長谷場越前自記
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
永禄十三年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山を、東郷氏が水引・中郷・湯田・西方・高城を差し出した。清敷と東郷を両家に残し、宮里を平田狩野介、川向こうの諸地と山野城を義虎へ与えた。評定後、貴久は加世田へ、義久は鹿児島へ帰還した。
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元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
永禄十三年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山を、東郷氏が水引・中郷・湯田・西方・高城を差し出した。清敷と東郷を両家に残し、宮里を平田狩野介、川向こうの諸地と山野城を義虎へ与えた。評定後、貴久は加世田へ、義久は鹿児島へ帰還した。
天正二年八月一日 / 冊子 342頁
天正二年八月一日、入来院重豊の使者村尾蔵人が祝詞と太刀を東郷氏に次いで献上しようとしたところ、島津家老衆が東郷・祁答院・入来院は同姓で序列に上下を付けるべきでなく、東郷氏の次は禰寝氏とすべきだとしたため、使者が承服せず帰った経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 60頁
今川了俊が島津親忠・忠房、渋谷重門らに峰城攻撃を命じた戦役を記す。島津・渋谷勢と高城・東郷勢の交戦、定山公方の築城と籠城、相良氏らの救援・進退を追い、城の争奪を通じて九州探題方と在地諸氏の軍事関係が変化した経過を示す。
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
元亀元年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院・東郷両氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山・水引・中郷・湯田・西方・高城などを差し出した。清敷と東郷は両家に残し、高城・中郷・西方・京泊・川向こうと牛尿院山野を義虎へ与え、各地の給分・地頭職を定めた。貴久は加世田、義久は鹿児島へ戻った。
元亀元年正月 / 冊子 232頁
元亀元年、渋谷党が押領地を差し出して降参したため、義久が罪を許し領地を再編した。隈城を新納伊勢守に受け取らせ、入来院・東郷両氏には清敷・東郷を残した。宮里を平田狩野介、高城・水引・中郷・西方・京泊を義虎へ与え、家久を隈城地頭に任じた。
十二月十九日 / 冊子 722頁
入来院に約束した犬を川上方から引かせて送るよう求め、東郷方の子息の元服に先例として誰を遣わすべきか相談し、稲葉方を雇う案を示して詳しい返事を求めた島津立久書状。
年月日未詳 / 冊子 512頁
三か国の騒動が続くなか、島津忠昌の病を機に祁答院・北原らが出仕を停止した経過を記す。入来院・東郷・吉田・菱刈と同盟して守護方に背き、修理亮忠廉にも加勢を求めたが拒絶された。忠昌の統率力低下から反守護同盟が形成された過程を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 519頁
文明十七年二月一日、祁答院勢が水引城と東郷・高城方面を攻め、守護方が籠城して反撃し、攻城側を川内宮内へ退却させた経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 520頁
文明十七年二月廿六日、東郷勢が高尾野で勝利し、穂北合人佐父子を討ち取ったことを記す短い譜記事。
年月日未詳 / 冊子 520~521頁
二月一日以降、祁答院・東郷方が鹿児島へ進攻した戦況を記す。水引城、市来、伊集院周辺で島津忠昌方と攻防を重ね、村田肥前守・吉田治部少輔らが援軍を送った。城の奪還と再占領、部隊の退却を繰り返し、薩摩中央部の戦線が拡大した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 525頁
同月十五日以降、薩摩守重久と相良為續が牛屎へ進み、修理亮忠廉らと菱刈方面の軍議を行ったのち、五月一日に鹿島で参会し、忠昌の使者を介して加治木・入来院・東郷・吉田・菱刈・羽月・山野らが鹿児島へ参上した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年四月十五日に北村の菱刈陣を攻め崩し、菱刈・祁答院・真幸・東郷・蒲生方に多数の戦死者が出たこと、同月十九日に蒲生城が明け渡されたことを記す。
元亀元年春~元亀二年正月一日 / 冊子 232頁
