殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 770~771頁
天文八年の紫原・蒲生城・市来城などの合戦で戦死した家臣を、日付・戦場・死因とともに列挙する。本村時貞、蒲生清綱、池上将監、伊地知新四郎らを収める。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 770~771頁
天文八年の紫原・蒲生城・市来城などの合戦で戦死した家臣を、日付・戦場・死因とともに列挙する。本村時貞、蒲生清綱、池上将監、伊地知新四郎らを収める。
年月日未詳 / 冊子 836-837頁
伊地知季安愚考は、伊集院忠真が加藤清正の威を頼んで再び謀反を企てたことが露見し、川田国鏡の内命を受けた押川則義と渕脇平馬が、慶長七年八月十七日に野尻大津の狩倉で待ち伏せたと記す。案内者の誤りで則義は平田新四郎を鉄砲で射殺し、続いて平馬が忠真を射殺した。忠真は三十三歳で、墓は野尻にあり、法名を法山道機居士という。
年月日未詳 / 冊子 837頁
伊地知季安愚考は、渕脇平馬が押川則義とともに内命を奉じ、慶長七年八月に野尻大津の狩倉で伊集院忠真を待ち伏せたと記す。平馬が忠真を鉄砲で射殺した一方、忠真が平田新四郎と馬を乗り替えたため案内者が取り違え、則義は平田を射殺した。則義は人違いを恥じて自害したという。
(元和三年)三月廿三日 / 冊子 640頁
児玉利貞が代々相伝の児玉惣領系図を利昌へ送り、祝いとして鳥目十貫を添え、系図の継承と新四郎の名乗りについて今後相談するよう伝えた書状。
三月廿八日 / 冊子 13頁
尊朝法親王が、長期の在陣の苦労を察し、前年に当門の大工新四郎の件で受けた厚意へ謝意を述べた書状。新四郎が再び下国するため、相応の下知と配慮を加えてほしいと頼む。
二月廿七日 / 冊子 57頁
伊集院久治が、兒玉新四郎による衣類盗難事件の処置を土持大膳亮と瀧聞越後守へ求めた書状。新四郎が在所で衣類を盗み、当地で売却して露見したため、盗人として適切に詮議・処分するよう依頼する。
三月廿八日 / 冊子 8頁
長期の在陣を労い、矢工新四郎が前年に受けた厚意を謝し、再び下国する同人への配慮を依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 295~296頁
京都から来た豊臣方の軍勢が高城周辺へ布陣し、島津方約三百人が日夜防戦した状況を記す。喜入摂津守らの配置と各隊の構成、兵糧・武具の補給、少数の城兵が大軍へ抗する戦闘が続き、高城攻防の実態が分かる。
延徳二年四月十八日 / 冊子 551頁
延徳二年四月十八日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を記した一覧。
年月日未詳 / 冊子 698頁
享禄二年正月二十二日の帖佐新城攻防で伊地知重辰らが戦死したことを、村田氏系図など複数の系譜記事を引いて考証する。
年月日未詳 / 冊子 143~146頁
天正十四年二月十八日から同月末まで、上井覚兼が参会・贈答・酒宴・連歌・寺社参詣と、豊後・肥後方面の軍事情報や秘密書状の取次を記した日記区間。二十三日条では、関白となった豊臣秀吉から九州の停戦と国境裁定の受諾を求める書状が、細川玄旨・宗易の副状とともに届いた件を終日協議する。義久は秀吉を「無由来仁」と評し、頼朝以来の由緒を持つ島津家と対比して低く見るとともに、その関白への返書を「笑止之由共候」と評した。一方で勅命を伴う停戦要求には従う姿勢を示し、細川玄旨を介して返書を整える。九州征伐直前の島津側の秀吉観と、反発しつつ現実的に外交対応する姿勢を伝える著名な記事。
年月日未詳 / 冊子 147~153頁
天正十四年二月から三月にかけて、上井覚兼が島津家中の参会・贈答・酒宴・連歌・祈祷と、豊後・肥後方面の軍事・外交を日々記録した長大な日記区間。羽柴秀吉の停戦命令への返答、細川・近衛家や京都との書状往来、諸将の出陣・帰陣、城郭・人質・兵糧の処置を協議する。入田氏、高知尾、志賀道益らをめぐる豊後情勢を追い、日向・肥後口の作戦も調整した。年始から春の儀礼生活と九州征伐前夜の政治的緊張が同時進行する島津家中の実像を伝える。
年月日未詳 / 冊子 155~161頁
