酒井忠行書状
(寛永八年)四月廿八日 / 冊子 207~208頁
翌晩の伺候を求められたことに答え、養生に努めているが病状がまだはっきり回復していないため出席できず、伊勢兵部にも事情を伝えたと述べる。後日改めて召し寄せられた際に伺う意向を示した酒井忠行の書状。
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(寛永八年)四月廿八日 / 冊子 207~208頁
翌晩の伺候を求められたことに答え、養生に努めているが病状がまだはっきり回復していないため出席できず、伊勢兵部にも事情を伝えたと述べる。後日改めて召し寄せられた際に伺う意向を示した酒井忠行の書状。
年月日未詳 / 冊子 187頁
寛永八年正月三日、家久が年頭の拝礼のため将軍家光の広間出御に参上し、太刀を献じたことを記す。酒井阿波守忠行が取次ぎ、諸侯も席次に従って拝謁した。
年月日未詳 / 冊子 155頁
七夕の契り、暮春の桜、花への思いなどを題材に、家久・光久・忠孝・又三郎忠行が詠んだ和歌を収める詠草。
年月日未詳 / 冊子 538頁
越前島津氏の元祖・忠綱について、四郎左衛門尉・周防守などの官途を記し、忠行・忠景らへ続く系統の起点を示した譜。
年月日未詳 / 冊子 620~624頁
新納氏三代忠臣の二男忠匡を祖とする支流系図。忠匡の三俣戦死、忠申以下の婚姻、志布志落城時に出奔した其阿、永吉で戦死した久武、久景へ続く家系を記す。巻二十八の冒頭に当たる。
年月日未詳 / 冊子 225頁
島津忠行を三郎左衛門尉・周防守とし、母を高和左衛門尉有景の女、越後局の法名を仏如と記す。建長から文応年間に鎌倉で宗尊親王に奉仕した出自・経歴記事。
年月日未詳 / 冊子 225頁
建長八年六月十九日の放生会で、先例どおり供奉人百六十一人が定められ、島津忠行がその一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
建長八年七月十九日の将軍家参宮で、雨天のため布衣供奉となった際、島津忠行が供奉人に加わったことを記す。行列と装束の変更事情を伝える。
年月日未詳 / 冊子 230頁
康元二年正月二日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠行が直垂姿で左右の供奉人に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 230頁
正嘉元年十一月一日の大慈寺供養で、曼荼羅供が行われ、島津忠行が四番の騎馬供奉人に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 232頁
正嘉二年正月一日の御家人着座で、庭上の東西に分かれたうち、島津忠行が東座百十八人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 232頁
正嘉二年六月十九日の勝長寿院供養で、曼荼羅供の大阿闍梨を松殿法印良基、職衆を二十口とし、島津忠行が将軍家供奉の四番に列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 232頁
正嘉二年八月の鶴岡八幡宮放生会参宮で、島津忠行が供奉人百二十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 237頁
正元二年正月一日の坑飯で、両国司・評定衆以下が布衣で出仕し、島津忠行が庭上に列した八十六人の一人であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 300頁
越前島津忠行について、播磨国下揖保庄の地頭職を世々住播州としたこと、越前島津氏・忠行の系譜と所領伝承を記す短い記事。
正応元年六月日 / 冊子 347頁
串木野太郎忠行後家尼如阿が、歴代の院宣・国宣・大宰府宣等に基づく串木野の知行を主張し、新田宮祈祷神官らの濫訴・押妨を停止して所領を安堵するよう求めた申状。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
