新納忠増日記
年月日未詳 / 冊子 574頁
『新納忠増日記』の該当記事について、「本田記と同文につき省く」と注記して本文を省略した記録。 独立した本文は収録されないが、同一内容の異本・参照関係が存在したことを示す編集上の注記である。
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年月日未詳 / 冊子 574頁
『新納忠増日記』の該当記事について、「本田記と同文につき省く」と注記して本文を省略した記録。 独立した本文は収録されないが、同一内容の異本・参照関係が存在したことを示す編集上の注記である。
年月日未詳 / 冊子 624~637頁
島津久保の死去をめぐる記述を起点に、新納忠増が国内の宿駅をたどり、海路で朝鮮へ向かう長い旅程を日記形式で記す。 道中の宿主・使者との応対、和歌、渡船や暴風雨、難航する船中での祈願、朝鮮到着後の島津義弘への伺候までが細かく描かれる。 朝鮮出兵の軍事行動だけでなく、移動・宿泊・航海の危険、従軍者の感情と信仰を当事者の言葉で伝える貴重な紀行史料。
(慶長七年)十月五日 / 冊子 849頁
新納忠増の覚書。前年と当春の普請に動員された人数を、奉行・組数・日数別に計算し、合計十万五千人に達するのに成果が見えないと指摘する。今後の普請人数と日程を明確に定めるよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 959頁
島津尚久一流系図は、慶長九年十二月二十九日に初久が誕生し、母を新納忠増の娘とする。童名鎌安丸、のち文七郎と称し、延宝二年十二月晦日に七十一歳で没したと記す。
年月日未詳 / 冊子 783頁
島津久元の一流について、久元から図書頭久通へ続く系統と、久通の母が新納忠増の娘であることなどを図示した系図。
天正十二年春~秋 / 冊子 866~867頁
島津義久が佐敷に在陣し、家久へ三千人を付けて有馬を救援させた記事。島原合戦では忠元が豊久の後見として軍勢を指揮し、川上忠堅が隆信を討ち、敵三千余を倒した。忠元・忠増と大口衆の働きで三十六人を討ち、森山・三重城など六か所を領し、忠元は同年秋に隈府地頭を兼ねた。
年月日未詳 / 冊子 856~857頁
文禄三年三月二十日の伏見登城と太閤秀吉への御目見を起点に、新納忠元が三月二十三日に出立し、大口・佐土原を経て乗船、大坂から伏見へ上って秀吉に召し出された経過を日付順に記す。 島津義弘から忠元へ届いた書状、忠佐への暇、忠増が朝鮮で奉公していること、忠元一族の働きへの評価に加え、京都での用務や検地役人の選定、石田三成らとの関係まで収める。欠損部分を鹿児島県立図書館本で補った、新納忠元の上方奉公と島津家の軍事・行政連絡を具体的に追える勲功記である。
年月日未詳 / 冊子 701-704頁
十九歳の井上主膳は長寿院盛淳に従って関ヶ原へ赴き、敵陣が連なる美濃路を少人数で突破して九月十三日に島津義弘(惟新)の陣へ到着した。合戦では盛淳が義弘の名代として太閤拝領の羽織を着け、後衛に残って敵中へ突入した。主膳は側近くで戦って深手を負い、盛淳の最期を直接は見られなかったが、のち京都・南都を経て帰国した。
慶長九年二月 / 冊子 927頁
琉球国王宛ての書状案。琉球商船が逆風で奥州へ漂着した際、徳川家康の命により薩摩を経て送還したことや、平戸に漂着した琉球官船を新船に替えようとした恩を列挙する。一方、琉球が豊臣秀頼への礼や薩摩の使者・朱印への返答を欠いたことを厳しく戒め、甑島に船を留置し乗員二、三人を帰す旨を述べる。
天正十一年九月~天正十二年 / 冊子 752~753頁
天正十一年九月の肥後佐敷在陣、十月七日の堅志田攻略、十二月の八代在陣、有馬への番兵派遣、翌十二年の高来出兵と龍造寺勢との合戦に参加した将士を列記した交名。島津家久を大将とし、豊久・川上氏・平田氏・新納氏ら多数の侍大将・軍士について、戦死・分捕・高名などの注記も付す。
年月日未詳 / 冊子 707-718頁
慶長五年十月二十五日から霜月三十日までの日記。島津義弘(惟新)の社寺参詣、来客・使者の応接、贈答、蒲生城普請の見分、各地への使者派遣、肥後・日向方面への武器弾薬輸送、鹿児島稲荷・小城権現の再興、関ヶ原供奉者への知行目録交付など、帰国直後の政務・軍備・儀礼を日ごとに記録する。
年月日未詳 / 冊子 81~82頁/原整理番号 63の23
文禄元年三月から七月の移動と高麗渡海を記す。大口出立、久保・義弘の渡海、船不足での御供不能、船の雑作と荷積み、金山浦着船を記録する。馬船不足で徒歩随行する者の悲哀、遅れての乗馬到着、増水した川の渡渉、雨中の移動にも触れる。伝聞を示す「云」の記述を含む。
年月日未詳 / 冊子 83頁/原整理番号 63の25
緒方主殿の島原従軍覚書から、四枚帆一隻に馬を乗せ、船頭室田利左エ門が天草久玉へ着いた記事を引く。後続考証では寛永九年の高割による騎馬五百騎と乗船・馬草の用意について、確かな証跡がないことや田中綱紀翁の言伝を述べる。忠恒の書状と新納忠増の船不足の記事を参照し、遠征先への馬輸送の困難を論じる。
(慶長7年か)10月5日 / 冊子 70~71頁/原整理番号 62
新納忠増が拙斎へ普請人数を報告する。前年の相良新右衛門奉行時は北郷作左衛門内衆と合わせ一日三千人・25日で六万五千人、当春の竹内織部助奉行時は千人・30日で三万人と記す。両口合計は十万五千人とするが、証拠が見当たらず不審な旨を述べ、今回の普請人数も未定と伝える。記載小計と総計には不一致がある。
年月日未詳 / 冊子 396頁/原整理番号 122
文禄元年の朝鮮渡海に向けた出馬を記す日記の抄録。弥生朔日に出馬が決まり、五日に大口を発ち、六日は泉徳寺で念仏を唱えて、ちやうじやと呼ばれる坂を越えた。六月十三日は都を通って川辺で野陣を敷き、宗心の忌日なので念仏を深く心に留め、長い道を過ぎたと記す。前後の文は省略されている。
年月日未詳 / 冊子 139頁
新納忠元が忠増らを率いて豊後方面の城々を攻め、城兵を討ち取った経過をまとめた譜記事。忠元は兵を分け、平田豊前守ら諸将と連携しながら権現城・城ケ尾城・茶飯城などを攻略したとされ、豊後侵攻における新納勢の軍功を顕彰する。