島津忠良書状
八月十日 / 冊子 344~345頁
島津忠良が摂州忠俊へ、唐船着岸の件で先に格別の取り計らいを受けた礼を述べ、返礼が遅れたことを詫びた書状。水母巻を贈り、今後の音信を期して結ぶ。
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八月十日 / 冊子 344~345頁
島津忠良が摂州忠俊へ、唐船着岸の件で先に格別の取り計らいを受けた礼を述べ、返礼が遅れたことを詫びた書状。水母巻を贈り、今後の音信を期して結ぶ。
十二月十四日 / 冊子 345頁
島津忠良が忠俊へ、伊集院で約束した川野での千句興行を来る七日から行うので、五日頃に来れば六日から相談できると伝えた書状。発句ができれば示してほしいと求め、再会を期す。
長禄四年十月廿六日 / 冊子 439~440頁
左馬助忠俊が、八幡三所大菩薩をはじめとする諸神の罰を掲げ、誠実に申し合わせを守ることを誓った起請文。
永正十六年十二月吉日 / 冊子 623頁
藤原忠俊が新田宮の御宝前に寄進を行い、天長地久・円満と子孫繁昌、息災延命を祈願した寄進状。
年月日未詳 / 冊子 707頁
忠俊が、文武を備え仏法を尊んだ松齢自貞庵主(島津義弘)の徳と死を悼み、露・秋・月・法の道などを詠み込んだ追悼和歌。
(元和五年)九月九日 / 冊子 717頁
酒井忠利・青山忠俊が、城郭用の板三千枚を進上するとの島津家久の申し出を承知し、材木奉行へ伝達したことを報じた連署状。
年月日未詳 / 冊子 782頁
島津忠俊の近習であった池内佐渡について、強弓・怪力で勝久の時代に名を挙げた人物として伝える。
年月日未詳 / 冊子 782~783頁
島津忠俊・勝久の時代に伊集院与左衛門らが果たした奉公を聞き取った記録。各地への軍役動員、城攻めと弓矢の働き、伊集院伊賀ら一族との関係、知行地の保持と戦功に対する恩賞を挙げ、主家交替期の奉公実績と所領の由来を伝える。
永禄十一年二月廿一日~十二月十九日 / 冊子 185~186頁
永禄十一年二月二十一日の飫肥方面の合戦を中心に、同年各月の戦死者を日付別に列挙する交名抄。北郷忠俊・久周、本田親豊、土持頼綱、和田匡郷ら多数のほか、三月九日の寺山直久、同月二十三日の佐多経久、八月・十二月の戦死者を記す。
元亀二年九月廿七日・十一月廿日 / 冊子 256頁
元亀二年の島津方戦死者を日付別に記す。九月二十七日に島津五郎四郎忠俊、十一月二十日に萩原又左衛門・武石見守・和気与左衛門らが戦死したことを掲げる。
年月日未詳 / 冊子 305頁
得能氏記録。越後堀家で堀忠俊と家臣堀直寄・堀監物らの間に権威争いと讒言が生じ、家中統制が崩れた経緯を記す。幕府の裁定、改易・追放、関係者の処分や後日の消息を詳述し、家臣の忠節と主家統治を論じる。
年月日未詳 / 冊子 225頁
北郷忠亮の家老・北郷源左衛門忠俊が、忠亮と亡父忠能の代から一家の権勢を握り、上を軽んじ下を苦しめたとして、家久は八月六日に忠俊を処刑し、翌七日には父忠泰と弟平左衛門も都城で処刑したと記す。
寛永八年八月七日 / 冊子 225~226頁
北郷源左衛門忠俊の罪状を列挙する。讃州の殺害・成敗への関与、鹿児島や外城との往来遮断、殿役の不履行、公儀への祝儀使者の遅延、家老を無視した専断、家中の言論統制、財部宗三の成敗、出雲守の鹿児島屋敷普請の妨害、山城殿への根拠のない毒害嫌疑などを挙げ、北郷家を危うくしたとして成敗を命じた覚書。
年月日未詳 / 冊子 811-813頁
恒吉八幡宮への法楽として島津一門・家臣らが詠んだ和歌集。卯の花や夏日などの題をめぐり、龍伯・少将をはじめ多くの詠者が季節の景物と信仰を詠み連ねる。