三月二十九日、家光が家久嫡子又三郎忠元の四月一日元服を命じたことを記す。元服当日、又三郎は松平姓と光久の名を賜り薩摩守・侍従従四位下となり、家久は大隅守、忠直は式部大輔、忠紀は玄蕃頭となった。献上・拝領、酒宴、西丸で秀忠から刀剣を賜った経過も詳記する。
年月日未詳 / 冊子 230頁
康元二年三月十四日に同年を正嘉元年へ改元したことを記す短い改元記事。
文書本文の日付:弘安七年二月二日 / 冊子 515~516頁/原整理番号 八二一/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0821
いふすきのこほり・はらたの名に関わる田畠等について記す置文案。 さんふんいちにわけてと記し、ちゃくし二らうニゆつると述べる。 さきの譲渡に関わる状と後代の扱いに触れるが、分配表現・仮名の釈義は保留する。 後日のための状として平忠行の名義と在判表示を掲げる。
文書本文の日付:弘安七年二月二日 / 冊子 516頁/原整理番号 八二二/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0822
いふすきのこほりの原田名の田畠山野并方々の免田等について記す置文案。 忠行がせんしよさうてんの本領と記し、参分壹について譲渡・公事・勤仕に関わる条件を述べる。 小字の御たうその田の但書は、わけしやうのほかなりとし、対象に限定を付す。 弟妹と分の内の扱いを記し、後日のための状とする。仮名の条件句を断定訳せず保持する。
年月日未詳 / 冊子 225頁
越前島津氏の忠行・忠泰・忠景らの系譜と官途を記す記事。忠景を五郎左衛門尉・大夫判官とし、歌人として和歌が代々の撰集に入り、建長から文永年間に鎌倉へ出入りして宗尊親王に奉仕したことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 229頁
越前島津氏の忠行・忠泰・忠景の系譜関係と、忠泰を四郎左衛門尉とする官途を記す短い系譜記事。
正応四年十二月七日 / 冊子 366頁
播磨国下揖保庄半分の地頭職を、父左衛門忠行の譲状に基づいて相伝領知させる将軍家政所下文。
元亨三年三月四日 / 冊子 493頁
島津道慶が訴える伊集院島廻田地について、世主彦三郎忠行の請文を進上し、奉行所への披露を求めた頴娃久純の請文。
享保十三年(発給月日記載なし) / 冊子 790頁/整理ID 2094
忠行の手鑓一本について、逆輪の銀、赤銅の胴かね、太刀打金すりはがし、銀石突鉄など、拵えの金具と仕上げを列記する。
文政6年1月27日・晦日、2月朔日(年は末尾朱注) / 冊子 649~653頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1911
備前守から桃次郎へ道具を送り、初めて霞ヶ関邸を訪れた際の応接・盃事・贈答を記す。正月二十七日、用人田代半七を使者に安否の沙汰一通、腰物・行列道具等を送った。書類は口上書一通、目録一通、拵目録三通、馬覚書一通、道具類覚書一通で、重濱三十郎による道具の見締めを記す。品物は康光の刀・弘行の脇差・盛重の児刀各一腰、扇子一箱、小袖三重、帯一筋、上下三具、行列諸道具一通、栗毛の馬一匹、鯛一折、樽一荷。刀は代金十五枚、脇差は左弘行・代金五十枚・折紙付き、児刀は代金十五枚・折紙付きとする。拵には秋草や獅子、鞠・絵蜘籠などの意匠、赤銅・金無垢・白鮫・黒塗・煮緒・絞子袋等を詳記し、吉岡因幡介、後藤光侶、小刀の摂津守源忠行・来金道・平安城来政行、鍔の越前紀内などの名を記す。馬札は「仙臺立松倉栗毛」、四歳・五寸五歩。別冊の品はここでは不詳とする。 正月晦日、翌朔日の初参りを用人野村市右衛門が知らせ、桃次郎が直接答え、上野帯刀が取り合わせた。二月朔日六半時に高輪を出発し、通町松坂屋脇・幸橋御門を経て霞ヶ関邸へ向かう。着服は絹羽織・半袴。迎えの用人水野頼母、刀番三人、小納戸早川小市郎・村岡進などの供を記し、岩元太右衛門をはじめ河村宗濱・野崎良右衛門・荒川仲蔵、山田新之助・櫻井半之丞らが出迎える。林五左衛門をはじめ用人・留守居・諸役人・諸士も迎え、桃次郎は鷹の間で長袴に替えて備前守と対面した。太刀目録を備前守へ直接渡し、用人が披露する。 茶・火鉢・煙草盆、肴、吸物、銚子、雑煮、土器三方等の取扱いと引渡しを記し、備前守と桃次郎が盃を交わし、初献に二献を加えて各三献として納める。