上野隼人覚書
年月日未詳 / 冊子 670-671頁
慶長五年の関ヶ原敗戦後、須木衆は島津方を迎えて日向へ進み、十月朔日に紙門寺を攻めた。俵屋原弥介との戦いでは十九歳の村尾長介と二十歳の上野彦九郎が負傷しながら敵を討ち、村尾笑栖が若者の働きを称えた。その後、上野隼人は細島で島津義弘(惟新)へ拝謁し、鹿児島清水で弓の技を披露した。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 670-671頁
慶長五年の関ヶ原敗戦後、須木衆は島津方を迎えて日向へ進み、十月朔日に紙門寺を攻めた。俵屋原弥介との戦いでは十九歳の村尾長介と二十歳の上野彦九郎が負傷しながら敵を討ち、村尾笑栖が若者の働きを称えた。その後、上野隼人は細島で島津義弘(惟新)へ拝謁し、鹿児島清水で弓の技を披露した。
年月日未詳 / 冊子 216頁
『殉国名薮』の記事。慶長十四年の琉球戦役で、首里城攻略などに際して戦死・殉死した梅北照存坊、小松彦九郎、山元弾右衛門らの名と没日・戦死地を記す。
延徳二年三月廿二日 / 冊子 548頁
延徳二年三月二十二日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者名と各人の疋数を列挙した記録。
〈宝暦四年〉二月十八日 / 冊子 463頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1406
御手伝普請役人名書に関連して、伊地知新太夫と川上彦九郎の本役を説明した届書の写。伊地知は人手が足りないため先に用人格と申し上げたが、本役は近習役であると記す。川上は同じ事情により元〆・普請奉行兼と申し上げたが、本役は普請奉行であると記す。人員不足による先の申告と本来の役職を説明する補足の届書である。原本は末尾に二月と記し、堀田相模守へ差し出したとの朱注がある。本文は二月とし、目録はNo.1405名書の提出日と同じ二月十八日とする。署名はこの範囲にはない。
〈宝暦四年〉閏二月 / 冊子 464頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1408
一色周防守へ差し出した御手伝普請役人名書に関わる届書の写。人員不足のため伊地知新太夫を先に用人格と申告したが、本役は近習役であると説明する。川上彦九郎も同じ理由で元〆・普請奉行兼と申告したが、本役は普請奉行であると説明する。No.1407の名書に対し、先の申告と本来の役職を補足する。No.1406の堀田宛添書と同じ趣旨だが、こちらの末尾は閏二月で、一色周防守へ差し出したとの朱注がある。本文に閏二月とあるが、日は記されない。本文範囲に署名はない。
〈宝暦三年〉十二月二十五日 / 冊子 429~432頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1331
重年公御譜の記事。宝暦三年十二月廿五日、西尾忠尚の奉書によって美濃・伊勢・尾張諸川の治水助役を命じられ、重年は平田靱負正輔と伊集院十蔵久東に担当させる。翌四年正月から川上彦九郎親英らを派遣し、美濃大牧村に役館を置く。正輔らは大阪・伏見で留守居と協議して銀師から借銀し、閏二月に大牧へ入る。記事は木曽・長良・伊尾・段海・牧田各川の分合流、輪中、堤・水柵・浚渫・閘の工事、四つの工区と担当者を詳述する。四年二月廿七日に初期工事を始め、同年九月から翌五年三月廿八日まで続く工事を完成させ、四~五月に検査を受ける。費用は芝邸からの伝聞で概ね金三十万両とする。正輔は五月廿四日に吐血し翌日死去、伏見大黒寺に葬られる。久東らが報告のため江戸へ向かい、重年の代わりに親戚の松平定多が登営し、治川の功に時服五十二を賜る。九月には堀田正亮が従役十三人を召して各々に差のある恩賞を与えた。
〈宝暦五年〉正月五日(目録・原本主書末尾) / 冊子 511~512頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1552
平田靱負が正月五日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請の工程・検分と人員引取の首尾を報告する。一~四之手の追加目論見により工事が進み、二・三之手は旧臘二十三・二十四日に幕府役人立会いの検分を受け、完成した工事の小屋返却と人員引取を求める。油嶋から松之木村まで百九十間の水分切は指示がなく、油嶋側五百五十間・松之木側百五十間の築留には見積変更で約五十間を加え、大榑川二百六十五間の切り・洗堰も未決とし、石田・八神の石寄せを急ぐが難場では三月までかかり得ると述べる。江戸の御馬廻・新番・御歩行・足軽からの派遣について、現場では足軽約四十人が不足すると伝え、太田新田の小屋は返却して人員を元木屋へ引き取り、早春の小屋返却・人員引取を年内に申し渡したこと、引取人数の不要分を吟味して追って差し下す旨を報告する。
〈宝暦五年〉五月十四日 / 冊子 527~529頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1596