正月十二日 / 冊子 664頁
徳川家光が、年頭の祝儀として島津家久から使者を通じて贈られた太刀一腰と馬一匹を喜び、酒井備後守と青山伯耆守から詳しく伝えるとした直書。
(元和八年)十二月廿四日 / 冊子 786~787頁
徳川家光が島津家久へ、歳暮の祝儀として小袖五つを贈られたことへの喜びを述べ、詳しくは酒井備後守・青山伯耆守から伝えるとした直書。
年月日未詳 / 冊子 97~100頁
寛永六年六月二十二日、島津家久らが催した懐旧連歌。涼しさ、露、月、雪、松、旅、別れ、無常、四季の景物などを詠み継ぎ、各句に作者名を付して長い連歌一巻を構成する。
年月日未詳 / 冊子 776頁
伊集院某が貴久・勝久の時代に一族が果たした奉公を列挙した書出。谷山・鹿児島方面への軍役、城攻めと夜襲、戦場での負傷、伊集院衆・谷山衆との戦闘を挙げ、忠俊以下の家臣・子孫も継続して働いたとして、知行・恩賞の根拠を申し立てる。
天文廿一年十二月四日 / 冊子 904~905頁
島津貴久・忠将・忠親、北郷忠相・忠豊、島津幸久・忠俊らが一味同心を誓った連署起請文。家中の重要問題と領国内の争いを共同で協議・処理し、互いに隔心や裏切りを持たないことを定め、違反時の神罰を受ける覚悟を神仏に誓う。
永禄十一年正月~七月 / 冊子 183~184頁
永禄十一年正月、伊東勢が篠小峯に陣して飫肥本城を囲んだため、北郷時久が酒谷へ援軍を出し、二十一日に本城勢と挟撃して伊東勢を破ったことを記す。二月二十一日の兵糧輸送戦では北郷忠俊・本田親豊・土持頼綱ら多数が戦死し、酒谷・本城は飢餓に陥った。貴久の命を受けた北郷忠徳が和議を進め、六月に飫肥を伊東氏、福島を肝付氏へ渡し、七月に島津忠親・北郷時久らが都城へ退いた。
文永九年四月三日 / 冊子 273~274頁
平忠俊・平忠恒が太郎へ所領を譲る仮名書きの連署譲状。田畠・薗・狩倉などの家領を対象とし、親族・兄弟の扶持、訴訟を避けること、幕府・国衙の役に応じて家領を守ること、後日の違乱を禁ずる条件を申し置く。
文永九年四月三日 / 冊子 18~19頁/原整理番号 202
平忠俊・忠恒が平宗尊に、名田などの所領を譲った連署譲状。蘭房に関する分を除外し、譲受人に子がない場合の相続、忠俊を親父として孝養すること、上府・異国襲来時の参府や軍庭への供奉、違反時の返還などを条件とする。文永九年四月三日付。
永禄十一年正月~七月 / 冊子 187~189頁
永禄十一年正月、伊東氏が大軍で飫肥本城・酒谷間の篠ケ峯に陣し交通を遮断したことから、北郷時久が酒谷へ出陣して本城勢と挟撃し、一月二十一日に伊東勢を破った経過を詳述する。二月の兵糧輸送戦では島津・北郷方が敗れて多数が戦死し、本城は人肉を食するほど飢えた。北郷忠徳が和議をまとめ、六月八日に飫肥を伊東氏、福島を肝付氏へ渡し、七月に忠親・時久らが都城へ退去した。
慶長七年四月廿六日 / 冊子 813-814頁
恒吉八幡宮への法楽和歌。首夏風・早苗・村雨・夏月・夕立・旅恋・後朝恋などの題で、島津家臣らが初夏の景物や恋情を詠み連ねる。
年月日未詳 / 冊子 241~242頁
龍伯・家久をはじめ二十二名が、秋の月・露・虫・萩・旅宿などを題として詠んだ和歌会の詠草。各題ごとに歌人名と一首を掲げ、季秋の景物と旅情を詠み分ける。
年月日未詳 / 冊子 417~419頁
露、池水、月、雁、田面、雪、雲、春野、山寺、旅、恋、花などを題材として、多数の連衆が句を連ねた『賦朝何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 419~421頁