黒田甲斐・木下左兵衛の二人の衆へ挨拶し、大奥で奥方とも対面して同様に盃を交わす。その後半袴に替え、備前守・奥方とともに二汁五菜の祝料理をとり、堀本一甫老の二の間で一同が料理を受ける。 用人林五左衛門・田代半七から肴各一折が披露され、こちらから銀子を遣わす。桃次郎の初参りの進上品は備前守へ太刀一腰・馬代黄金十両、奥方へたい一折。岩元太右衛門を通じ用人へ持たせて回し、備前守には別段、縮緬五巻・刀懸一箱・鯛一折も引き渡す。桃次郎から奥方への「ちりめん三くわん・香棚一はこ」に対し、備前守から印籠一提・博多織紙入地二切・通乗三所物一箱・鯛一折、奥方から高取焼香爐一はこ・茶子上下地三巻・たい一おりが桃次郎へ届く。 七時過ぎに表門を出て、霞ヶ関から虎御門・西久保・三田、本札の辻を通り、先に送られた行列道具も持たせて帰った。供の人数に応じて各人へ遣わした物は別冊にあり、ここでは不詳とする。末尾の文政六年は朱注。後藤光侶の末字、重濱三十郎の役名第一字、拵の「鵐目」と読める字形は留保する。
正治元年、建保元年12月19日、建保2年正月3日、建保7年2月13日、承久元年9月6日・8日、建暦3年5月2日・3日・9日、承久3年7月11日、仁治元年、嘉禎4年4月2日、建長元年8月9日、文永3年6月10日、文永4年4月24日、文永8年、弘安6年7月23日、弘安8年11月17日、正応5年11月7日・12月7日、嘉元2~3年、元亨元~2年、正中2年、建武4年、貞和2~7年、観応2~3年、正平9~12年、永徳3年、応永3~22年、康正2~3年、明応8年8月6日、安永3年秋 / 冊子 45~55頁/原整理番号 14-1
二階堂維遠流のうち、行光から行次までを『吾妻鏡』の記事と家蔵文書の目録を交えてたどる長編系図。行光の将軍御成・鶴岡八幡宮供奉・上洛使節、元行の和田義盛の乱での戦功と相模国懐島殿原郷・三河国重原荘の地頭職、行氏・行景の所領相続と幕府下文を記す。泰行については蒙古襲来への警固命令を受け、忍照尼の判断と久明親王の許可により薩摩国阿多北方へ下向した経緯を掲げる。行雄・行仲は建武・観応期に足利尊氏方として軍功を挙げ、尊氏・直義・直冬らの御下文・感状を伝えたとする。後半は行貞の田布施城籠城と島津元久への降伏、市来・阿多への移住、行隆の田布施城奪回未遂、忠行の足利義政供奉、行次代の島津立久・忠昌関係文書までを収める。
年月日未詳 / 冊子 327頁/原整理番号 1
忠元の幼名安萬丸、次郎四郎・刑部大輔・武蔵守への改名と入道拙齋の称号、出生、父母、死去、子女を記した系譜。忠元は周防守久友の娘を母、清水の忠辰を父とし、大口の専念寺に墓があり、寺への月牌料も載せる。長男の安芸守とその死、忠智・忠行などの分族、娘の婚姻、泰久との関係を記し、大慈寺龍雲老が忠行の孫であることにも触れる。
本文末年紀(805の付弘安八等は年紀柱の刊本表示を保持):永仁七年三月十九日 / 冊子 513頁/原整理番号 八一四/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0814
亡父忠行の売地である秋久名内の沽却田園等について、忠景と忠俊の訴陳を記す。 純忠の承諾を記し、「當知行内三分一」と「矢大夫入道作大増田冊中」の書付を挙げて避与を述べる。避与先・書付の帰属は留保する。 その田の押作物に違乱を及ぼしてはならないと記す。 不知行所の下地・押作物については寄り合って沙汰すべき旨を留保し、平忠俊が去状を作る。
本文末年紀(805の付弘安八等は年紀柱の刊本表示を保持):永仁七年三月十九日 / 冊子 513頁/原整理番号 八一五/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0815
祖父忠行の時の秋久名内の沽却田園等について、忠景・忠俊の訴陳を記す。 承諾を記し、「彼賣地等三分一内當知行分」と「矢大夫入道作大増田冊中」の書付を挙げて避与を述べる。避与先・帰属は留保する。 当知行分を対象として避与を記し、不知行所をこれと分けて扱う。 不知行所は寄り合って沙汰すべき旨を置き、平純忠が去状を作る。
記事成立日:未確認 / 冊子 604頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A063
