比志島義勝軍忠状
応永十五年十月十一日 / 冊子 230頁
比志島義勝が、薩摩郡へ馳せ向かい平佐城で合戦し、凶徒を敗走させて同城を攻め落とした軍忠を注進し、遠国往復のため報告が遅れたことへの理解を求めた軍忠状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
23 件 (全巻)/ 1–23件を表示
ページ 1 / 1
応永十五年十月十一日 / 冊子 230頁
比志島義勝が、薩摩郡へ馳せ向かい平佐城で合戦し、凶徒を敗走させて同城を攻め落とした軍忠を注進し、遠国往復のため報告が遅れたことへの理解を求めた軍忠状。
年月日未詳 / 冊子 318~319頁
平佐城が豊臣方の攻撃を受けた際、城兵が門・櫓・城壁の持ち場で応戦した経過を記す原田市兵衛の書。寄手の大将小出大隅守らに対し、少人数の守兵が鉄砲・刀で戦い、討死・負傷者を出しながら城を支えた。平佐城攻防の配置と被害を伝える実戦記録である。
応永十五年十月十一日 / 冊子 298頁/原整理番号 127
比志島義勝が御奉行所へ、薩摩郡の平佐城へ出陣して合戦し、城を攻め落として敵を敗走させたと報告する軍忠状。遠国で日数を経て言上が遅れたことへの配慮を求め、軍功を披露してほしいと請う。
年月日未詳 / 冊子 226頁
『島津国史』が、応永十四年四月六日に久哲公が平佐城で六十一歳で没したこと、守護職と家宝の伝承、長子守久をめぐる総州家の衰退、元久と忠朝の平佐城攻防と忠朝の退城などを記す記事。異なる史料の没日異説も小字で注記する。
年月日未詳 / 冊子 227頁
『応永記』が、応永十三年の田布施城没落、翌十四年の総州の死去、雍州による平佐城の接収、島津元久の大軍進攻と忠朝の退城を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 227頁
島津恕翁譜が、島津伊久法師久哲の死後、二男忠朝が薩摩国平佐城に拠ったため、島津元久が守護の敵として軍勢を率いて同城を攻略し、忠朝方の碇山兵部太輔らを討ち取った経過を記す記事。
天文元年十二月吉日 / 冊子 713~714頁
薩摩郡平佐城退治に際し、入来院重朝が清色城堀口井手の地を松林寺同宿中へ寄進した一家文書。平重副・樺山融久・山口木工左衛門尉らが関係し、城中の安穏と武運長久を祈念して、寄進地の守護・祭祀と妨害排除を寺側に依頼する。
天正14年11月11日 / 冊子 265頁
平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給を定めた掟書。二日につき三度、各人へ七合五勺ずつ渡し、御蔵入から支出すること、普請用物は触れに従うことを命じる。北郷作左衛門・相良新右衛門が取り仕切り、滞りなく調えるよう求めた、築城現場の給食・物資管理を示す文書である。
天正14年11月11日 / 冊子 266頁
No.210と同文のため本文を省略したもの。平佐城普請の人夫へ二日三度、一人七合五勺ずつ兵糧を支給し、御蔵入から費用を出すことなどを定めた掟書が、別の文書群にも収められていたことを示す。
年月日未詳 / 冊子 296~297頁
天正十五年四月二十五日、豊臣秀吉が川内の太平寺へ着陣し、西国諸将の大軍と舟橋で人馬を渡した。平佐城へ降伏を迫ると、城方は「賢人は二君に仕えず」と旧主への忠義を理由に拒絶。二十八日には城門・藤崎小路で激戦となり、高木帯刀・谷山紀伊守らが奮戦して京衆・在地衆を感嘆させた。
年月日未詳 / 冊子 323~324頁
島津軍が豊後へ進出したのち、豊臣秀吉の大軍来援を受けて日向・肥後の二路から撤退するなか、桂忠昉が肥後路を退き平佐城へ入った経過を記す。秀吉方の小西摂津守・脇坂中務少輔・九鬼大隅守らが平佐城を包囲すると、城兵は討死を覚悟して抗戦し、高田橋安藝・阿久根權介らも城門で奮戦した。忠昉は落城後に秀吉へ出仕し、その剛勇を認められて宝刀を賜ったといい、九州征伐末期の平佐城攻防を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 333頁
天正十五年五月十八日、義久が太平寺から平佐城へ移った後、新納忠元は島津家が秀吉へ降参したことを「何より口惜しい」と強く反発した。義久は、家久の降参や伊集院右衛門大夫を介した和平がすでに進み、従わなければ島津家滅亡の原因になると説得する。忠元はやむなく降参し、秀吉から長刀一振、さらに道中で道服と扇を直接与えられた。敗将の抵抗感と秀吉による厚遇を伝える逸話的な覚書。