天正十四年三月上旬から四月初旬、上井覚兼が狩猟・花見・寺社参詣・酒宴・連歌・贈答を続けながら、豊後・肥後・日向・筑紫方面の使者往来と軍事相談を連日記録した日記区間。羽柴秀吉や近衛家からの書状、九州停戦命令への返答、入田氏・高知尾衆との交渉、諸将の出陣と城郭・兵糧の処置を協議する。返書の遅延や情報不足への焦燥も記され、儀礼的な家中生活の裏で中央政権への対応と豊後戦線の判断が絶えず迫られていたことを伝える。
元禄十四年八月廿三日 / 冊子 300~301頁
児玉利昌の孫・児玉利言が、祖父の朝鮮役での奉公を申し立てる。文禄元年、義弘の渡海時に自費で船を用意して朝鮮へ渡り、雑兵を多数討ち取ったため、帰朝後に褒美として知行三十石を与えられたと記す。本文は複数条のうち一条のみを掲げ、ほかは省略されている。
三月十日 / 冊子 19~20頁
安楽兼が、各地での軍役と戦功を箇条書きにした申状。水俣・天草方面、有馬、八代、島原、岩屋、豊後の竹宮・阿蘇の竹宮などで、自力による長期奉公、番役、攻城、敵将・敵兵の討取を重ねた経歴を列挙し、奉公の実績として申告する。
年月日未詳 / 冊子 223~224頁/原整理番号 159
『上井覚兼日記』天正十四年四月から五月の記事。瀬崎野などでの御馬追に向けた支度・使者の往来と、吉野御馬追の日程を記す。用いる馬や鞍・具足を調え、取駒をどう扱うかについても関係者と連絡した。
明和2年9月晦日 / 冊子 120~122頁/原整理番号 23-2
明和二年九月晦日付の別紙として伝わる禰占氏法名書上。白峰了雲居士、宝山大珎大姉、道岳昌久居士、快翁一慶居士、雲庵洞麟大姉、白林秋雲大姉、宝隣善室大姉、隆光意温居士、月窓妙寿大姉などの法名と没年月日を、禰占四郎兵衛・仙次郎・四郎次・休八らとの父母・子・妻・妹等の続柄に対応させる。後半は秋月妙光大姉、花栄祥心大姉、心伝妙理居士、寂山了道居士、春夢如幻居士、法雲妙光大姉、本性清心大姉、白室意照大姉、観室安心大姉、道雲本性大姉を掲げ、天明三年から嘉永四年までの忌日と、新四郎・新五右衛門・勘七・助右衛門・新九郎らとの関係を整理する。
永正十三年十一月二十一日 / 冊子 208頁/原整理番号 539
永正十三年十一月二十一日の犬追物手組。肝付又八郎、肝付四郎二郎、肝付新四郎、岸良左衛門二郎らについて担当疋数を記し、検見を大寺駿河守、喚次を島津十郎左衛門尉とする。鹿児島郡で催されたことを末尾に記す。
天正十二年四月十四日 / 冊子 268~269頁/原整理番号 24の19
『上井覚兼日記』天正十二年四月十四日条から、平田新四郎と猿渡越中守が船中を訪れて閑談した記事を抄出する。これにより越中が四月まで島原に在陣したことを確認し、島津家久以下の島原渡海人数を日記の記載と照合して、越中の参陣を考証する。
年月日未詳 / 冊子 117~120頁/原整理番号 23-1
中表紙『禰占氏略系』に続く禰占氏の家伝・系図。上祖未詳の兵右衛門が十八歳で忠政君に出仕を求め、府下の士となって与力を命じられたこと、寛永十二年の戸口改め後も家臣・与力として扱われ、田宅と廩米を与えられた由緒を記す。四郎兵衛は辺川へ移住したが火災で系図を失い、普請方役人として光樹君に仕えた。仁左衛門は南戸役から取次役兼目附役となり、江戸随行中に病死。勘右衛門は九歳で久亮君の小姓となり、のち兵具方兼馬役を務めた。以後、勘七・新次郎・新四郎・新助・助市・仙之助・新九郎・新五右衛門・四郎次らの出生・没年、法名、母方、婚姻・離別、子女を宝暦・明和・安永・天明・寛政・文化・文政・天保・弘化期まで系線で整理する。
延徳二年四月十八日 / 冊子 132~133頁/原整理番号 47
延徳二年四月十八日、志布志で行った犬追物手組。殿八疋、島津大和守七疋、島津新四郎一疋、島津次郎四郎七疋などを記し、検見を島津十郎左衛門尉(義久)、喚次を隈江刑部太輔とする。
永正十三年十一月廿一日 / 冊子 139~140頁/原整理番号 68
永正十三年十一月二十一日の犬追物手組。肝付又八郎殿八疋、肝付新四郎十疋、石崎十郎右衛門尉五疋、薬丸中務丞十二疋などの犬数を列記し、検見を肝付修理亮、喚次を薬丸兵庫允とする。
三月二日 / 冊子 323~324頁/原整理番号 171
児玉四郎兵衛が、筑州老から受けた四百五十斛の配分について児玉新四郎へ書き置く。四十八石は母の隠居分とし、母の庶子分として三十石を萬兵衛に渡すことを相談したが、同意の返事が得られなかった。母の勘忍分七十石や出物の扱い、庶子が籠もった事情も述べ、世間の物沙汰がどうであっても萬兵衛の意向に任せ、その時の公儀の判断にも従うとしている。