島津義久書状
五月廿四日 / 冊子 431頁
島津義久が堀田新次郎へ、原房を召し抱えて別護一座の修行に当たらせたいと伝える。螺貝二口を進覧し、懇ろな祈念と詳しい取り計らいを求めた書状で、朱書は熊野宛老中書状と注記する。
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五月廿四日 / 冊子 431頁
島津義久が堀田新次郎へ、原房を召し抱えて別護一座の修行に当たらせたいと伝える。螺貝二口を進覧し、懇ろな祈念と詳しい取り計らいを求めた書状で、朱書は熊野宛老中書状と注記する。
元亀三年五月四日 / 冊子 279頁
元亀三年五月四日、伊東方が飯野・加久藤方面へ侵攻した際、島津義弘が大将として戦い、伊東新次郎・伊東加賀守をはじめ一門・一家あわせて五百余人を討ち取って勝鬨をあげたと伝える。
元亀三年五月四日 / 冊子 281~290頁
島津義弘の飯野入城から桶平伏兵戦を経て、元亀三年五月四日の木崎原合戦を詳細に叙述する。義弘は加久藤救援・野間門・鳥越・本地原に部隊と伏兵を配し、伊東新次郎を自ら討ち、五代勝左衛門らが伊東加賀守を討って敵軍を崩した。戦場地形・討取人数・六地蔵・太刀洗川の由来、白鷺を白旗と誤認して退いた相良援軍、間者を見破った死苦村彦六左衛門と褒賞地、三徳真成の祈祷・調伏や後世の伝承・編纂経緯まで収める総合的な合戦記。
元亀二年秋(十一月廿日) / 冊子 249頁
元亀二年秋、伊地知重興・伊東・肝付・禰寝の連合軍が鹿児島内海へ侵入した際、瀧ケ水で戦功を挙げた者の交名。平田美濃守、鉄砲上手の勝部与左衛門、平田藤九郎、南雲壱岐守・新次郎、指宿四郎二郎ら八、九人を掲げ、平田美濃守の実名に関する編者の考証を付す。
元亀三年五月四日 / 冊子 266~268頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦で島津方が得た伊東方の首級を、所属地・身分・被官数とともに列記する注文。大将・伊東一族、落合・長倉・米良・別府・柚木崎ら各地の武士を挙げ、確定できた首級を二百九十六、ほかに切り捨てた者は不明と記す。後世の参照用に重複を承知で旧記の人名を写したとの注記がある。
元亀三年五月四日 / 冊子 268~273頁
伊東義祐が島津氏の伸長を恐れ、元亀三年五月四日に大軍で飯野・加久藤を攻めた木崎原合戦を長文で叙述する。島津義弘は少数の兵を励まして横撃し、退却を装う戦法と援軍によって伊東文次郎・加賀守らを各陣で破り、自ら柚木崎丹後守を討った。伊東方の多数の戦死者、遺族や国人の動揺を記したのち、林翁粛の諫言や落書を引き、伊東義祐の佞臣偏重・賄賂・奢侈・苛政が敗北と国政混乱を招いたと論評する。
元亀三年五月四日 / 冊子 274~279頁
日向側の記録として、元亀三年五月四日の木崎原合戦と敗戦後の状況を詳述する。伊東方は加久藤を攻めた後、統制を失った退却中に島津義弘の横撃を受け、伊東加賀守ら諸将が次々に引き返して戦死した。所属別の戦死者名と、加賀守・別府宮内少輔・荒武兄弟・柚木崎丹後守らの最期や遺言を収める。敗戦後に起請文を確認すると従来の軍規と異なり、最初から一所討死を誓っていたとの不審も記す。
元亀三年五月四日 / 冊子 279~280頁
伊東方の大軍が加久藤を攻めた際、島津義弘が木崎原へ横撃して伊東文次郎・落合源左衛門らを破った戦いを記す。島津方は鎌田大炊助・野田越中坊・曽木播磨守らを失ったが、義弘自ら敵中へ斬り込み、古陣原・本知原の敵陣を次々に崩して小林方面まで追撃した。多数の戦死者を弔うため戦場に六地蔵を建てたことと、義弘の信心・武運を讃える。
明和二年四月十六日 / 冊子 83~84頁/原整理番号 181の64/整理ID 181-64
朱書の「書付壱通」は、明十七日の紅葉山御宮で予参を行う予定であったが、御暇を賜り、昨日御礼を済ませたため、明日は予参を勤めないと届ける書付の内容を示す。宛先は大御目付稲垣出羽守様。続く首尾報告には、佐久間新左衛門がこれを持参して差し出したところ、出羽守は登城中で、退城の際に申し上げる旨を用人から承ったとある。用人は曾根原新次郎と記す。四月十六日、佐久間は今朝自分が勤めた首尾を左中様へ報告する。添付書付の用件・宛先と、持参時の用人の応答、本人による首尾報告を分けて示す。
