真幸吉田天神再興棟札
天正七年二月吉祥日 / 冊子 628頁
真幸吉田の天満大自在天神舞殿一宇を再興した棟札。大檀那として島津義弘・久保・忠恒、当地頭兼類、座主権大僧都頼叶、大工楠田新助を記す。
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天正七年二月吉祥日 / 冊子 628頁
真幸吉田の天満大自在天神舞殿一宇を再興した棟札。大檀那として島津義弘・久保・忠恒、当地頭兼類、座主権大僧都頼叶、大工楠田新助を記す。
年月日未詳 / 冊子 411~415頁
『殉国名薮』は、慶長四年の庄内合戦で戦死した島津方の武士を、月日・戦場・所属や続柄とともに列挙する。六月一日の中田十郎をはじめ、山田城・恒吉・安永・高城・北郷・神田橋など各地で討死した町田新助忠玄、長野藤兵衛、平田三五郎、上井仲五兼政ら多数を掲げ、六月から翌年正月に及ぶ戦没者の記録をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 109~110頁
北原兼守死後に真幸院の家中が分裂し、白坂氏らが島津方へ従った経過を記す。島津方は六月三日に横川城を攻め、北原伊勢守・新助が妻子を自ら討ったのち城外で戦死し、島津勢が城を落として横川を菱刈氏へ恩賞として与えた。
明和四年十月日 / 冊子 62頁/原整理番号 30
川上久国ら四名は、伊地知杢右衛門に御使役分として知行を与え、その支配を命じる。寛永二十年八月三日付で、宛先に高奉行衆として平田清右衛門らの名がある。続く季安の考証では、この引付を平田が当時まだ高奉行を務めていた根拠に用いる。
10月17日(朱注明治3年)知政所 / 冊子 763頁/原整理番号 982の8/整理ID 982-8
有馬新助を鹿屋・姶良・大姶良・高隈の地頭に任じた旨を関係向々へ伝える。十月十七日知政所、明治三年の朱注がある。
辛未正月10日知政所 / 冊子 785頁/原整理番号 1002の4/整理ID 1002-4
出水・野田・高尾野・阿久根の地頭に有馬新助、鹿屋・姶良・大姶良・高隈の地頭に加藤権兵衛を繰替任命し、長島地頭に伊集院直二を任命する。関係向々へ申し渡すよう命じる。辛未正月十日知政所。
天正13年(1585)・寛永5年(1628) / 冊子 381頁/原整理番号 191
焼失した蒲池休右衛門家の系図に基づく家伝と、記主自身の考証を併記した覚書。筑後国蒲池城主の蒲池家は天正年間の合戦で敗れ、備中入道が天正十三年に島津義久へ属して千石を与えられたとする。備中入道の養子新助は山田民部入道性円の兄で小根占地頭、その嫡子が八郎左衛門で、記主は八郎左衛門の猶子だと述べる。備中入道を野田地頭とする家伝は当初不明としながら、寛永五年の御人数賦帳に『野田蒲池備中入道』とあるため正説と考えるに至った。
天正十年十二月十七日 / 冊子 267頁/原整理番号 24の17
『上井覚兼日記』天正十年十二月十七日条から、野久美口で猿渡越中守が一番に攻め上がり、山田新助らと戦った記事を抄出する。敵数百人を討ち留め、家来も多数石打ちに遭いながら一番乗りを果たしたことを、日記に記された参加者と照合して考証する。
天正十二年十月八日 / 冊子 270頁/原整理番号 24の21
『上井覚兼日記』天正十二年十月八日条から、方角見償のため新納武蔵・伊野・山田新助・猿渡越中守が三池へ派遣された記事を抄出する。ほかの見償役の記事と比較し、見償が一方の主取を任された者の勤めで、通常の地頭持には命じられない役であったことを考証する。
天正二年十月十七日条ほか / 冊子 265~266頁/原整理番号 24の14
『上井覚兼日記』天正二年十月十七日条から、高江・川辺間の地頭移動案と有田氏の所領事情を抄出する。猿渡越中の出生・父猿渡藤三郎の戦死、加世田の村給付と地頭就任を関連記録で照合し、越中が加世田に居住した由緒を考証する。
明和二年乙酉九月廿五日(朱注) / 冊子 106~107頁/原整理番号 216/整理ID 216
藩主が着城した時の年頭御礼を受ける規式について、古帳と記録奉行への照会で先例を調べた覚書。古帳は断片的で、古来の作法を定めた記録や書留は見当たらないとする。宝永元年、大玄院(綱貴)の家督中に浄国院(吉貴)が着城して諸地頭の年頭太刀を受け、同年七月十一日に二日組の諸士の御目見を命じた記録を挙げる。宝永二年九月朔日の着城・同月十日の年頭御礼、宝永四年九月朔日の同様の御受と諸士の節句日御目見、宝永六年八月十三日の外城衆御目見の指示を列記する。ただし最後の実施の跡はなく、外城寺院衆の年頭拝謁を命じたのもこの時かとする。嶋津将監から年首の礼をその後も漏れなく行うと聞いたこと、正徳五年八月晦日着城時に諸地頭の納太刀を命じたこと、山田新助らの持参太刀と享保十八年の同類例を挙げる。浄国院から当代まで帰着時の御受の筋はあるが、近代の年頭御礼の順序とは並ばないともいう。去る未九月の在府時には、江戸詰家老・家格ある者の太刀進上、目付以上等の初月次御礼、当国の寺院・組中諸士・外城衆の登城祝儀などを行い、祝儀帳を江戸へ送った。着城時の一門・役人・諸地頭・家筋付・町人等の御目見が年頭規式と重なる状態を述べ、在府時の区分に即して着城時の納太刀と年頭御礼を整理する案を吟味する。ただしその年の年頭規式に欠ける部分も生じ得ると認める。浄国院以来代々受けてきた規式なので、今後は藩主の賢慮次第で命じるべきと家老中にも相談したと結ぶ。朱注では酉九月廿五日、宮之原甚五太夫が調査結果を取り次ぎ、吟味のとおり命じる旨を受け、式部が承知したと記す。
