町田忠綱譜
年月日未詳 / 冊子 327頁
町田久倍の長男・町田忠綱が、天正十五年五月八日に島津義久の太平寺での豊臣秀吉への降参に供奉したことを記す短い譜記事。父久倍・弟久幸とともに義久の服属儀礼を支えた町田氏一族の役割を示す。
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年月日未詳 / 冊子 327頁
町田久倍の長男・町田忠綱が、天正十五年五月八日に島津義久の太平寺での豊臣秀吉への降参に供奉したことを記す短い譜記事。父久倍・弟久幸とともに義久の服属儀礼を支えた町田氏一族の役割を示す。
年月日未詳 / 冊子 727頁
町田久倍の子・忠綱が文禄二年春に朝鮮へ出陣し、旧都で島津義弘・久保に拝謁した後、両公に従って巨済島の唐島へ移った経過を記す。 忠綱は唐島の陣中で病死し、享年二十九歳だったという、若い家臣の朝鮮在陣と最期を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 592頁
大田吉兵衛忠綱は、慶長五年秋に石田三成が関東へ兵を起こすと、阿多長寿院らと帖佐を発し、島津義弘(惟新)に従って美濃国関ヶ原へ向かった。西軍敗北後も義弘の側を離れず大軍中を切り抜けて帰国し、軍功により感状を重ねて受け、百石を与えられた。
六月八日 / 冊子 471頁
将軍が機嫌よく過ごしていることを伝え、島津光久が道中無事に到着したかを尋ねる。出立時の言葉どおり使者と泡盛一甕・赤貝漬一壺を贈られた心遣いへ謝意を示した向井忠綱書状。
年月日未詳 / 冊子 538頁
越前島津氏の元祖・忠綱について、四郎左衛門尉・周防守などの官途を記し、忠行・忠景らへ続く系統の起点を示した譜。
年月日未詳 / 冊子 327頁
町田氏の梅久・忠栄・久徳・久倍らの系譜と官途を掲げたうえで、久倍の奉公を詳述する。久倍は島津義久の豊肥筑六国への出兵に従軍し、九州征伐後は伊集院地頭として太平寺へ向かう義久の道中警固を担当、二子忠綱・久幸とともに供奉した。さらに義久の上京にも父子で従い、聚楽第で秀吉に拝謁した際には伊集院幸侃ら少人数のみが近侍したという。系図と服属期の随行履歴を併記する記事。
年月日未詳 / 冊子 283頁
『大田忠好譜』の記事。慶長三年冬、明の艨艟に水路を遮られた順天の五将を救うため、島津義弘が敵船へ挑戦した際、大田忠綱が義弘の船上で戦ったとする。忠綱は左額に矢傷を負ったが、義弘が自ら治療して回復し、その後は伏見で供奉した。
年月日未詳 / 冊子 225頁
大田忠角譜の記事。忠角は大田吉兵衛忠綱の養子で、実父は島津実久の庶子・三葉左近太夫忠継入道竹庵であり、島津義弘から賜った法度の条目を深く尊び櫃に収めて伝えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 533頁
島津氏二代忠時の子忠綱を祖として、忠秀・忠大らの官途と子孫を記した宇宿氏系図抄。
年月日未詳 / 冊子 533頁
越前島津氏の忠綱から、知賀・宇宿を称した忠継らを経て宮里久時へ至る系統と、嫡庶の断絶を記した宮里氏系図抄。
年月日未詳 / 冊子 562頁
大田氏五代忠好から忠綱・忠角へ続く系統を記し、忠綱に男子がなかったため島津義弘の命で三葉忠躍の三男忠角を猶子として娘婿に迎えた経緯を載せる。忠角死後に娘が桂忠培へ再嫁したことも記す。
年月日未詳 / 冊子 564~566頁
島津国久三男忠綱を祖とする大野氏系図。忠宗に男子がなく樺山久高を婿養子としたが、文禄元年に忠宗が誅されたため離縁となった経緯を記す。忠宗の娘妙春は上方生活の経験を買われ人質に供奉し、帰国後に家を再興して三原重鏡の二男久行を養子に迎えた。
年月日未詳 / 冊子 596頁
天正七年生まれの大田忠好について、慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で強敵一人を討ち、島津義弘(惟新)の側を離れず帰国したと記す。その軍功を賞され、感状と新恩五十石を与えられた。
慶長五年十月十日 / 冊子 596頁
島津義弘(惟新)が大田弥市こと大田忠好へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長十四年七月朔日 / 冊子 225頁
慶長十四年七月一日、本田親存・比志島国詮が、大田吉兵衛忠綱の養子となった大田忠角に対し、奉公を疎略にせず父母に背かないこと、悪友を避け学問に励むこと、夫婦和合を守ることなど、日常の心得を列挙して遵守を命じた連署覚書。
年月日未詳 / 冊子 122頁
『越前島津忠綱譜』の記事。承久三年、父忠久が越前国守護職に補任され、忠綱が守護代として越前へ赴いたため越前島津氏を称したこと、頼経・頼嗣・宗尊親王に近侍したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 171頁
越前島津忠綱譜所収。嘉禎三年、将軍頼経の上洛に島津忠綱が供奉し、清撰の姓を称したこと、供奉人数等を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 171頁
越前島津忠綱譜所収。嘉禎四年、将軍家が京都から鎌倉へ戻った際、忠綱が左衛門尉として供奉列に加わったことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 199頁
越前島津忠綱譜所収。宝治二年、鶴岡八幡宮放生会に将軍家が出御し、島津忠綱ら随兵十一人が供奉したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 199頁
越前島津忠綱譜所収。宝治二年十二月、豊後左衛門尉忠綱が高麗山山柄献上に関する将軍家の行事に勤仕したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 202頁
越前島津忠綱譜所収。建長二年正月、将軍家が鶴岡八幡宮へ参詣した際、島津忠綱が左衛門尉として供奉列に加わったことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 202頁
越前島津忠綱譜所収。建長二年正月、将軍家の御行始に島津忠綱が二棟御方の供奉人として参仕したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 202頁
越前島津忠綱譜所収。建長二年十月、将軍家が相州新造第へ渡御した際、島津忠綱が供奉人として加わったことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 202頁
