征韓録
年月日未詳 / 冊子 516頁
明人の都司渭濱茅國科が薩摩に来て宇都宮弥三郎の旧宅に滞在し、島津忠長と書簡を交わしたのち、同年四月ごろ明国へ送り帰された経緯を記す。
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年月日未詳 / 冊子 516頁
明人の都司渭濱茅國科が薩摩に来て宇都宮弥三郎の旧宅に滞在し、島津忠長と書簡を交わしたのち、同年四月ごろ明国へ送り帰された経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 644-645頁
駒野近くで桂太郎兵衛と山田有栄が島津義弘(惟新)勢の殿を務める役を争った際、大野弥三郎が自ら引き受け、敵が来れば討死して時間を稼ぐと申し出た。のちに山田・桂の両名が追い付き、翌日からは一日交替で先導と殿を務め、道中の盗賊に備えた。
建長五年七月十日 / 冊子 219頁
法橋栄尊が西俣弥三郎へ所領を譲り渡す旨を記した短い仮名譲状。譲受人名、建長五年七月十日の日付と栄尊の判を伝える。
応長二年六月十七日 / 冊子 433~435頁
伴法忍が先祖相伝の所職・所領田畠を子弥三郎経兼へ譲った大規模な譲状。入来院塔原内大将倉・在廳給、清水寺院主職、南郷書生職、万徳名・宮里郷・水田・吉枝名など多数の田畠・屋敷・職を列挙し、一部の後家分や別譲分を区別する。永代相伝を認め、一期後の返付、譲状に背く場合の処置も定める。
応長二年六月十七日 / 冊子 435~436頁
入来家臣武光氏蔵の譲状で、法忍が弥三郎経兼へ所領・所職を譲ったもの。入来院塔原内大将倉、清水寺院主職、南郷書生職、万徳名・吉枝名・宮里郷などの田畠・屋敷を列挙し、娘や一族への別譲分を除外、一期後の返付や違乱時の処置を定める。
元弘三年十一月九日 / 冊子 619頁
渋谷弥三郎入道後家舜阿の当知行地について、相違なく領掌させるよう命じた後醍醐天皇の綸旨。
建武元年十一月十八日 / 冊子 629頁
入来院上副田村地頭職半分について、白浜三郎入道・寄田弥三郎・牛屎郡司入道らに協力して所務を沙汰するよう命じた島津貞久書下。
建武3年6月 / 冊子 252頁/原整理番号 88
建武三年六月、薩摩国御家人の和泉杉三郎入道道悟が、軍忠の注進と恩賞を求めた軍忠状。五月七日の大隅国肝付郡加世田城大手城戸口合戦では子息らを率いて一番に先懸けし、堀口へ攻め寄せて逆迎えを切り払い、子息弥三郎保右が左股を射抜かれた。翌八日の合戦では旗差六郎丸が左小肘を射られ、島津六郎、山野彦四郎入道道井、伊作田兵部丞が軍忠を見知し、二十三日の野崎懸合戦でも奮戦したとして、島津貞久が「承了」の判を据える。
建武4年4月 / 冊子 252~253頁/原整理番号 90
建武四年四月、薩摩国の和泉杉三郎入道道悟が、大隅国加世田城・野崎城合戦で重ねた軍忠に対する恩賞を求めた軍忠状。前年三月、将軍家の鎮西下向に際して大宰府へ馳参し、肝付八郎兼重以下の凶徒誅伐を命じる御教書を受けて島津上総入道道鑑に属し、五月六日に加世田城へ押し寄せ、七日には子息らを率いて大手城戸口へ最前に攻め、逆迎えの敵を切り払った。この時、子息弥三郎保右が左股を射抜かれ、翌八日には旗差六郎丸が左小肘を射られ、二十三日の野崎懸合戦でも戦って両城を追い落としたと述べる。軍忠は島津六郎・山野彦四郎入道・伊作田兵部丞が見知し、道鑑の一見状でも明白であるとして、建武三年三月二十八日の将軍家御教書と同年六月の道鑑一見状を副進し、度々の軍忠に任せて恩賞に浴し弓箭の面目を施したいと訴える。
正月廿日 / 冊子 340頁/原整理番号 4の1
頴娃久甫が、重久越後と養子弥三郎父子の奉公実績と家伝文書を挙げて申し立てた口上覚。龍伯・惟新に従った経緯と道鑑の文書九通などを示し、重久跡目の筋目を理由に外城養子の許可を求める。
十月廿一日 / 冊子 386頁
俊秀・俊与が肥後弥三郎へ、代銭三貫文を受けて、代々相伝のはた井田四反を本物返しの質地として入れた連署質券。元金を返せば取り戻すこと、年々の本公米などの条件を定める。
建武四年十二月日 / 冊子 703~704頁
河田智門房慶喜が市来城攻めで軍忠を尽くした軍忠状。七月十五日の市来発向、八月一日の攻城での負傷、同四日の伊集院石谷での戦闘、九月十九日の再攻城で親類河田弥三郎家弘が討死したこと、城内への追拂いを列挙し、大隅式部三郎らの見知と証判を求める。
暦応四年九月日 / 冊子 743~744頁
和泉杉弥三郎保三が、伊集院・阿多郡などへ発向し、数度の合戦で太刀打ちして負傷した経過と一族の戦功を述べ、島津貞久の証判を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 50~51頁/原整理番号 49の5