年月日未詳 / 冊子 490頁/原整理番号 491
加世田士人相徳新助の蔵本による人名書上。三原左衛門が使者として島原へ渡った際、加世田から従った相徳新助・田実五右衛門・宮原佐吉兵衛・松田与七左衛門ら多数の名を列挙し、これらの人数が島原へ渡ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 117~120頁/原整理番号 23-1
中表紙『禰占氏略系』に続く禰占氏の家伝・系図。上祖未詳の兵右衛門が十八歳で忠政君に出仕を求め、府下の士となって与力を命じられたこと、寛永十二年の戸口改め後も家臣・与力として扱われ、田宅と廩米を与えられた由緒を記す。四郎兵衛は辺川へ移住したが火災で系図を失い、普請方役人として光樹君に仕えた。仁左衛門は南戸役から取次役兼目附役となり、江戸随行中に病死。勘右衛門は九歳で久亮君の小姓となり、のち兵具方兼馬役を務めた。以後、勘七・新次郎・新四郎・新助・助市・仙之助・新九郎・新五右衛門・四郎次らの出生・没年、法名、母方、婚姻・離別、子女を宝暦・明和・安永・天明・寛政・文化・文政・天保・弘化期まで系線で整理する。
年月日未詳 / 冊子 401~402頁/原整理番号 131
天正四年の三之山などの退去と、島津方の番衆・祝宴を記す日記。仲秋二十三日に城を退いたが伊東の迎えが来ず、二十四日には敵が三之山と須木を捨てたため番を置いた。二十五日に忠平が三之山へ籠もり、翌日は一門・諸地頭が談合し、二十八日に太守が出向いて川田駿河守が太平を祝った。山田新助・三原右京亮の膳と三献、忠元を含む参会者の太刀進献を挙げる。次第は残っておらず、夜は飯野へ赴いたと記す。
年月日未詳 / 冊子 69~70頁/原整理番号 60
天正六年頃の島津義久代について、川上久時・伊集院忠棟ら老中八人と、新納・鎌田・本田・伊地知ら使衆八人を分けて列挙する。加治木衆大村市兵衛重頼の旧記から原文どおり写した交名である。
年月日未詳 / 冊子 394~395頁/原整理番号 359
二十二日、天草四郎ら一万余の一揆勢が富岡城を再攻撃した経過を記す。十九日の退却後に攻撃を予告した一揆勢は志岐村で竹束などを準備して押し寄せ、城兵は鉄砲・大木・大石で防戦する。攻撃が水口へ回ると原田伊豫や島田・並河らの指揮下で諸士が出撃し、岡原・上月の戦死、古川の負傷と十六歳の九郎市による救出などを列挙する。多勢に圧迫された守備側が本丸内へ引き入るところまで叙述する。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 654~668頁/原整理番号 673
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から有馬へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。末尾で総人数五万七千七百四十一人、その内訳を人躰三千七百五人・小者夫五万四千三十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 122~123頁/原整理番号 24
床波佐次右衛門を起点に、嘉左衛門以下の床波氏諸流を配した系図。佐次右衛門は元禄三年生・安永四年五月没、嘉左衛門は享保元年生で、助兵衛を養子とし、女子は久木田覚助に嫁いだことを記す。兵次郎は次右衛門へ、与助は武右衛門へ、正助は勘介から、権左衛門は佐次右衛門へ、権助は清右衛門へ改名した。仁兵衛が兄次右衛門の後嗣となった例、養子・婚姻・母方、男女の子女を系線で示し、元禄・享保から宝暦・明和・安永・天明・寛政・享和・文化・文政期までの出生・没年を列記する。
天正十二年四月十四日 / 冊子 268~269頁/原整理番号 24の19
『上井覚兼日記』天正十二年四月十四日条から、平田新四郎と猿渡越中守が船中を訪れて閑談した記事を抄出する。これにより越中が四月まで島原に在陣したことを確認し、島津家久以下の島原渡海人数を日記の記載と照合して、越中の参陣を考証する。
天正十二年八月二十六日条ほか / 冊子 269~270頁/原整理番号 24の20
『上井覚兼日記』天正十二年八月二十六日条以下から、鹿児島より帰来した飛脚が親貞・忠棟の書状をもたらし、出陣や秋月方との交渉を相談した記事を抄出する。軍談や諸所番賦に猿渡越中守がたびたび加わり、主要用人衆に次ぐ四人の一人として扱われたことを考証する。
応安四年十一月十四日 / 冊子 59頁
今川義範が、武光以下の凶徒が城へ寄せて合戦中であるとして、佐伯・蒲江辺へ早急に馳せ越し忠節を尽くすよう催促した軍勢催促状。
慶安元年九月廿六日 / 冊子 167頁/原整理番号 119
慶安元年九月二十六日の「初日一番四角之外」犬追物手組。光久様六疋、島津又左衛門尉五疋、島津中務少輔三疋などを記し、検見を島津圖書頭、喚次を蒲池新助とする。