年月日未詳 / 冊子 343頁
豊臣秀吉が太平寺から平佐城へ本営を移した後、島津義弘が山崎・鶴田を先導として秀吉に拝謁したことを記す。義弘は父子へ大隅国と日向国真幸院を与えられた厚恩に謝し、飯野へ帰還した。九州国分直後の義弘の所領安堵と服属儀礼を示す。
年月日未詳 / 冊子 343頁
豊臣秀吉が6月12日に太平寺から平佐城へ移り、祁答院・菱刈院・牛屎院を経て肥後へ出て、筑前博多から帰京しようとした経路を記す。15日には島津義久が鹿児島を発って秀吉を追い、京都の聚楽へ赴き、島津忠長も随行した。降伏後の義久らの上洛過程が分かる。
(慶長六年)十一月十一日 / 冊子 787頁
伊勢貞成が、平佐城普請などに関わる定められた負担・納入について、命令どおり遅滞や不足なく納めるよう宮路三之丞と鬼塚主税介へ命じた掟書。
五月廿二日 / 冊子 45頁
原田市兵衛が、天正十五年の平佐城攻めにおける祖父原田帯刀の軍功を申し立てた文書。籠城戦で寄手の大将九鬼八郎を弓で射たこと、直後に和談となり、矢をめぐって小出大隅守方の家老らが確認した経緯を述べる。
十一月十一日 / 冊子 45頁
伊勢貞成が、平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給について鬼塚主税助・宮路三之允へ達した文書。一日三度、一人につき七合五勺ずつ支給すること、蔵入から用米を出し、普請衆は触れに従うことを命じる。
十一月十一日 / 冊子 113(本文はNo.124・冊子頁45参照)頁
伊勢貞成が、平佐城普請に従事する人夫への兵糧支給について鬼塚主税助・宮路三之允へ達した文書。一日三度、一人につき七合五勺ずつ支給すること、蔵入から用米を出し、普請衆は触れに従うことを命じる。No.124と同文。
(慶長6年か)11月11日 / 冊子 70頁/原整理番号 61
伊勢貞成が平佐城普請について二か条を定め、兵糧は一日三度・一人七合五勺ずつとする。御蔵から出す用物と普請関係の扱いは北郷作左衛門・相良新右衛門の指示に従い、怠りなく納めるよう鬼塚主税介・宮路三之丞へ命じる。行間朱書には年代や城修築の背景に関する推測がある。
建久9年、正平6年12月23日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 62
薩摩国在国司・大前氏東郷斧渕氏の系図。敏達天皇の後胤・橘諸兄の苗裔とし、道胤は幼名菊王丸、東郷弾正少弼・左衛門尉、西前寺殿、法名慈寛を称し、東郷城に居住、建久九年に上洛して内裏大番を勤めた。道武は菊寿丸・兵衛尉・武蔵守、西前寺殿、慈光で、妻を山門院郡司秀忠の女とする。道義は平太郎・蔵人・弾正少弼・摂津守、斧渕を号し、西前寺殿・慈道。正平六年十二月二十三日に渋谷九郎重興が軍勢を催して戦った記事を伴う。道長は平次郎・弾正少弼・相模守、西前寺殿・慈法で、道張(山田)から道久・道宗(荒川)へ分かれる。道将は平六郎・弾正少弼・相模守、西前寺殿・慈徳で、道重へ続く。後半は道盛、道真(今村兵部太夫)と道時・道実(藤川)の系、道信、良道を掲げる。道信は大泉坊・不動院として平佐城・樋脇天神坊に住み三十五町を領し、法名仙香、八十二歳で没した。良道は源五郎・神力坊・不動院で入来院重時の家臣となり、子孫を入来院家臣・斧渕仁兵衛とする。
年月日未詳 / 冊子 297頁/原整理番号 123
『応永記』が、応永十三年に田布施城が没落し、翌十四年五月四日に総州伊久が六十二歳で死去したと記す。忠朝も没落し、薩州平佐城で踏みとどまろうとしたが、元久の大勢が山を越えて来たため敵対に及ばなかったという。
年月日未詳 / 冊子 297頁/原整理番号 124
元久譜が、上総介伊久法師久哲の応永十四年五月四日の死去後、薩摩州平佐城にいた二男忠朝を守護への仇として兵を率いて攻め、城を陥したと記す。碇山兵部大輔、長野備前守、勝部摂津介、市来又左衛門尉、中間五郎九郎、石塚讃岐守らを斬獲したという。
応永二十八年十一月十五日 / 冊子 254頁/原整理番号 1
島津忠朝が宮子若狭守に「久種」の名を与えた名字状。付随する系譜注には、相馬氏系図の川内平佐城での自害記事を軍記と照合して疑問を示す注、久照の法名、忠氏の出生・没年、忠長の母・出家と還俗などを記す。