氏・和泉氏を介し、渋谷氏退治の進軍経路と軍勢配置を伝え、高牧で越年する長期陣の構想を示した。高城方面攻略の準備と父子の作戦連携を伝える。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁
応永二年八月十日、島津伊久が高城・横峯へ出陣した後の軍事行動を記す。元久は新納・和泉諸氏と渋谷氏退治の進軍路・築陣を定め、高牧に陣を置いて越年した。翌段階の戦況と大友親世書状の到来までを追い、長期戦の準備を示す。
年月日未詳 / 冊子 188~191頁
西藩野史の記事として、応永七年以降、島津元久が鹿屋周防介忠兼を鹿屋院へ復帰させ、肝付氏一族の所領・城を処理したことを起点に、伊作久義、鶴田重成、渋谷氏らをめぐる三州各地の軍事行動と所領再編を長期的に記す。元久・久豊方の出兵、和議、離反、討伐と恩賞の経過を載せる。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
島津国史の記事として、応永八年三月以降、島津久哲が田代清久らを市来へ派遣して城攻め・救援を行い、渋谷氏諸族や鶴田・高城などをめぐる戦闘が続いた経過を記す。多数の合戦・人名を含むため、主要な派兵と攻城の流れに限定した。
年月日未詳 / 冊子 200~201頁
応永記の記事として、元久・伊久方と渋谷氏諸族をめぐる鶴田・熊越・神崎山方面の軍事行動を記す。複数の陣・攻城・撤退、兵数、負傷者と戦功申告などを含む長文で、主要な戦況推移に限定して概要化した。
年月日未詳 / 冊子 242~243頁
応永十八年、島津元久が渋谷氏討伐へ出陣したものの、発病によって軍勢が崩れ、鋒尾から撤兵して清敷城を失った経過を記す国史記事。その後、伊集院頼久との対立が深まり、元久が病死した。久豊・久世・忠朝・本田忠親らの動向を追い、敗戦と当主死去が後継争いへ転じる過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 243~244頁
『西藩野史』が、渋谷氏蜂起に対する元久の出兵と発病・清水城での死去を記す。元久没後、後継となった久豊に伊集院頼久が対立し、島津一族・諸将が分裂するなか、久豊が河辺へ移った経過を述べる。
年月日未詳 / 冊子 244~245頁
『西藩野史』が島津久豊の出生、母佐多忠光女、官途と元久没後の家督継承を記す。伊集院頼久・渋谷氏らとの抗争、鹿屋城・高城をめぐる攻防、日向伊東氏の侵攻に対する救援を追う。鹿屋玄兼ら国人の帰属と軍勢配置も含め、久豊政権初期の権力確立を軍事面から詳述する。
年月日未詳 / 冊子 246~247頁
島津元久譜が、元久方と渋谷氏方の軍勢配置、伊集院頼久らの進退、元久発病後の軍勢崩壊を記す。元久は応永十八年八月六日に四十九歳で没し、法名を玄忠としたこと、その後頼久が伊集院へ退いたことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 272~278頁
応永二十年、渋谷氏の侵攻を発端に島津久豊・久世方と伊作久義・北郷知久らが争った長編『西藩野史』記事。清水城、鹿児島、松尾城、谷山、島津山城を転戦し、吉田清正・蒲生清寛・新納忠臣ら諸勢が加勢した。和睦と再戦、城の占拠・奪回が繰り返される戦線の推移を追う。
年月日未詳 / 冊子 279~280頁
応永二十年、樺山教宗への宮崎郡旧領安堵を起点に、伊集院頼久・渋谷氏らをめぐる緊張を記す国史記事。清水城・東福寺城周辺で戦闘が起こり、佐多・北原・新納など諸勢力が出兵・加勢した。所領安堵が地域対立と城郭戦へ展開した経過を編年で示す。
二月廿一日 / 冊子 339頁
島津忠朝が島津忠良へ、新春を賀し、前年以来南方が平穏で、島津実久と渋谷氏が和融したとの風聞を喜ぶ書状。弓矢の覚悟と勝利・落着に触れ、詳細は金吾から伝えるとして忠良側の動静を尋ねる。
年月日未詳 / 冊子 156~157頁
応永二年の島津元久をめぐる政治・軍事情勢を記す国史記事。福昌寺領の設定を起点に、波見太郎、渋谷・北原・相良・本田諸氏、今川了俊との関係を述べ、梶山城・高城周辺の攻防、鹿児島と各城地・所領の支配が変化した長期的経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 162~163頁
応永三年正月、島津伊久・元久方が樋脇城・前田城・市比野城を相次いで攻略した経過を記す。渋谷勢との戦闘、各城の守兵と援軍、周辺諸勢力の進退を追い、戦後の和議と所領処置、祭礼の実施までを掲げて軍事鎮圧後の秩序回復を示す。
年月日未詳 / 冊子 173~174頁