文久3年亥7月7日(願稿末尾) / 冊子 302~303頁/原整理番号 429/整理ID 429
二内容の願稿。第一は御三役から再三願いがあり一度国分居住を命じられたことを承知するが、内外危急の中で今は居住を止め静かな時まで見合わせるよう願う。城下を廻って士気を振るい、守る持場で職分を尽くし、戦時の教練・慰労、臺場や大砲・集成館の準備を進めたいと述べ、自身は草牟田から北の伊敷付近の居住案も挙げる。第二は落涙して願うとし、今後の戦闘では御一門・御三役の名代として臺場等へ出て直接進退を指揮し、発砲や人数の指揮を物主一人に委ねないよう求める。文久三年亥七月七日、教授・記録関係役の山田十介、山之内作次郎、児玉源之丞、久保田新次郎を列記する。稿の請願・士気評価として編集し、居住や役職が決定・実行したとしない。
慶応4年辰正月24日、使者差立ての記録 / 冊子 478頁/原整理番号 647/整理ID 647
この藩から布告文を持たせ使者を送った大名衆の名書を掲げる。熊本・久留米・柳川・福岡・佐賀、飫肥・高鍋・延岡・中津・小倉・岡・杵築・臼杵・府内・森・日出・佐伯、島原・唐津・平戸・五島・大村の配布先を、原の領主称号と使者の組ごとに列記する。慶応四年辰正月二十四日に使者を差し立てたと記し、続く布告文は略すと明示する。使者派遣の記録と布告内容の省略を区別し、訪問・受領の完了や省略された布告の文言を補わない。
正月四名連署、慶応4年辰正月26日の近国使者付記 / 冊子 479~480頁/原整理番号 648の2/整理ID 648-1
朝敵征討を命じられたので、九州諸侯へ使者を送って別紙の布告文を渡したことを伝える。名分大義を守らず勤王の意思なく敵に私党する者がいれば追討の師を差し出す予定とし、この趣旨を一統が承知するよう早く伝達し、諸郷・私領にも申し渡すよう領主・諸所地頭へ命じる。正月に圖書・右衛門・龍衛・内膳が連署する。慶応四年辰正月二十六日の付記は、日州の薗田・久保田、肥後の蓑田・肥後直次郎、肥前の橋口・川崎という近国使者の配置を掲げ、使節口上は前に記録があるので照合するよう注記する。布告の伝達、条件付き追討方針、使者配置を別記する。
(寛永十五年)正月十三日 / 冊子 733頁
島原軍勢へ渡す飯米に関する人数指出の写し。人数七十六人、そのうち夫丸十八人、乗馬一疋とし、新納次郎四郎が加わる場合は別に指出を提出すると記す。
8月16・21・26日、閏8月11・16・21日(出立表示、年不記) / 冊子 270頁/原整理番号 374/整理ID 374
八月十六日・廿一日・廿六日、閏八月十一日・十六日・廿一日の六つの出立日ごとに、人名と出府する郷別人数を掲げる一覧。最初は谷村十右衛門・宮里新次郎と樋脇・東郷・隈之城各五人。続く各群には国分・清水・串木野、櫻島・小根占・高山・鹿屋、加世田・志布志・蒲生、始羅郡山田・帖佐・伊集院・市来、福山・伊作・指宿・羽月を列記する。江戸の守衛のため出府を命じたとの末注がある。郷別人数の表示合計は第一群十五人、他の五群各二十人、参考合計百十五人。前に掲げた人名十四人が郷別数へ含まれるかは記さないので加算しない。
年月日未詳 / 冊子 117~120頁/原整理番号 23-1
中表紙『禰占氏略系』に続く禰占氏の家伝・系図。上祖未詳の兵右衛門が十八歳で忠政君に出仕を求め、府下の士となって与力を命じられたこと、寛永十二年の戸口改め後も家臣・与力として扱われ、田宅と廩米を与えられた由緒を記す。四郎兵衛は辺川へ移住したが火災で系図を失い、普請方役人として光樹君に仕えた。仁左衛門は南戸役から取次役兼目附役となり、江戸随行中に病死。勘右衛門は九歳で久亮君の小姓となり、のち兵具方兼馬役を務めた。以後、勘七・新次郎・新四郎・新助・助市・仙之助・新九郎・新五右衛門・四郎次らの出生・没年、法名、母方、婚姻・離別、子女を宝暦・明和・安永・天明・寛政・文化・文政・天保・弘化期まで系線で整理する。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁/原整理番号 172
始良氏の家事と奉公を記した事書。慶長八年二月十四日に猪俣則康が鹿児島へ戻った後に生まれたと記し、寛永七年八月から御船手奉行所を勤め、寛永十二年五月には家久の供で江戸へ上った。進物蔵役に任じられたが帰国予定のため蔵役を免ぜられ、野元権右衛門と交替して奉公したという。慶長十八年・元和六年・寛永九年・萬治二年の新次郎・三郎兵衛・十郎兵衛への俸禄も列挙する。