越前島津忠綱譜所収。将軍家の移徙・御出に際し、島津忠綱が供奉人として随行したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 214頁
越前島津忠綱の女子二人の婚姻先を小田常陸介・小田筑後守と記し、建長四年五月十四日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、忠綱が三十八人の供奉者に加わり、殿上人に次ぐ直垂帯剣の列にいたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁
建長四年七月二十三日、将軍家の方違えに際し、御後の騎馬十八人の一人として島津忠綱が供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁
建長四年八月一日、按察親王家の征夷大将軍任命に伴って予定された鶴岡八幡宮への拝賀が停止されたこと、供奉人として島津忠綱が予定されていたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 214頁
建長四年十二月十七日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が御後の布衣四十人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 217頁
建長五年三月十三日の将軍家御行始で、島津忠綱が布衣四十四人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 217頁
建長五年七月十一日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が御後の布衣五十九人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 222頁
建長六年七月十六日、鎌倉中の物忿を鎮めるため諸人が群参した折、六十五人の一人として島津忠綱が将軍家に供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 222頁
建長六年八月十五日の鶴岡八幡宮放生会で、島津忠綱が将軍家の御後、布衣の供奉人に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 224頁
建長八年正月一日、将軍家への年始出仕で島津忠綱が布衣十二人の供奉者に加わったこと、同年十月五日に年号が康元へ改められたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 224頁
建長八年正月十一日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が御後の布衣廿九人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 224頁
建長八年六月十九日の放生会で、島津忠綱が越州任例の供奉人百六十一人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 225頁
建長八年八月十五日の鶴岡八幡宮放生会で、将軍家の出御に際し、島津忠綱が五位十五人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 229頁
正嘉元年四月廿三日、鶴岡で将軍家が衣冠で臨んだ御鞠の際、見証の数輩の中に島津忠綱がいたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 229頁
正嘉元年十月一日の大慈寺供養で、将軍家の出御に際し、島津忠綱が御後の布衣十八人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 230頁
康元二年正月二日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が五位十八人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 231頁
正嘉元年十一月十二日の幕府行事で、将軍家の供奉・着座に島津忠綱が加わったことを記す短い譜記事。
年月日未詳 / 冊子 231~232頁
正嘉二年六月十九日の勝長寿院供養で、曼荼羅供が営まれ、将軍家出御の際に島津忠綱が御後の布衣十二人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 232頁
正嘉二年八月の鶴岡八幡宮放生会参宮で、島津忠綱が散状に掲げられた供奉人百二十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 232頁
正嘉二年八月十五日の鶴岡八幡宮放生会で、将軍家参宮の御後、島津忠綱が五位十六人の一人として供奉したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 237頁
正元二年正月一日の坑飯で、両国司・評定衆以下が布衣で出仕し、島津忠綱が庭上に列した八十六人の一人であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 237頁
正元二年正月十一日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が御後の五位布衣二十五人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 237頁
文応元年十一月十七日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が御後の供奉人三十二人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 239頁
文応二年正月一日、将軍家と中御所の御行始で相模禅室亭へ赴いた際、島津忠綱が中御所供奉十一人の一人として列したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 239頁
文応二年正月七日の将軍家による鶴岡八幡宮参詣で、島津忠綱が布衣の五位十一人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 239頁
文応二年二月七日、将軍家御息所の鶴岡八幡宮参詣に際し、島津忠綱が帯衣二十六人の供奉者に加わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 240頁
弘長元年八月十五日、中御所が鶴岡八幡宮へ渡御した際、島津忠綱が布衣二十一人の供奉者に加わったことを記す。