忠行譜中の区分で、義政公の大将御拝賀記一巻を挙げる。 正文が家に所蔵されると述べる。 「記左」により後掲の拝賀記を導入する。
拝賀日記載:康正二 七月廿五 / 冊子 604~607頁/原整理番号 一〇八/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0108
康正二・七月廿五の大将御拝賀について、平氏速水仲明進記之との記載を置き、散状の扈従公卿を列挙する。 殿上前駆・地下前駆などの役名と担当者、将監・将曹・府生、御随身の配列、車・馬上の別を記し、別に「一矢」を掲げる。 官人欄に二階堂大夫判官忠行等を挙げ、御路各区間の配置、帯刀、衛府侍十人と馬上供者数百人、騎打布衣・侍所等を記す。 六具甲冑で小路を陸にて渡る申時の出仕を述べ、大略の次第を記して進覧する旨と、関白・准后・摂政などの見物に関する叙述を続ける。
弘安六年十月六日 / 冊子 314~315頁
沙弥行照の京都宿所へ盗賊が入り、御下文・安堵御下文・越後国関係文書など重書物を盗まれたため作成した紛失状。所領・相伝に必要な文書を列挙し、先例により紛失の事実を公験・播磨国下揖保庄地頭の証判で確認する。多数の有識者・奉行人の加判を受け、後日の所領訴訟に備える。
元文二年三月十八日 / 冊子 432頁/整理ID 1019
越前島津家の系図・文献が薩府官庫に伝わる経緯と家系断絶後の処置を述べ、継豊が弟壮之助を後嗣として家名を再興させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 125~136頁/原整理番号 26
『吉富氏系図写』の中表紙に続き、頴娃三郎忠長の六男・薩摩六郎忠直を祖として、薩摩氏吉富流の諸家を近世後期まで展開する系図。薩摩郡本地頭、串木野若松・吉富名・羽島などの知行、加世田城・日州飯野・関ヶ原・目白坂等での軍役と戦死、朝鮮出兵・琉球渡海、加治木・帖佐・平松・蒲生・高岡への移住と奉公を記す。各代の通称・官途・入道名、妻の出自、養子・分家・家督相続、出生没年・法名・墓所のほか、御右筆、糺明奉行、物奉行、山奉行、高奉行、小番、進物番、横目、勘定方小頭、代官など近世の役歴を詳載する。本文は冊子p136で終わり、後続2頁の『諸家系図 三』表紙・収録氏名一覧は本系図に含まれない。
平安末~近世の記事(承久兵乱・寛元4年12月4日等) / 冊子 445~452頁/原整理番号 14
桓武天皇・葛原親王・高望王から国香・貞盛らを経て指宿氏へ至る平姓の長大系図。良時(伊佐平次)が武蔵国から薩摩へ下向し、阿多郡領を与えられた由緒を記し、三浦平大夫為通、鎌倉・三浦諸流との系譜を介して薩摩の諸家へ展開する。各系線には鎮守府将軍、伊予守・駿河守・隠岐守などの官途とともに、指宿本地頭、頴娃本地頭、薩摩郡本地頭、河辺本地頭、谷山郡司、水方名主、祁答院郡司等の職名を付す。承久の兵乱で京方に属したため河辺を没収された久道、兵乱時に戦死した者、市来や和泉で討死した者、鎌倉より薩摩守富澄討伐に下向して戦死した者など、中世の軍歴・所領喪失を系譜に織り込む。指宿・頴娃・薩摩郡・河辺・谷山・加治木・肥後菊池・阿多等へ枝分かれした多数の子孫について、通称・地頭職・郡司職・養子・婚姻・戦死を記し、近世の指宿郡司忠秀、加治木新六實平妻らまで系線を延ばす。
享保十三年(発給月日記載なし) / 冊子 790頁/整理ID 2093
宗信誕生の祝物として、忠行の手鑓一本、対の鑓二本、島田住源義助の長刀一振を列記する。
年月日未詳 / 冊子 246頁
島津重賢を四郎、初名定賢・七郎とし、弘長から文永年間に鎌倉へ出入りして宗尊親王に仕えたことを記す人物経歴記事。
年月日未詳 / 冊子 232頁
正嘉二年十一月一日の将軍家出仕で、御家人が庭上の東西に着座し、島津忠景が東座百二十八人の一人として列したことを記す。原画像の譜名は「越前島津忠行弟忠景譜」と読める。
年月日未詳 / 冊子 538~539頁
越前島津氏二代忠行の弟忠景が、続古今・続拾遺・新後撰・玉葉・続千載・新千載・新拾遺・新続古今などの勅撰和歌集に採られた恋・哀傷・雑・羇旅歌を集成した諸和歌集抄。祖父忠久の賀茂祭主奉仕を詠む歌も収める。