平田靱負が五月十四日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請成就後の見分・木屋引払い・人員引取を報告する。牧野織部・細井九助らは四月十五日着、翌日から一之手を見分して二十一日に済み、石田を二十三日に見分、二之手は二十四日から五月十日、三之手は五月十二日までに済み、四之手も十二日に完成、十三日の金廻・葉名の見分が滞りなく済んだと述べる。木屋や家作・地面を返し、矢来・杭を取り払い、人員を江戸・国元へ引き取らせ、残る人数は木屋に収容して順次差し立て、役人らも近日出発する見込みであると知らせる。旅宿同然の現場に長く留まる不都合を受け、平田自身をまず江戸へ帰し、受負金の未払と元方の仕廻は追って調べるよう命じられ、伊集院十藏の十五日出発、平田の二十六日籠立てと役人の出発手配を記し、別紙を添えて江戸へも急飛脚で報告したと伝える。
至徳元年11月26日~慶安元年9月28日(犬追物記録)/後続系譜は元文4年まで / 冊子 469~479頁/原整理番号 15-1
島津氏久・忠国・立久・忠昌ら歴代当主の時代から、至徳元年十一月二十六日以降に行われた犬追物について、実施日、飫肥・福島・志布志・鹿屋・江戸王子などの会場、平田氏と伊地知・島津・北郷・本田・種子島氏らの手組を年代順に列挙し、慶安元年九月二十八日までを記録する。平田家が本名字『小松』を称さなかった事情、丸内二つ引を陰陽に見立てた陣幕紋として太郎左衛門代まで用いた由緒も付す。後半は平田氏諸流の系譜で、渋谷勢退治・平松岩剣・新納山城・高麗陣などでの戦死・戦功、知行・地頭職、婚姻・養子、没年・法名を記し、御記録所の照会に応じて旧記・系図・聞書を突き合わせた系図改訂記事を経て元文四年まで続く。
年月日未詳 / 冊子 831頁
文禄三年十二月十日、栗野で兵庫頭忠恒の御前に定められた人員移動と土地配置を記す覚書。上野彦九郎や吉田等松田弥蔵、飯野衆、多藤五郎などの移転先・召集・交代を列記する。 吉田・馬関田・小林・高原などの人々について、合計約百六十人をどこへ配置するかを具体的に示す。朝鮮出兵期の薩摩国元における家臣団の再編と土地支配を知る史料。
〈宝暦四年〉二月十八日 / 冊子 462~463頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1405
濃州・勢州・尾州川々の普請手伝に就く役人の一覧。惣奉行平田靱負、副奉行伊集院十藏、用人堀堀右衛門、近習役諏訪甚兵衛・伊地知新太夫、留守居佐久間源太夫・山澤小左衛門、普請奉行川上彦九郎、元〆役石川正右衛門、目付山元藤兵衛、場所奉行愛甲源左衛門・村田五右衛門・大野鐵兵衛・黒田次郎兵衛の十四名を、役職ごとに列記する。末尾は松平薩摩守名義で、朱注に宝暦四年二月十八日、堀田相模守へ差し出したと記す。重年公御譜中・扣正文在家老座の注を持ち、No.1406の伊地知・川上の本役説明と対応させる。
〈宝暦四年〉閏二月二十二日 / 冊子 463~464頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1407
濃州・勢州・尾州川々の普請手伝に就く役人の一覧。惣奉行平田靱負、副奉行伊集院十藏、用人堀堀右衛門、近習役諏訪甚兵衛・伊地知新太夫、留守居佐久間源太夫・山澤小左衛門、普請奉行川上彦九郎、元〆役石川正右衛門、目付役山元藤兵衛、場所奉行愛甲源左衛門・村田五右衛門・大野鐵兵衛・黒田次郎兵衛を列挙する。右のとおりとして閏二月二十二日、御名内岩下佐次右衛門名で結び、一色周防守へ差し出したとの朱注がある。No.1405の堀田提出本と同じ十四名を載せるが、こちらは日付・宛先・差出名義を区別する。続くNo.1408は伊地知・川上の先の申告職と本役の説明である。
宝暦五年九月十五日 / 冊子 575~576頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1714
島津主鈴が九月十五日、島津主殿・義岡相馬・鎌田典膳へ、川普請手伝いの完成に伴う褒賞と饗応を報告する。十二日に御座之間で十蔵が召し出され、続いて堀右衛門ら、彦九郎・次郎兵衛以下の役人も順に拝領し、紗綾の内訳を十蔵に十巻、堀右衛門ら五人に各五巻、彦九郎ら七人に各三巻と掲げる。拝領後には十蔵を近習番所、役人を御用人座へ案内して吸物と酒を賜り、以前の上野の普請手伝いの際にも奉行からの膳と能の見物があったと述べる。家中から祝儀を出して能を興行し、立入町人にも見物を許した旨も帳留に見えるが、今回は時節柄を考慮して前記の酒などを賜る扱いになったと知らせ、継豊への伝達を求める。
年月日未詳 / 冊子 203~206頁/原整理番号 69
孝元天皇を起点に武内宿禰・応神天皇・醍醐天皇を掲げ、紀道元・紀友則・紀貫之、紀古佐美らを経て紀姓宮里氏へつなぐ系図。正信は紀四郎太郎として初めて宮里郷を領し『御公事足六十町』、正家は紀太夫・郡司で宮里を号し『御公事足四十町』と記す。正氏・正行・正有ら郡司の系を掲げ、正有を足利尊氏将軍の時代と注記する。正継は若狭守、賀正は彦九郎・左衛門尉・前讃岐守とし、その代に宮里が没落したと記す。十一代正実、十二代正真(高江小太夫)、十三代正春、十五代正海以下を世代表示し、蓮秀院主・禅王坊・安養寺実相院・権大僧都などの寺院・僧職、道門房・道祐房・道円房・道光房等の房号、赤坂・堀切・嶋田などの名字を伴う多数の分流を展開する。後段では正宗の代にも宮里没落を記し、正直は日州飫肥で伊東与守方との合戦に討死したとする。正国は宮里播磨守を号して入来院家臣となり、女子の入来院本村殿への婚姻、正家・宗悟・性盛らの後裔までを収める。