渋川満頼が肥後二見へ下向した際、島津元久の名代新納実久が参候した経過を記す恕翁公譜。席次をめぐって実久と渋谷一族が対立し、探題の面前で緊張が高まった。酒宴の場で相良氏らが双方を仲介し、衝突を収めたことを述べ、諸氏の序列意識と接遇交渉の実態を伝える。
正月十四日 / 冊子 177頁
島津伊久が大隅殿に、新年の祝意を述べたうえで、伊作方の振舞いが国乱につながる懸念、前年の渋谷一族退治、探題方への対応と国中催促について報じた書状。
年月日未詳 / 冊子 308頁
応永二十五年、雍州成道の振舞を契機に山田・渋谷諸勢の対立が深まった合戦記事。双方の籠城と城への攻撃、伊集院頼久ら援軍の動き、戦況に応じた退却と追撃を記し、島津久豊方が反抗勢力を制圧して地域支配を回復するまでの経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 866頁
曽於郡の領有と守備、本田董親の島津貴久への背反、清水城降伏後に忠相領内へ移った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 881頁
島津貴久方が加治木城を攻めた際、伊集院忠朗・肝付兼盛らが黒川崎へ布陣して蒲生・渋谷方と戦った経過を記す。敵陣への火矢射撃と周辺への放火、城方の出撃への迎撃を重ね、加治木城を孤立させるための前線構築と攻防を伝える。
年月日未詳 / 冊子 882頁
加治木城主肝付兼盛が太守島津貴久に従わなかったため、伊集院忠朗・北郷忠相らが加治木を攻めた経過を記す。蒲生・渋谷方との戦闘、城周辺の封鎖を経て兼盛方を退け、使者を介した赦免条件の調整によって帰順させ、城と所領を処置した。
年月日未詳 / 冊子 882~883頁
天文十八年、島津貴久方が加治木城主肝付兼盛と蒲生・渋谷方を攻めた戦役を記す。伊集院忠朗らが城と周辺陣地を攻略し、敵勢を退散させて加治木城を落とした後、使者・人質を介して和議を結び、兼盛らを赦免して帰順させた。
年月日未詳 / 冊子 885頁
天文十八年、島津貴久の加治木攻めに際し、島津忠親・北郷忠相らが調停し、肝付兼盛や渋谷・蒲生方との和議を進めた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 886頁
天文十八年、島津貴久が肝付兼盛の加治木城を攻めようとした際、北郷忠相らが調停し、和議と起請文交換へ至った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 199~200頁
応永八年春以降、市来・鶴田方面で続いた合戦を記す島津伊久譜記事。元久方が各地を攻撃して苦戦すると、伊久方は田代清久ら救援軍を派遣した。市来氏・鶴田氏・渋谷氏を含む各隊の陣配置、兵数、戦死傷、進退を詳述し、戦闘の合間に試みられた和議とその不調までを追う。
年月日未詳 / 冊子 310頁/原整理番号 11
渋谷氏の略系図。重国から渋谷庄司への系統を示し、渋谷庄司が相州酒匂川を領したこと、忠久の時代に当たることを付記する。
至徳二年二月四日 / 冊子 128頁
渋谷重頼が、前年八月の二見参陣から佐敷への退却、和泉・水俣への合力、天草渡海時の供奉、佐敷城の守備に至る自身と親類若党の軍忠を述べ、後証となる証判を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 201~202頁
島津元久譜として、渋谷四か所と鶴田をめぐる元久方・伊久方の軍事行動を記す。鶴田・串木野・神崎山周辺で陣の奪取と反撃が繰り返され、山田氏らを含む双方に死傷者が出た。戦闘後の所領処置と和議策にも触れ、島津一族間の対立が渋谷領支配へ波及した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 16頁
弘治元年七月二十五日、渋谷・蒲生勢が帖佐へ侵入し、島津方が迎撃したが東郷勢が敗れ、東郷将監・白濱ら多数が戦死した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 79~80頁/原整理番号 11
入来院・渋谷一族が鹿児島へ参上した際の座敷の席次を記した書立。忠隆の代と忠治の代を分け、当主、入来院、東郷、高城、樺山、祁答院らの座を図示し、親類関係による着座・酌の順にも触れる。
建武二年二月卅日 / 冊子 633頁
薩摩国の内裏大番役を勤仕すべき御家人の別交名注文。大隅二郎三郎、渋谷氏・矢上氏・比志島氏・光富氏、式部孫五郎入道、周防蔵人三郎、朝臣弥三郎らを列挙する。
年月日未詳 / 冊子 484~486頁/原整理番号 85の1
薩摩・大隅・日向の往古を語る由緒書。文徳天皇の皇子惟高親王・惟仁親王の継承争いに始まり、都から下った人物や在地勢力の由緒、三州各地への配置・所領、渋谷氏諸流の成立などを記す。