享保十四年十二月十一日 / 冊子 1008頁/整理ID 2461
十二月十一日の御能組として、翁・高砂・東北などの演目と勤める役者名を列記する。
享保十四年十二月廿二日 / 冊子 1008頁/整理ID 2462
十二月廿二日の御能組として、翁・高砂・東北・祝言の演目と三番叟を含む役者名を列記する。
享保十四年十二月三日 / 冊子 1008頁/整理ID 2463
十二月三日の御囃子組として、笛・小鼓などを受け持つ者の名と役を列記する。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
正月16日 / 冊子 725~726頁/原整理番号 752
十三日付書状を受け、黄門の腫物・咽気・咳、不眠と食事の状況を詳しく報告する。城攻めの長期化による兵糧不足、船の回送、天草への渡海連絡、出水・大口の人数の半分を残すよう江戸から命じられた件について相談する。国境警備・大口番所の人数にも配慮し、新納加賀守の有馬同行希望を伝える。正月十六日付、野州宛。原史料には欠字が多い。
年月日未詳 / 冊子 746~747頁/原整理番号 778
伊地知重政付衆中の小原織部萬取払帳から、正月十八日の米請取と送夫への飯米支出を抜く。真米・赤米各一石五斗五升を載せ、赤米は主従三十一人の二十日分飯米とする。羽月から出水米之津までの送夫について、西田源七らへの七合五勺、西市之丞への一升、北ノ薗之後藤への一食分二合五勺、狩代の夫への八升などを列記する。真米の主従人数表記は原文どおり扱い、赤米条から補訂しない。
永禄四年七月十二日、寛永十五年、宝永元年三月三日~宝永五年閏正月十六日(主要記事) / 冊子 498~501頁/原整理番号 22-2
酒匂氏左衛門尉家の系譜・軍歴・伝来什物の家例を記す。新左衛門尉から治部少輔へ続き、日州目白坂で戦死した人物を置く。源左衛門尉は鎌田尾張守政年とも称し、島津義久に仕え、伊集院忠朗・島津忠将の移動に従った後、永禄四年七月十二日の竹原山合戦で忠将とともに戦死し、配下三十余人も討死した。景宗は義久から正嫡と認められ、肝属郡串良など八町を知行したが、肝属一郡が伊集院幸侃へ与えられると子らは蒲生、のち出水へ移った。景政を猶子、景明を婿養子とする家督継承、後裔の婚姻・早世・地頭職も載せる。酒匂家伝来の観音像と『天之御母衣』は、家督者が千日潔斎・七か月別火を行って一度拝し、太刀・樽肴を献じて藩主へ披露する家例であった。景明・景義の代に中断したが、景安が旧例復興を訴え、宝永元年三月三日に儀礼を再興し、宝永五年閏正月十六日には忠久伝来什物を収めた筥蔵の小番を代々務めるよう命じられた。
年月日未詳 / 冊子 325~326頁/原整理番号 175
師久の次子久安から始め、始良・碇山を称した家の系譜を記す。久安の領地と碇山城への居住、忠安以下の官途、忠親の隅州生別府での戦死、久次の後を継いだ忠種の実家木脇氏を載せる。忠種に男子がないため児玉筑後守利昌の三男を迎えて始良氏を嗣がせたこと、父子の久賀隊への所属、忠種の死を記す。久包は実家喜入氏と母仁禮氏の系譜、出生、小姓奉公、納戸奉行・御近習役と領地頭職、綱久の病を看護した功による褒賞を記し、碇山姓を再び称した経緯と妻子へ続く。
年月日未詳 / 冊子 401~402頁/原整理番号 131
天正四年の三之山などの退去と、島津方の番衆・祝宴を記す日記。仲秋二十三日に城を退いたが伊東の迎えが来ず、二十四日には敵が三之山と須木を捨てたため番を置いた。二十五日に忠平が三之山へ籠もり、翌日は一門・諸地頭が談合し、二十八日に太守が出向いて川田駿河守が太平を祝った。山田新助・三原右京亮の膳と三献、忠元を含む参会者の太刀進献を挙げる。次第は残っておらず、夜は飯野へ赴いたと記す。
建武四年八月三日 / 冊子 694頁
阿多郡高橋松原口などでの合戦について、島津道恵方の参戦者・負傷者・戦死者を列記した合戦手負注文。上原中務丞尚経、鎌田孫次郎長平、右馬七郎、山田彦太郎、大田孫三郎、石堂彦次郎、益山新次郎らの矢疵・射傷を掲げ、島津宗久・友久、莫禰次郎成時らの見知と証判を記す。