島津忠隣譜
天正十二年 / 冊子 968頁
島津忠隣が天正十二年、十六歳で猶子となり、出水から祁答院へ移ったことを記す。
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天正十二年 / 冊子 968頁
島津忠隣が天正十二年、十六歳で猶子となり、出水から祁答院へ移ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 195頁
島津忠隣譜の記事。筑紫進攻で副将となった忠隣は、七月六日の鷹取城攻撃で外門へ迫り、強敵と槍を合わせて八か所余りの傷を負いながら生還した。家臣の脇元城介は忠隣をかばって一歩も退かず討死し、河上左京亮も同日に戦死した。翌七日には忠隣が板添口から岩屋城へ直進して攻略に加わったと記し、忠隣本人が岩屋城で戦死したわけではない。
年月日未詳 / 冊子 315頁
四月六日、羽柴秀長が二十万騎と記される軍勢を率い、高城・財部間の五十一か所へ陣を構えた。義久・義弘は都於郡で援兵を整え、十七日の根白坂合戦で島津忠隣らが進撃したが、忠隣以下三百余人が戦死した。高城攻防の損害と忠隣の最期を記す譜記事である。
十一月十日 / 冊子 205~206頁
島津忠隣が阿多若州老に、いしん様への酒進上の意向、当地や紀州の情勢、中嶋から届いた兵糧夫役の件などを知らせた書状。兵糧・人夫の扱いは国の定めに従い、少数の私的な者だけで処理せず、内容を他言しないよう慎重な対応を求める。
永禄十二年三月十三日 / 冊子 213~214頁
島津義虎の二男忠隣に関する系譜記事。永禄十二年三月に出水屋地で生まれ、男子のなかった島津歳久の嫡女と婚姻し、歳久家を継承したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 288頁
豊臣秀長が二十万騎と記される大軍を率い、四月六日に日向高城・財部間へ五十一か所の陣を構えた。十七日の根白坂合戦で島津方は敗れ、島津忠隣ら三百余人が戦死。興山上人・安国寺・一色駿河守の説得を受けて義久は和議を受諾し、伊集院忠棟を人質として秀長本陣へ送った。五月一日の開陣と義久・義弘の帰国までを記す、九州征伐終結過程の重要記事である。
年月日未詳 / 冊子 303頁
秀吉の進発後、豊臣軍は山田有信の守る高城を包囲した。四月十七日、島津方は根白坂の豊臣陣へ夜襲し、宮部法印の陣を破ったが、黒田官兵衛らの反撃で大敗し、島津忠隣以下多数が戦死。敗戦後は伊集院忠棟を人質として差し出し、豊臣秀長の本陣で和睦が成立する。高城攻防の転機を伝える重要記事である。
年月日未詳 / 冊子 324頁
羽柴秀長が二十万余騎を率いて日向高城を包囲し、島津方が守備兵を増強したのち、四月十七日に根白坂の豊臣方陣地を攻撃した経過を記す。島津忠隣ら三百余人が戦死する大敗となり、島津義久は「天による敗北」と嘆いて和議を決断、伊集院忠棟を人質として秀長の陣へ送った。義久が鹿児島へ、義弘が飯野へ帰り、秀吉への出仕を促されるまでを記す九州征伐の転換点となる譜記事。
年月日未詳 / 冊子 587~591頁
根白坂合戦の敗北と忠隣らの戦死後、秀吉の九州平定に服さなかった歳久が背反を疑われ、病身のまま追討を受けて竜ヶ水付近で最期を迎えるまでを記す。 白浜次郎左衛門が義久の命を伝えると、歳久は駕籠・船で移動するが、家臣らは追手と戦い、多数が主君に殉じた。義久による葬送・供養、竜伯の哀悼と秀吉の処断への批判まで収め、歳久事件の経過と後世の評価を伝える中核史料である。
年月日未詳 / 冊子 386頁
薩州島津氏の系譜を図示し、忠辰・忠隣・忠清・忠栄らの系統と、久基、久弘、久近らへの分岐を示す。各人の通称・官途として又太郎、三郎次郎、備前守、越前守、民部少輔、弥市郎などを付記する。
年月日未詳 / 冊子 741~742頁
島津歳久一流の系図。忠隣室となった娘、忠隣戦死後に入来院重時へ再嫁した女性、北郷三久室から離別後に伊集院久洪へ再嫁した女性など、歳久の娘たちの婚姻・再婚と母方を記す。
年月日未詳 / 冊子 325~326頁
豊臣軍の九州進攻を受け、府内にいた島津方が軍を日向路・肥後路の二手に分けて撤退したことから説き起こす。島津忠長は義久・義弘に従って根白坂の豊臣方陣地を攻めたが、島津忠隣ら三百余人を失って敗北し、伊集院忠棟を人質に和議を結んだ。その後、義久が剃髪して龍伯と号し太平寺で秀吉に出仕したこと、忠長も剃髪して紹瑛と号したことまでを記す。
年月日未詳 / 冊子 197~198頁
秋月種実が、豊後へ進むにはまず筑前の岩屋城を落とすべきだと進言したことから説き起こし、島津軍が城を包囲して総攻撃に移るまでを記す。岩屋城では高橋紹運方が鉄砲・石・長刀などで激しく抗戦し、島津方も多数の死傷者を出した。樺山忠助も城際で負傷しながら退かず、家臣に救われたことを含め、攻城の戦略と個々の戦闘を結び付けて伝える。
年月日未詳 / 冊子 245~246頁
新納忠元勲功記。忠元が十六歳から島津氏に仕え、多くの合戦で先陣・一騎討ち・首級獲得などの武功を重ね、身体に十九か所の傷を負ったこと、子孫も軍功を立てたことを列挙する。
年月日未詳 / 冊子 247~248頁
島津忠清譜の記事。関ヶ原後に肥後熊本へ移った忠清が島津義久の招きで慶長十四年十二月三日に子女を伴って阿久根へ帰国し、娘が島津家久の室となって光久を生み、忠清が厚遇されたことを記す。