島津国史
年月日未詳 / 冊子 798頁
天文十一年以降の北原・本田・北郷諸氏の抗争をまとめる国史記事。溝辺玉利・高松城・生別府の戦闘、養子縁組による同盟と離反を追い、島津忠広・種子島時堯らの動向を記す。諸氏が最終的に島津貴久方へ帰属していく過程を示す。
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年月日未詳 / 冊子 798頁
天文十一年以降の北原・本田・北郷諸氏の抗争をまとめる国史記事。溝辺玉利・高松城・生別府の戦闘、養子縁組による同盟と離反を追い、島津忠広・種子島時堯らの動向を記す。諸氏が最終的に島津貴久方へ帰属していく過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 801~802頁
種子島時堯父子の不和をめぐり、島津貴久が伊勢守を将として派遣し、軍船で種子島へ渡らせた経過を記す。交渉によって父子を和解させ、軍勢を帰還させた。
年月日未詳 / 冊子 808~809頁
天文十二年、種子島へ漂着した異国船から鉄砲と火薬調合の技術が伝わった経過を記す。種子島時堯が鉄砲を買い取り試射し、篠川小四郎・織匠に製造を命じた。技術が紀伊へ渡り、堺商人や和泉橘屋又三郎を介して国内へ普及したことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 802頁
種子島父子の争いに際し、貴久が新納伊勢守を大将として二百余騎を船で派遣したことを記す。交渉で父子を和解させ、軍勢は無事帰帆した。
年月日未詳 / 冊子 802頁
天文十一年三月二十三日、種子島父子の争いを鎮めるため、貴久が新納伊勢守を大将として軍勢を派遣した経過を記す。父子の和解後、軍船は帰帆した。
年月日未詳 / 冊子 123~124頁
永禄六年六月十六日に生まれた島津義久の女子について、島津義虎および島津彰久の室となったこと、母は種子島氏の女子であることを記す。寛永十八年八月十五日に新城で七十九歳で死去し、法名も載せる系図記事。
年月日未詳 / 冊子 161頁
島津彰久室の譜記事。島津義久の二女で新城君と称し、永禄六年六月十六日に種子島左近大夫時堯の娘を母として生まれた。寛永十八年八月十五日に新城で死去し、享年七十九、法号を珠月浄珊庵主としたことを記す。
年月日不記(天正十五年・慶長四年などは系図内記事) / 冊子 628~630頁/原整理番号 113
種子島氏支族・河東尾張守時定の八代に当たる因幡守時儀の子から続く善左衛門家系図で、時近・時適以下の系線、養子、婚姻を記す。時近の女子は島津義久の室となった種子島時堯の娘に局として仕え、天正十五年の秀吉西征時に人質として上京する亀寿に随従し、十八年の再上京にも従った。義久はその勤労に感状と三百石を与えたという。この局は義久の許可を得て最上長門守の二男・時弘を養子として跡を立て、時弘は肝付郡百引の地頭職を賜った。時弘は阿多掃部介の二男・時常を養子とし、後の時豊は一時阿多甚左衛門家を継いだが、兄時次が子を残さず死んだため同家を辞して本家を継いだと記す。