谷山郡内山田への入部をめぐり、山田右京亮が親類の式部常陸守・舎弟左馬助と相談したが異見が生じた経緯を記す。伊地知新左衛門尉らが夜に谷山方を攻め、鹿児島への通路を断ち、常陸守と弥三郎が討死したという。伊地知新左衛門尉・井ノムレ衛門四郎らが上下三、四十人を討ったと続く。氏久は鹿児島で事態を聞き、山田への競望を道に背く行為として戒めたと伝える。
応永二年二月二十九日 / 冊子 214頁/原整理番号 547
応永二年二月二十九日の大追物手組。伊東殿、島津又三郎、島津越前守、稲津弥次郎、伊東伊豆守、島津弥三郎、島津修理亮、野村源五、湯地五郎四郎、鹿屋周防介、島津殿、伊東遠江守を組み合わせ、検見を島津上野入道とする。旧記雑録前編所収文書と同一と注記される。
天明四年七月二十九日 / 冊子 746頁/原整理番号 2103/整理ID 2103
島津重豪が、妾腹の娘が病死したため、七歳未満の先例に従い翌月朔日まで三日間遠慮すると届ける。七月二十九日早朝に留守居渋谷五郎右衛門を通じて御用番久世大和守へ提出し、牧姫の死去について西丸老中鳥居丹波守へも口頭で伝えた。西丸への届出は通常の先例にはないが、当時の縁女との関係から行ったと記す。
観応元年八月二十一日 / 冊子 259~260頁/原整理番号 24の6
大蔵頼平が薩州郡山城へ寄せた大隅助三郎入道以下との十八日から二十日までの合戦で、親類・若党・中間が負傷・戦死した軍忠を申告し、証判を求めた軍忠状。末尾の考証は、猿渡家に伝わる複数の一見状が同文書の重複伝来である可能性を検討する。
文書本文の日付:未確認 / 冊子 570頁/原整理番号 五一/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0051
行存による神王面衣裳の破損、殺害以下の狼藉について、下手人等の交名を注進する。 一人ごとの名前に院田分・同名分・名主等の小字を添えて二列に列記する。 数十人いるが、注文する暇なく、下手人等の交名を粗く挙げて結ぶ。 裏書の新田宮執印又三郎所進、継目裏判、下段の「右同」花押は、本文名列と区別する。
建武三年六月日 / 冊子 668頁
薩摩国御家人和泉杉三郎入道道悟が、五月七日の大隅国肝付郡加世田城大手城戸口合戦で相具した子息らと先懸し、子息弥三郎保有が射疵を負うなどの軍忠を報告した軍忠状。注進・披露と恩賞を求める。
延慶二年十一月廿六日 / 冊子 428頁
薩摩国武光弥三郎経兼と宮里八郎正有が、郷里岡名内田地参町・屋敷壹所の所当公事等を争った相論について、陳状・請状・証人を検討し、守護人下野前司入道に和与を執行させた鎮西下知状。
正和元年十一月廿一日 / 冊子 439頁
源氏女代義行が、みついへの尼と河田弥三郎との河田所領相論を和与した文書。河田の田屋敷・米の分配、双方が先の和与状を取り消して新条件に従うこと、後日の違乱を禁ずることを定め、源氏女の意思に基づく和与であるとする。
正和元年十一月廿八日 / 冊子 439~440頁
比志島忠範が河田弥三郎・源氏女方との河田所領相論を和与した文書。田屋敷と年貢米の配分、以前の和与・申状の扱い、双方が境界・収益を守ること、後日の違乱を禁ずることを定めた。
元応三年三月日 / 冊子 477頁
上神殿迎祐が、伊集院郡司弥三郎宗継による下神殿内田地・荒野・常念薗等の押領を訴えた重申状。和与下知に背く所行、使節請文の焼失、度重なる未実検を挙げ、使節派遣と所領回復を求める。
年月日未詳 / 冊子 554~555頁
新田宮権執印をめぐる訴訟で証言した人物の交名注文。副田北屋・寺尾・高城郡・各地頭代、武光弥三郎、郡司・宮里郷地頭らを地域・役職ごとに列挙し、証人となる武士・寺社関係者の構成を示す。
建武二年二月卅日 / 冊子 633頁
薩摩国の内裏大番役を勤仕すべき御家人の別交名注文。大隅二郎三郎、渋谷氏・矢上氏・比志島氏・光富氏、式部孫五郎入道、周防蔵人三郎、朝臣弥三郎らを列挙する。
文和三年六月日 / 冊子 852頁
知色城落城時に最前へ馳せ来て忠節を尽くした味方を列記する交名注文。下野尾張守、上総弥三郎、大野三郎次郎、渋谷彦河守、山門彦次郎、市来弥次郎太郎らと一族・被官を挙げ、攻城参加者の構成を示す。
建久9年3月12日 / 冊子 516~517頁/原整理番号 27-1
建久9年3月12日、大隅国の御家人を上覧に供するため、国方・宮方に分けて氏名と職掌を注進した交名。国方には税所篤用、曽野郡司篤守、加治木郡司吉平、執行清俊、河俣新大夫篤頼、弥三郎大夫近延、木房紀太郎良房を挙げ、宮方には田所宗房、小河郡司宗房、帖佐郡司高助、東郷郡司時房、佐多新大夫高清、祢寝郡司、西郷酒大夫未能らを列挙する。さらに政所守平・権政所良清・修理所・執行大夫助平などの職掌と、源大夫利家、脇本三郎大夫正平、栗野郡司守綱、太郎大夫清直、矢太郎種元、六郎大夫高清、嶋四郎近延、小平太高延、新大夫宗房、肥後房良西、三郎大夫近直らを記す。正本は大隅国宮内の社家にあると付記し、本文は『旧記雑録前編』一七八号文書と同文である。