年月日未詳 / 冊子 255~256頁/原整理番号 6
山田聖栄の自記から、師久が薩摩の碇山城を構えて住み、隈之城・串木野・荒川・羽島・高江・宮里・山門に取り付き、渋谷氏と戦ったことを記す。守護方に背いて別の大将に付き島津氏と戦う動きに触れ、頼長・畠山礼部・肝付八郎兼重が三国に争い、地頭・御家人が思い思いに従って合戦した状況を述べる。
年次・月日不記(島津忠隆の代) / 冊子 582~583頁/原整理番号 93
島津忠隆の代に渋谷氏が鹿児島へ参上した際の座配を示す記録。『主居』には忠隆と入来院又五郎重朝・伊地知周坊入道・祁答院又次郎、『中居』には東郷弥次郎と椛山藝州入道長久を配し、続く『上下』には高城秋月・伊地知縫殿助などの名を記す。人物名を単純に一直線の序列として並べたものではなく、主居・中居など席の区分と各区分内の配置を記した点が特徴。年月日・差出人・宛先は本文にない。
六月三日 / 冊子 275~276頁
島津忠治の代に入来院氏が鹿児島へ参仕した際の座敷・座次を、忠治、左馬助、国衆親類、北郷・樺山・新納・佐多氏らの位置関係とともに記した座配書立。
正嘉三年二月三日 / 冊子 234頁
渋谷家譜中の記事として、幕府が九州の陸海防備を厳重にし、九州の守護・御家人らへ警固を命じたことを記す。大隅国の同国役や太宰府との関係に触れ、蒙古襲来後の防備体制を伝える。
建武二年二月晦日 / 冊子 633頁
薩摩国の内裏大番役を勤仕すべき御家人の交名注文。大隅次郎三郎・渋谷新平入道・渋谷弥次郎・渋谷彦三郎入道らを列挙する。
観応三年四月廿五日 / 冊子 819頁
樺山家所蔵文書が、樺山家元祖資久譜中に収録されていることだけを記した注記。
文明六年八月頃 / 冊子 18~21頁/原整理番号 1
文明六年八月頃の行脚僧の見聞として、薩摩・大隅・日向の島津守護家と一族、在地の武士・寺社・城郭・所領を地域ごとに列挙する。室町後期の三州における人物と拠点の配置を伝える名簿的記録。
年月日未詳 / 冊子 268~269頁/原整理番号 46
山田聖栄の自記から、師久が持つ薩摩郡高江の城に清色重門を大将とする勢力が攻め寄せ、堀にはまった重門を討って城を救った経過を記す。その後、山北・両院・求麻方が碇山城を囲んだため氏久が渡海して救援しようとしたが、市来の離反で薩摩山の通路を断たれる。師久は城を開いて婚姻関係を結ぼうとしたものの氏久は家の恥として反対し、山越えして敵陣を崩したため敵は退き、城を取り戻したと述べる。
巻一/冊子 8頁
天文十三年、大隅市成の山田加賀守忠廣が市成の地を貴久へ献上し、貴久は忠節を評価して肝付氏へ直ちに与えたことを記す。続いて入来院石見守重聰を論じる。重聰はたびたび軍勢を率いて島津方を助け、忠良はその娘を貴久の妻としたため、川内・伊集院郡山などを領する有力者となった。しかし重聰は姻戚関係と勢威を恃み、狐が虎の威を借るように驕ったため、忠良は郡山を没収して戒めた。それでも改めず、渋谷・蒲生・肝付・本田らと結んで反抗を企てたと批判する。一方、樺山善久は小浜を守って反対勢力に同調せず、その忠節を乱世における忠臣として称賛する。
巻一/冊子 11~12頁
天文十八年、加治木城主肝付越前守が蒲生・渋谷勢と結び、貴久への礼を欠いたため、貴久が伊集院忠明を進ませて黒川崎に陣を築かせた。肝付方も向かいに陣を構えたが、陣中で火災が起こり、肝付・渋谷・蒲生方は動揺して北郷忠相と菱刈氏を介して降伏を求めた。貴久はこれを赦し、肝付父子・蒲生・渋谷らは清水で謁見する。島津軍が鹿児島へ戻る途中、彼らは酒肴を整えて迎え、和睦成立を祝った。続いて貴久が鹿児島へ移ったことと、天文二十一年六月十一日に従五位下藤原貴久が修理大夫へ任じられた宣旨を収める。軍事対立の解消と官位上昇を結びつけた記事である。
寛元四年三月廿九日 / 冊子 190頁
渋谷定心が後継者に所領・職務を譲り、惣地頭兼郷地頭左衛門尉としての奉公、知行と相続の条件を定めた譲状。
建長七年十二月七日 / 冊子 224頁
渋谷五郎四郎が亡父定心の譲状を紛失したとして訴えた件について、文意に従って処理し、関係者に命令を執達するよう相模守・陸奥守へ伝えた関東御教書。
建武元年十二月十九日 / 冊子 630頁
渋谷重氏の遺領をめぐり、定円・兄弟・一族が所領配分と知行条件を定めた連署和与状。鬼益丸ら関係者の得分や所務を列挙し、相互に違乱せず和与内容を守ることを約した。
応永二年八月廿八日 / 冊子 162頁
島津元久が渋谷氏討伐に際して立願し、弓箭の本懐を遂げて対治できたなら、在国所領の田代二町を安養院へ寄進すると定めた寄進状。