秋近い池、風、夕日、鳥、旅衣、月、野分、志賀の花、舟、恋、萩、蹴鞠の場など四季と旅恋を広く詠み継いだ別本の『賦朝何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 421頁
修行、恨み、待恋、竹垣、梅、谷水、鴫、秋風、月、庵、蚊遣火、別れなどを題材に連衆が詠み継いだ『賦初何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 421~422頁
松と梅、注連、春の野、川水、田面、山月、露、秋の葉、竹林、渡し舟など山野と農村の景を中心に詠み継いだ『賦山何連歌』。
年月日未詳 / 冊子 422~425頁
仁義、月、五月雨、滝、雲、旅、花、柳、茶、修学、師、梅、別れなどを素材に、漢句と和句を交互に付けて構成した大規模な漢倭連句。
本文末年紀(805の付弘安八等は年紀柱の刊本表示を保持):正安元年九月廿八日 / 冊子 510頁/原整理番号 八〇一/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0801
たかはらの田・溝口・およましの野園と原田のおよつほ五反について、一方・二方への配分を述べる。 ふる園・藤四らうの園・五藤三の園の三ケ所は三つに分け、東側の三分一を一方へ避ける。 はけう入道の園・同五らう二郎の園・北の藤内大郎の作り園の三ケ所も三つに分け、東側三分一を一方へ避ける。 西北の二分は二方に避け渡すと記し、平忠俊と證人郡司平忠連の判を載せる。
本文末年紀(805の付弘安八等は年紀柱の刊本表示を保持):永仁七年三月十九日 / 冊子 513頁/原整理番号 八一四/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0814
亡父忠行の売地である秋久名内の沽却田園等について、忠景と忠俊の訴陳を記す。 純忠の承諾を記し、「當知行内三分一」と「矢大夫入道作大増田冊中」の書付を挙げて避与を述べる。避与先・書付の帰属は留保する。 その田の押作物に違乱を及ぼしてはならないと記す。 不知行所の下地・押作物については寄り合って沙汰すべき旨を留保し、平忠俊が去状を作る。
文書本文の日付:正安元年九月廿八日 / 冊子 515頁/原整理番号 八一九/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0819
揖宿郡原田名田園についての和与状案。 本文は舎兄忠景と忠俊の相論を記し、忠景について小字に今者死去とする。 三分・難治・番訴陳に関する難句の後、和与の儀と分直之上者を記す。数量と処置の釈義は保留する。 分状等に従い、今後相互に違乱してはならないとする。
巻一/冊子 7~8頁
天文八年、貴久・忠良方が溪山方面を攻め、敵方の本城・神前・高城などを順次服属させた経過を記す。溪山駿河守・伊集院山城守・松崎丹後守らが降り、高城主鎌田加賀守も帰順したため、忠良は新納伊勢守らに城地を預けて支配を固めた。六月、貴久は自ら市来へ進み、平城を容易に破って陣所とし、大日寺前の合戦では喜入忠俊・樺山善久・蒲生宮内大輔らが奮戦して勝利した。入来院重聡も援軍を率いて来陣し、佐多・頴娃・蒲生・種子島・肝付・禰寝・伊地知ら諸勢力が加勢した。続いて伊集院忠明らの調略により串木野城・市来本城が帰順する。敵方の新納常陸守らについて忠良は、実久の暴虐に従っただけとして護送・保護を命じ、恩をもって怨みに報いたと評価する。