元亀元年春、渋谷党の降参後、入来院・東郷両氏から差し出された諸地を義久が再配分し、家久を隈城地頭に任じ、串木野も与えて移住させた。翌年元旦、家久は家臣全員を甲冑姿で出仕させ、敵が祝日の油断を狙うことに備えた。
元亀元年正月 / 冊子 241頁
本文はNo.536と同文のため省略される譜中記事。元亀元年の渋谷党降参後、隈城以下の所領を再配分し、家久を隈城地頭、義虎・平田狩野介らを各地の領主とした内容に当たる。
(天正二年)三月四日 / 冊子 337~338頁
島津義虎が鹿児島へ伺候できなかった事情を述べ、義久に敵意はなく、以前から神名に誓って忠節を約していると弁明する。出水・高城・水引・山野・東郷・中郷をめぐる風説を否定し、疑義があればまず照会してほしいと喜入季久に取り成しを頼み、詳しくは伊地知勘解由助へ口達したとする。
永禄ノ初年五月朔日 / 冊子 349頁
島津貴久が又三郎へ、入来院をめぐる交渉と河内の明渡し、東郷・祁答院・菱刈・相良・北原・蒲生・肝付らの動向を詳述した書状。加世田への報告を求め、各勢力との調略・出頭・奉公をどう進めるか判断を促す。
「正平十二年」十月五日 / 冊子 263頁/原整理番号 31
島津師久が加治木へ出陣した際、直顕と連携した渋谷一族が当所の郡司と一族を誘い、前月晦日の辰刻に城へ攻め入って合戦となったことを牛屎左近将監に伝える書状。東郷から詳しい事情を伝えており、合力を求め、聞き届けてほしいと申し上げる。
年月日未詳 / 冊子 335~336頁/原整理番号 20
重朝の家譜が、重朝は近年多くの城邑を取って武功を挙げたが、東郷・祁答院以下の国人が多く背反し、重朝にも同意の疑いがあったため、貴久はたびたび戒めたと記す。改心しないとされ、翌天文十四年八月八日に郡山城を攻めた。郡山城は先に勝久が重朝へ与えた城だったという。
年月日未詳 / 冊子 337頁/原整理番号 26
貴久が清水にいた時の吉田城合戦を漢文で記す。諸城主が背反したため、忠元・三原・山田・宮原・長野らを吉田攻めに出した。三月十七日に敵兵を退け、四月八日には興慶寺前で大戦となり、忠元は大刀を持って敵を攻め、上原長門らと敵将を追った。馬場某も奮戦して功を争ったが、忠元は大刀を持つ者が先鋒だったと述べたという。
年月日未詳 / 冊子 337頁/原整理番号 27
忠元の年譜が、入来院・祁答院・東郷・蒲生・肝付が加治木や溝邊を押さえて敵対した時、忠元ら五人が吉田へ出されて数年戦ったことを六年弓箭と記す。三月十七日に終日戦って各隊が傷を負い、四月八日の興慶寺前では馬場と忠元が大太刀による一番を争った。翌日の敵方の話から、敵の大太刀に対して大刀を持って戦ったのは拙齋だけだったため、拙齋が先鋒と認められたという。その後には上原長門と追撃して戦った。
巻二/冊子 21頁
相良・菱刈・入来院・祁答院・東郷の諸勢力が連携し、曾木城と市山を攻めた事件を記す。宮原筑前守・佐多久政らが曾木城を守って敵を退け、敵方に数十人の損害を与えた。敵が馬越を経て市山へ進むと、負傷中の新納忠元も出陣し、白坂・永福寺方面で防戦した。敵の赤衣の先鋒に対して鉄砲を放ち、これを倒したことで敵勢は退却した。反島津諸勢力の共同攻撃を、城の守備と鉄砲戦で防いだ短い戦闘記事である。
年月日不記(天正二年・文禄二年・慶長五年などは各代の記事) / 冊子 649~652頁/原整理番号 119
藤原姓本城氏の系図。源七郎忠仍は世継ぎのない東郷重尚の養子となって東郷氏を称し、朝鮮出兵に従った後、本姓に復したと記す。島津豊久が関ヶ原で戦死すると、家久の命で忠直が後継に定められたが、忠直の病と家の断絶を受け、女子と喜入家の男子との縁組で豊久の家をつなごうとした経緯を載せる。子孫には東郷家と本城家のいずれに属するかをめぐる議論があり、忠頼は祖父忠直の隠居地・父忠清の出生地を由緒として東郷を改め、菱刈本城を称したという。佐土原・菱刈本城などの居住、島津光久への太刀献上、女子の婚姻や家督の継承も記す。
「天文五年」六月三日 / 冊子 754頁
島津勝久が入来院・東郷両名に、石州での用件と船員不足、入国者の処遇、報恩のための進言を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 310~311頁/原整理番号 12
東郷氏の庶流とする白濱氏の由緒。白濱門を家号とし、入来院家の家来であったことや、白濱次郎左衛門が龍伯に仕えた際の役目を記す。
年月日未詳 / 冊子 318~321頁/原整理番号 166
島津国史の抜書が、師久の碇山城での抗戦と新田宮からの出兵伝承、肥前早湊の地頭職をめぐる幕府の下文・恩賞を記す。足利直冬方や官軍との戦争、薩摩・大隅の凶徒に対する足利義詮らの教書、市来氏・東郷氏・渋谷氏・牛屎氏・和泉下司らとの合戦を年代順に集める。木牟礼・尾崎・知色・櫛木野などの救援と攻略、負傷者・戦死者、師久の謙辞と謝状、守護職や所領授与を載せる。延文・康安期の筑前や肥後での戦いまで遡ったのち、貞治二年の守護職伝授、康暦二年の死と鹿児島五道院への葬で結ぶ。