本文末年紀(805の付弘安八等は年紀柱の刊本表示を保持):永仁七年三月十九日 / 冊子 513頁/原整理番号 八一五/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0815
祖父忠行の時の秋久名内の沽却田園等について、忠景・忠俊の訴陳を記す。 承諾を記し、「彼賣地等三分一内當知行分」と「矢大夫入道作大増田冊中」の書付を挙げて避与を述べる。避与先・帰属は留保する。 当知行分を対象として避与を記し、不知行所をこれと分けて扱う。 不知行所は寄り合って沙汰すべき旨を置き、平純忠が去状を作る。
文書本文の日付:正安元年九月廿八日 / 冊子 515頁/原整理番号 八二〇/整理ID TMP-P03-NENE-WASEDA-D0820
揖宿郡原田名田園についての和与状案。 本文は亡父忠景と同舎弟忠俊との相論を記す。 三分・難治・番訴陳に関する難句の後、和与の儀と分直之上者を記す。数量と処置の釈義は保留する。 分状等に従い、今後相互に違乱してはならないとする。
年月日未詳 / 冊子 125~136頁/原整理番号 26
『吉富氏系図写』の中表紙に続き、頴娃三郎忠長の六男・薩摩六郎忠直を祖として、薩摩氏吉富流の諸家を近世後期まで展開する系図。薩摩郡本地頭、串木野若松・吉富名・羽島などの知行、加世田城・日州飯野・関ヶ原・目白坂等での軍役と戦死、朝鮮出兵・琉球渡海、加治木・帖佐・平松・蒲生・高岡への移住と奉公を記す。各代の通称・官途・入道名、妻の出自、養子・分家・家督相続、出生没年・法名・墓所のほか、御右筆、糺明奉行、物奉行、山奉行、高奉行、小番、進物番、横目、勘定方小頭、代官など近世の役歴を詳載する。本文は冊子p136で終わり、後続2頁の『諸家系図 三』表紙・収録氏名一覧は本系図に含まれない。
平安末~近世の記事(承久兵乱・寛元4年12月4日等) / 冊子 445~452頁/原整理番号 14
桓武天皇・葛原親王・高望王から国香・貞盛らを経て指宿氏へ至る平姓の長大系図。良時(伊佐平次)が武蔵国から薩摩へ下向し、阿多郡領を与えられた由緒を記し、三浦平大夫為通、鎌倉・三浦諸流との系譜を介して薩摩の諸家へ展開する。各系線には鎮守府将軍、伊予守・駿河守・隠岐守などの官途とともに、指宿本地頭、頴娃本地頭、薩摩郡本地頭、河辺本地頭、谷山郡司、水方名主、祁答院郡司等の職名を付す。承久の兵乱で京方に属したため河辺を没収された久道、兵乱時に戦死した者、市来や和泉で討死した者、鎌倉より薩摩守富澄討伐に下向して戦死した者など、中世の軍歴・所領喪失を系譜に織り込む。指宿・頴娃・薩摩郡・河辺・谷山・加治木・肥後菊池・阿多等へ枝分かれした多数の子孫について、通称・地頭職・郡司職・養子・婚姻・戦死を記し、近世の指宿郡司忠秀、加治木新六實平妻らまで系線を延ばす。
文書日付:永和三年十月廿八日 日付留保:日付字面は永和三年十月廿八日を保持。年号前記号・年数細画・正文年紀と補注の区分は未確定。 / 冊子 254~256頁/原整理番号 三一四/整理ID TMP-P02-NENE2-D0314
将軍家御方として同心し忠節を尽くす。島津伊久・氏久の降参が治定した場合、今後の両人退治には改めて公方御意を請うとする。 両人が御方に参っていても、一揆人の知行への競望・合戦時には、公方御意を待たず現地に馳せて防戦する。 所領相論などは合議し、多分の議と理運によって扱う。契約違背者への対応と、本領再住・恩地入部に公方御意・衆議を要することを定める。 「一揆衆中お憑楚忽沙汰候時者」には合力しないとし、公方への訴訟は理運により共同で申し立てる。違反には神罰を受けると誓う。